第九話 「豊田処分と勘定方の闇」
🏮新太郎定廻り控え帳
第九話
「豊田処分と、勘定方の闇」
一. 勘定方の異変と、暗い噂
天保二年、春の盛り。
真鍋新太郎は勘定方の静謐な世界にいた。
定廻り時代の潮の匂いや血の匂いとは違い、ここでは紙の埃と墨の匂いが支配的であった。
新太郎の鋭い洞察力は勘定方の帳簿から定廻りでは見えなかった「新たな闇」の兆候を嗅ぎつけていた。
「...札差の柴田屋勘兵衛が捕縛されたにも関わらず、その裏金を受け取っていた旗本家の清算処理が、どうにも不自然に手際が良すぎる...」
新太郎は札差の裏帳簿を再検証し、中沢壱岐守以外の複数の旗本家への不正な貸付金が、奉行所内部の人間によって意図的に揉み消されようとしている痕跡を発見した。
その頃、定廻り弐番組には、暗い噂が流れ始めていた。
噂は、深川の博徒の親分・三之助が火附盗賊改の屋敷で賭場を開き、多額の金を奉行所の役人にばらまいていたという不穏なものだった。
「筆頭同心・豊田磯兵衛が、三之助との関わりを疑われ、役目を怠ったとして、奉行所から謹慎処分を受けるらしいぞ...」
新太郎は勘定方の帳簿が示す札差の金の流れと、三之助事件の裏金が奉行所内の規律の緩みを突いた巨悪によって操作されていることを確信した。
二. 豊田の不当処分と、大八木の怒り
噂は、年が明けた天保二年五月に現実のものとなった。
豊田磯兵衛は「博徒・三之助との不適切な関係を疑われ、定廻りの職務を全うしなかった」という、不当な理由により筆頭同心の座を解かれ、押込(謹慎)を命じられた。
これは、老中大久保加賀守の内意を受けた矢部彦五郎ら、奉行所内部の引き締めを画策する勢力による、裏社会との繋がりを持つ同心たちへの一斉処分の一環であった。
同心部屋では、大八木七兵衛の怒りが爆発していた。
「ふざけるな!豊田さんの処分は、南組の者たちへの見せしめだ!三之助と関わりのない豊田さんを処分することで、北組定廻り全体を屈服させようというのだ!」
大八木は普段の冷静な「鬼」の視線を失い、怒りの炎を燃やしていた。
他の同心たちも、納得のいかない処分に無力感を覚えた。
新太郎は勘定方の帳簿で見た、札差の不正な貸付金が三之助がバラまいた金を隠蔽するために意図的に揉み消されたという奉行所内部の策謀を確信した。
彼は、豊田の処分こそが奉行所内の権力闘争が始まった決定的な証拠だと考えた。
三. 新太郎の進言と、内偵の開始
新太郎は謹慎中の豊田磯兵衛の自宅を訪ねた。
庭には枯れた椿が寒々しく咲いていた。
豊田は書斎で、静かに筆を走らせていた。
新太郎は頭を深く下げた。
「豊田さん。勘定方の帳簿から、札差の不正な貸付金が奉行所の誰かの手によって揉み消され、それが豊田さんの不当な処分に繋がっていると見ております。三之助事件の波紋は、単なる博徒の処分ではない」
豊田は静かに首を振った。
「白瓜。深入りするな。奉行所内部の闇は、深川の無頼よりも、遥かに根が深い。老中大久保の内意を受けた勢力が動いている。お前は勘定方の職務に専念せよ。お前まで処分されては、定廻り弐番組の功績まで汚される」
新太郎は地面に両手をつき強く訴えた。
「豊田さん。私は、定廻りの職を離れても、この控え帳に真実を記し続けると誓いました。この処分は、筆頭同心であった豊田さんへの不当な報復です。私は札差の金と三之助の裏金を辿り、豊田さんを陥れた者を必ず突き止めます。それが、勘定方へ異動した私の義侠心でございます!」
豊田は、新太郎の揺るぎない眼差しを見て、諦めていた心に一筋の光が灯るのを感じた。
「...分かった。白瓜。しかし、決して誰にも漏らすな。勘定方の仕事を装い、奉行所内部の誰とも連携せず、独りでその闇を追え。もし、誰かに知られれば、お前もまた処分される。私がお前に託せるのは、この内偵の許可だけだ」
新太郎は「承知いたしました!」と力強く答え、勘定方の職務を盾に奉行所内の内偵を開始した。
彼の剣の未熟さは変わらないが、筆と頭脳という武器を手に、三之助事件の裏側にある奉行所の闇へと立ち向かう。
四. 大量処分への布石と、弐番組への復帰
新太郎は勘定方の帳簿の裏に隠された豊田の処分に繋がる複数の同心の名前を発見し始めた。
これこそが、史実の通り南組の定廻り、臨時廻りの九名を含む同心大量処分へと繋がる、恐るべき布石であった。
その頃、筆頭同心の座が空席となった定廻り弐番組は、大八木七兵衛が代理を務めていたが、士気は最低に落ちていた。
北町奉行・榊原忠之は、奉行所内部の腐敗をこれ以上放置できないと判断し、一つの決断を下した。
老中大久保加賀守の内意を受けた矢部彦五郎らの動きに対し、奉行所内の真の義侠心を守るためであった。
数日後。
勘定方で帳簿を調べていた新太郎のもとに、一通の正式な辞令が届く。その辞令は榊原奉行の決死の英断を示すものであった。
それは、三之助事件に乗じた奉行所内部の闇を暴き、豊田の不当処分の真相を探るため、真鍋新太郎を「定廻り弐番組」に、特例で「臨時廻り」の職務を兼任させ一時復帰させるという内容であった。
新太郎は懐の控え帳を強く握りしめた。
彼は、勘定方の頭脳と定廻りの情を合わせ持ち、巨悪へと立ち向かうことになる。
『八、豊田処分と、新たな帰還を記す。博徒・三之助事件の波紋に乗じた奉行所内部の巨悪が、筆頭同心・豊田磯兵衛を不当に処分した。私は勘定方でその闇を追い、豊田様の命により弐番組への復帰を決意した。札差の裏金と三之助のバラまいた金を巡る、奉行所内での殺し合いが、今、始まる。』
新太郎の筆は、奉行所の権力闘争の闇を克明に記録し続けた。
(第九話 完)
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