四 千年越しの命日

「──間違っている? 私のやり方と認識が、ですか」


 八雲はいつもの無表情に加え、目を丸くして虎丸の進言を繰り返した。


「どういう意味でしょう。どうするべきか、虎丸君にはわかるのですか?」

「素人が口出して申し訳ないんですけどね。さっきから見てたら八雲せんせ、ちょーっと勘違いしてるんとちゃうかなって思ったんで」

「渦中にいるからこそ気づかないこともあります。それに、あなたがいうのならば聞いてみたいです」


 問い詰めるような口調だが怒りは含まれていない。普段の扱いはぞんざいでも、八雲なりに虎丸を評価しているらしい。否定はせず、正直に聞きたいと言った。

 襲いかかってくる死霊の太刀をさばきながら、虎丸は言った。


「とりあえずこの武士ら倒さな邪魔なんで、待っててくださいね! しっかし多すぎて面倒ですわぁ。伝播とか伝導とか、そういう意味の文字付けれたりしません?」

「伝播──ああ、なるほど。では」


 虎丸の意図を理解して、八雲はペンを取り出し、



 波及はきゅう



 という文字を木刀に追加する。


「あざっす! 操觚者そうこしゃの人らって、どんな基準で言葉を選んでるんです?」

「小説を書くときと同じです。自分にとって、しっくりくる語彙というだけですよ。他の者であれば『流れ弾』と書いた可能性もあります。コウなら『もらい火』でしょうかね」


 新しい文字を添えられた武器を構えて、虎丸は目を閉じた。似た意味を持つ言葉であれば効果も似ているのだろうが、現れかたは微妙に違うのではないかという気がする。



 ──この文字なら多分、こうすんのが正解!



 『波及』という言葉が持つ、波紋が広がっていくイメージを思い浮かべ、真下の地面に切っ先を突き立てた。


「うおりゃ!!」


 虎丸を中心に、荒れた大地が扇形に波打ってさざなみのように走る。

 末に向かうほど拡大していく衝撃が残っていた五十の死霊を一瞬にして吹き飛ばした。


 予想をはるかに超えた効果に、八雲は驚いて言った。


「なんとまあ。器用な人ですね。武術の心得がある者特有の勘でしょうか、的確に言葉の印象を捉えて利用しています。私は文字を書けてもそんなことはできません」

「ゼロから作り出すのは小説家ですけど、できあがった作品を生かすのは編集の仕事なんです! このくらい当然っすわ!」

「もはやこじつけですが、まあいいでしょう。ところで先ほどの話は──」

「あせらない、あせらない」


 虎丸は白い歯を見せて笑うと、幼い姫君に向かって言った。


「よし、アンナ! いや、高尾姫たかおのひめか。ちょっとオレと話せえへん? ほらほら、なんか喋ってみて」


 名を呼ばれた姫はぱっちりと目を開けて、虎丸を見上げる。


「無理です。なにぶん時代が違いすぎて、話し言葉も発音も現代と異なりますので、通じていないようなのです。私も幾度となく話しかけてきましたが、直接話をできたことは一度も──」


「あんなでいい。それがいい」


 小鳥がさえずるように、平安の召し物で着飾られた小さな姫は言った。


「あ、喋れるんやん。じゃあアンナやな」

「──!!」

「驚きすぎですよ~。八雲さんでもそんな顔するんやぁ。化けダヌキとして現代まで生きてきたんですから、喋れても不思議じゃないですよ。物の怪が生きてるっていうのか知らんですけど」


 まさに面を食らった表情の八雲を見て、虎丸はからかい混じりに笑った。


「たぬきのあいだにおぼえた。やくもが話しかけてくれたの、ぜんぶちゃんと聞いてた」

「では、どうして今まで応えてくれなかったのですか?」

「やしろにいたころ、占いじゃないときに声をだすとドンドンってかべにおこられた。しゃべっていいのかわからなかったから、いいっていわれるまで待ってた」

 

 たしかにさっき虎丸は「喋ってみて」と命じた。

 それだけのことだったのかと、八雲はアンナの正面にしゃがみ、大きく息を吐いた。


「何年もの間、気づかなかったなんて──すみませんでした。傍にいたのに話もできず、寂しかったですね。生前も、物の怪となったあともずっと独りだったのですから、誰かと会話をしたかったでしょう。アンナ、教えてほしいのですが、あの武士たちを倒してもあなたは満足できませんか?」

「……まんぞく? わかんない。あのひとたちは怖くてきらい」

「幼すぎて自身の置かれた状況が把握できていませんか。虎丸くんの言った、私のやり方が間違っているとはこのことですか?」


 立っている虎丸を見上げて、八雲が尋ねる。


「いや、人間を憎んで化けダヌキになったんやし、武士が悪い奴らやってのは理解してるんとちゃいますかね。今のこの子がしてほしいことと、多分ずれてますねん。なあ、アンナ。遊びたない? オレと遊ぼか。なにがしたい?」


 虎丸の問いかけを聞いたアンナは、ぱあっと瞳を輝かせて答えた。


「ことろことろ! トクガワのショウグンがいたときに、村で子どもたちがやってた」

「あー鬼ごっこの古いやつか。列になるやつやんな。ええよ~」


 虎丸は八雲の手首を引いて立ち上がらせると、背後に回って両手で肩を掴んだ。

 『子捕ろ子捕ろ』は鬼役の正面で子が列を作り、最後尾の者を捕まえる鬼ごっこだ。列がふたりだけではすぐに捕まってしまうので少なすぎるのだが、相手は五歳にも満たない幼子である。

 八雲の背後に隠れた虎丸が反復横跳びを始めたり奇妙な動きで逃げ回るので、アンナは追いかけながら喜んで笑いだした。


 幼き姫の笑い声に合わせるように、景色が正常に戻っていく。

 木々は紅葉に染まり、沢には澄んだ水が流れ、空は青さを取り戻す。


「あの、私のほうが今の状況にまったくついていけていません。一体何が起こっているのでしょうかね」

「なにって、遊んどるだけですよ。話を聞くに多分遊んだことないでしょ。子供は占いなんかより遊ぶのが仕事やのに」


 戸惑う八雲の後ろで小さな手から逃げ回りながら、虎丸は何でもないことのように言った。


「アンナって、いっつも寝てますよね。つらいことや悲しいことがあっても、人は寝たら忘れるもんです! ずっと寝てたおかげでもう憎しみなんか、ぜんぶ忘れとるかも!」

「それは、あなたの性格だから成り立つ理論なのでは──」

「寝たらってのは冗談ですけど、もう忘れたんちゃうかって根拠はあります。これこれ、この顔です。オレが言いたかったんは。よう見たってください!」


 虎丸が指したのは、アンナだ。今は人間だが、無邪気な表情はタヌキの姿で寝ているときと同じだった。


「過去そのものが変わることはないですよ。でも、感情は変わります。心は癒されます。たとえ何百年もの間、人間を憎み続けて化けて出るようになったタヌキでも。なんでオレがこんなん断言できるかって、見たらわかるからですよ。普段のアンナの寝顔見てました? あんな間抜けで幸せそうな顔して憎しみとかありませんて!」

「理屈は、わかりますが」


 八雲はまだ、理解しきれないといった顔をして悩んでいる。


「理屈て。頭堅いですよぉ」

「しかし、あれほどの辛い経験が、本当に癒されるものなのでしょうか。こうやって遊んでいるだけで?」

「今は遊んでるだけで、オレが癒したわけじゃないです。きっと、八雲さんが死にそうになりながら毎年山を登って救おうとしてくれたんが、なによりも嬉しかったんですよ」


 と、綺麗な召し物の裾を引きずるのも構わず、夢中で走っているアンナを眺める。


「たったひとりの人間が与えることのできる愛情は強烈なんです。百人の人間に虐げられた記憶よりもずっと強いんや。そんだけで人生まるごと生き抜いていけるくらいに。だからこの子はもうとっくに幸せそうにしとるし、変わらない過去を書き換えるよりも、楽しい思い出を作ったほうがええやないですか?」


 立ち尽していた八雲の着物の裾を、アンナが掴んだ。


「やくも、つかまえた」

「アンナ、この遊びで捕まえなあかんのは八雲さんやなくて、後ろにおるオレやねんけど。まぁええか」


 八雲は膝をつき、アンナに視線を合わせて尋ねた。

 

「私は、わざわざ命日ごとに辛い記憶を蘇らせてけしかけていたのですか。あなたが忘れようとしているのに」

「怪我の功名ですって。八雲さんが助けたくてしたことやから、アンナは嬉しくて憎しみを忘れられたんですよ」


 虎丸の言葉に、アンナが頷く。


「ねえ、わたしは黄泉にいくの? そのためにやくもはいつもここへくるんでしょ」


 八雲は少し迷っていたようだが、嘘はつかなかった。


「今、あなたの体は私の文字でできています。契約として高尾姫の物語を書き綴った、あのときから。いわば私の使い魔であり、本当はあなたを消そうと思えばいつでも消すことができた。ですが、私はあなたを『憎悪』にまみれたまま消したくはなかったんです。あなたが幸せな記憶を持って逝くことができるのなら、私はそうします。寂しいですか?」


 アンナは迷うことなく答えた。


「やくもがいてくれたから、もうさびしくない」

「では、そのときまで一緒に遊びましょうか。願わくば、あなたに楽しい思い出ができますように」


 青かった空が白み始めたが、先ほどのような暗い色ではない。夕焼けへと移行する直前の、柔らかい光が落ちていた。



『やくも、またね。ちゃんとやくものことも、むかえにいくから』



 風にまぎれて聴こえてきた最後の言葉。

 息が切れるまで遊び続けて、風景が完全に元の高尾山に戻った頃、小さな姫君は消えていた。

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