五 第三の作家、現る
「……またね、って?」
「さあ、なんでしょう。彼女は予見の力を持つ姫君です。もしかしたら、私たちには知り得ぬ未来が視えていたのかもしれませんね」
息が切れるまで三人で遊び続けて、風景が完全に元の高尾山に戻った頃、幼い姫君は消えていた。
石の前には太ったタヌキがちょこんと座っている。
「おお、タヌキの姿に戻った!」
「中に高尾姫はもういません。彼女の躯を食べたという獣の本体です。生きたまま物の怪となったので、姫君が離れてもタヌキ分の寿命が残っているのです」
「純正のタヌキか……。もともと高尾山生まれですよね。置いていきます?」
「数百年経った土地でいまさら居場所はないでしょうから、連れ帰って自室で飼います。冬の独り寝は肌寂しいですからね。寒いですし」
「ボク、画期的な商品知ってるんで紹介しましょか。布団っていうんですけど」
さて、と八雲はいつかの夜のように、右の手のひらを上に向けた。
武器を形容化したり、肉体を強化するときの文字はインクの色と同じだ。しかし、『憎悪』と書かれたこの部分だけは透きとおった乳白色で刻まれている。
「ふむ、虎丸君、あなたの言ったとおりだったようです。『憎悪』の感情を回収できませんでした。つまり、アンナ・カレヱニナに憎しみは残っていなかったことの証明ですね」
「せやから言うたでしょ~。この白い字って特別なやつなんですか?」
「はい。感情を吸収する媒介のような役割で、他の文字とは異なり時間が経っても消えません。刻めるのは私だけです。数少ない部長業務というところですかね。感情はすぐ混ざってしまうので、純粋な結晶を抽出するために五人の部員それぞれに担当を割り振っていて──」
「えっ」
重要なのはそこではないが、ついつい気を取られて八雲の解説をさえぎった。
「ってことは、紅ちゃんのふとももの文字も八雲さんが……?」
「それがどうかしましたか」
「うらやま……けしからん……。や、なんもないでーす」
タヌキがトコトコと歩いてきて、青年たちの足に頬をすりつけている。以前と姿は同じだが、このアンナ・カレヱニナは人間に慣れているだけの普通のタヌキだ。
本体のほうもタカオ邸のにおいを覚えているらしく、地面を嗅ぎながら先導して歩きだした。
「もう、『高尾姫』の物語に書かれとったみたいな、憎しみに捕らわれた化けタヌキはおらへんのですね。タヌキ姫はタヌキの国に帰りました、めでたしめでたしと」
「
「四年もの間アンナのために登山してたんはオレやなくて、八雲さんですよ」
「あなたに言われなければ、私はずっと彼女の気持ちを知ることはできませんでした。たったひとりの想いで、大勢に踏みにじられた者を救うことができるなど──まさか穢れを知らない虎丸君に、愛についてご指導賜るとは」
と、八雲は少し意地悪く微笑む。
「ちょ、いつもの調子戻ってきましたね。なにも男女関係だけが愛じゃないですやん! 家族とか友人とかあるでしょ~。うちは父親と仲悪いぶん、オカンには世話かけましたからねぇ。紅ちゃんと茜ちゃんもふたりやから強く生きてるし。八雲さんは、家族いてるんですか?」
「──さぁ」
「今のさぁは答えたくないのさぁですね! もぉわかりましたよ、聞きませんよ~」
帰りは下り坂なので行きより早い。日が沈んで真っ暗になる前には、無事タカオ邸の青い尖塔が見えてきた。
裏庭にたどり着いたところで、唐突に八雲が話を切りだした。
「以前、私たち新世界派が感情を集めている理由について聞きましたよね。もし、私たちの扱う文字のような不思議な力が使えるとしたら、あなたならどうしますか?」
「んーと、お金稼ぎに使います!」
「そう、私利私欲を満たすため悪用する者が必ず現れます」
「悪い例をだして、なんかすんません……」
しかし虎丸のあこぎな発言は気に留めていないようで、平坦な、無機質な声で八雲は言った。
「
「……禁忌?」
「そのせいで、かつて仲間と袂を分かったのです。力を悪用する者と、止める者で」
ほほう、と虎丸はわかった気になって軽い気持ちで返答した。
「詳細はわかりませんけど、八雲さんたちはつまり悪と闘ってる正義の味方なんですねぇ……。オレの思ってたとおり、やっぱり案外いい人なんやな──」
「残念ながら、私たちは悪用しようとしている側ですね」
「え」
まさか今までの流れでそう来るとは。
今回のアンナ・カレヱニナの件でも、八雲はわかりにくいだけでものすごくいい人だったのだと、改めて感じていた虎丸は驚くしかない。
「えっと、悪いことしたらいけませんよ? でも、オレはやっぱり八雲さんや紅ちゃんが悪人とは思えへんし……。世間的には悪いことだとしても自分らの正義を貫くためとか、そういうあれを期待しますよ?」
「ご期待に添えず申し訳ありませんが、そういうあれではなく露骨に悪事です」
「ええ~。世界征服とかするんですかぁ。ちょっと、いきなり言われても判断できへんですわぁ。あれ、食堂がめっちゃ騒がしいですね」
「ああ、誰か戻ってきているようですね。あの明るい空気は、だいたい想像がつきます」
キッチンではちょうど夕食の準備中らしく、焼いた肉とシチューのにおいが食堂まで漂っていた。
席についてお茶を飲んでいたのは紅と、初めて見る長身の青年だ。
「……異人さん??」
軽くウェーブのかかった柔らかそうな髪は、生まれつき明るい茶髪の虎丸よりさらに透きとおった色をしている。八雲と紅も人並みより色白だが、その青年の肌は日本人とは若干質の異なった白さだった。瞳の色はグリーン、そして彫りの深い顔立ちだ。
何度か見たことのある異人と比べると浅い気もするので、もしかすると混血なのかもしれないと虎丸は思った。
「あ、ぶちょー帰ってきた。ジュリィ、隣にいるのは虎丸な。えーと、むっつり編集者」
紅の雑な説明を聞いた青年は立ちあがり、虎丸に近づいてくる。立つとなおさら背が高く、少し見上げなければならないほどだ。
異人風の青年は天真爛漫な笑顔で、虎丸の右手を取って握りしめた。
──うわ、どうしよ。ハロウって言うとけばええかな。陽気っぽいしゼスチュアとノリと雰囲気でなんとなく押し通せるやろ。質問されたら全部イェスって答えとこ。
そう構えていた虎丸の耳に入ってきたのは、思いもよらない言葉だった。
「ボンジュウル!」
「ボ、ボンジュウル……」
まさかの
虎丸は呆気にとられ、その挨拶をただ繰り返すしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます