《くねくね様》④

 今の私には、霊が見えていなかった。


 しかしそれでも、無鉄砲に走り出したカレンの背を追うことは出来た。


 あと少しで収穫の時期を迎える稲穂たちを踏み潰しながら、カレンは凄まじい速さで駆けていき、私はひたすらにその轍を追う。


 雑音だけが、聞こえる。


 くねくねが発しているだろう、異様な雑音だけがぼやけて聞こえる。


 くねくねはおそらく、自身を見たものの霊感を強化しているに違いなかった。よりはっきりと明瞭に見れば見るほど強化は強まっていくが、強化自体はくねくねを遠景で見た時点で起きている――それが依頼者やカレンがくねくねを知覚できた原因だろう。私が病室で見た黒い何かはくねくねではなく、霊感を強制的に強化された彼に取り憑いた無関係の悪霊だったのだ。


 今さら分かったところで、意味などない。


「カレンっ!」


 私がいくら呼びかけても、その声は彼女に届かなかった。


 完全に魅入られている。


 霊的な経験が少なければ少ないほど、唐突にこれらが見えるようになったときの反動は大きい。だからこそくねくねは霊感がない人間を選別していたし、サキコのような除霊師を意図的に避けていたに違いなかった。なれば、ほとんど絶無と言っていい霊感のカレンならば――


「……カレンっ!?」


 唐突に、カレンが立ち止まった。


 そのままビクビクと痙攣して、カレンは前のめりに倒れた。


「カレン、カレンっ!」


 徐々に大きくなっていく雑音を無視して、カレンの肩を揺するが、彼女は微塵も反応しなくて。


 ただ白目をむいて、ガクガクと痙攣して、いいやそれだけじゃない、顔のあちこちの穴から血を流していて。


「そうだ、サングラスっ!」


 霊を見えなくさせればあるいは、そう考えてサングラスを外すが、それだけではどうにもならず彼女の痙攣は止まらず、血も止まらなかった。


 ならばと目を閉じようとさせるが、まるで外部から凄まじい力がかかってるかのように、そのまぶたはびくともしなかった。


 このままここから離れれば状態は良くなるかもしれないが、そのためにはこの自分よりずっと大きい彼女を背負っていかねばならなくて。


(……この雑音相手に背中を向けて、いいのか?)


 すでに耳をつんざくようになっている雑音が、これは危険だと私に教える。


 カレンの痙攣は、血は、止まらない。まぶたは狂ったように開き続けている。このままでは、カレンは死――


「ああもう!」


 やけっぱちだった。


 私はメガネを、霊が見えなくなるメガネを、彼女にかけた。


 途端に、痙攣が、血が、止まる。


 そして私は、守るものがいなくなった裸眼で、普段から凄まじい数の霊に晒されている裸眼で、それを見た。


 同時に、先程まで雑音にしか聞こえなかったそれが、輪郭を帯びて。


 私の視線の先には、八尺――二m四〇㎝の、大女が立っていた。


 ※


《ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ》


 そうだ、それは間違いなく、八尺様だった。


 八尺様。


 くねくねと同じか、それ以上に有名なネット怪談。


 ちょうどこのような田舎で目撃されたという、八尺――二m四〇㎝はある身長の、白いワンピースに白い広つばの帽子の女。ぽぽぽぽという異様な鳴き声を出し、魅入った子どもを取り殺すと言われる怪異。


 異様に白い肌に、ぽっかりとうろが開いているような暗黒の大きな目口、大きいと言うよりも針金めいていて長いと言ったほうがいい痩身のそれは、確かに話に聞く八尺様に相違なかった。


『もしかしたらムーミンかもしれないし、バーバパパなのかもしれないんだ。その姿を見た人はもれなく発狂してるんだから、確かめようがないんだよ』


 そうは言っても、だからといって八尺様なのは読めなかった。


「……ッ」


 けれどもそんな疑問は、すぐに雲散霧消した。


 霊感が、強化されたのだ。


 普段見えていた黒い影が全て、表情を、輪郭を、実体を持つ。


 それらは全て苦悶に歪んだ顔でこちらを睨んでいて、その数はいつもの数十倍に及ぶ。


 普段見えていた光景は氷山の一角でしかなく、その裏にはもっとおぞましい世界があったと私に教える。


 ……そうだ、この地球に人間は八十億もいるのだ。なれば、連中の数だって普段見えているだけで済むはずがないと思ってはいたが、それでも。


《助ケテ》《無視シナイデ》《苦シイ苦シイ苦シイ》《嫌ダ嫌ダ嫌ダ嫌ダ》《オ願イ、殺サナイデ》《ヤメテ》《助ケテ》《助ケテ》《助ケテ》《助ケテ》《助ケテ――》


 強化された霊感を通して、霊がまとわりつく。


 認識を持って、霊が肌身を持った存在のように干渉してくる。


 それはやせ細って骨と皮だけであったり、全身から血を流していたり、腐敗をはじめてあちこちから膿を撒き散らしていたり、全身が焼けただれていたり、手足をもぎ取られていたり、首を絞められていたり、首がなかったり、舌と目を抉り取られていたり、あちこちが穴だらけであったり、なぜか笑顔であったり――あらゆる死が、私にまとわりついている。


 私の表面積ではとても受け止めきれないはずの亡者の群れが、物理法則を無視して、私にまとわりついている。


 重たい、臭い、ぬるぬるする。ヘドロのなかで、あるいは吐瀉物の海で溺れているようだった。蛞蝓の津波に襲われているようだった。肌だけではなく、耳や鼻、口の中、いいやもっと深い内奥にまで、重たくて臭くてぬるぬるとした何かが入り込んでくる。


 単なる田んぼが、文字通りの地獄のようになっていた。


 そうだ、まともな人間ならとても耐えられないような、地獄。


「……ああ、だから、私は狙わなかったんだ」


 だけど私は、まともではなかった。


 原典の八尺様も、子どもしか狙わなかった。


 ここで言う子どもが、霊を知らぬ無垢なものならば、私よりも年上のカレンが狙われたのも納得がいく。


 だけど、私は、もう。


 私は亡者の波をかき分けて、それを拾い上げる。


「……このペド野郎が」


 私は知っている。


 八尺様が今では恐怖の対象ではなく、巨女萌えおねショタエロイラストの元ネタでしかないことを。


「お前なんか、全然怖くないんだよ」


 私が怖いのは、そんなものじゃない。


 カレンやサキコを失うことで。


 何よりも、妹に、アンナに二度と会えないのが、怖かった。


 だから私は、それを拾い上げる。


 旭カレンの愛刀。


 曰く、自殺者が多発した駅の線路のレールを鋳溶かして作ったという、短刀。


 霊感がある人間が使えば飲み込まれて、正気を失うと言われている妖刀。


 私はそれを、鞘から抜き出した。


 抜刀した。


 もはやそんなこと、大した問題ではなくて。


 そんなものは、もはや津波の中のさざなみでしかなくて。


「死ねよ、しょうもなおねショタ怪談」


 私は、八尺様を斬った。

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