第3章 目覚めの地


ざわざわと、草の擦れる音がする。

湿った土の匂いが、鼻腔の奥をくすぐった。

(……外の音?)

斉藤悠真は、まだ霞のかかった意識の中で、音と匂いの正体を探っていた。耳を澄ませば、何かが煮えるような「コトコト」という音。遠くで鳥がさえずっている。

雷鳴は、ない。瓦礫の重みも、ない。

代わりに――身体を包むのは、柔らかな布と、藁の匂いだった。

(……ここは……)

ゆっくりと、瞼が持ち上がる。

視界に映ったのは―― 藁葺きの天井。

黒く煤けた木の梁。窓はなく、薄暗い。壁は土で塗られ、天井の隙間から小さな虫が這っている。

(どこだ、ここ……避難所?)

寝返りを打とうとすると、右腕に痛みが走った。

粗末な麻布が巻かれている。ガーゼでも包帯でもない。

着ている服も、現代のパーカーではない――和装。

しかもどこか古めかしい、布の擦れる音が心地悪いほどリアルだった。

「目ぇ覚ましたかい?」声がした。身体をゆっくりと起こすと、傍らにいた老婆がこちらを覗き込んでいた。着物をまとい、手に湯気の立つ茶碗を持っている。顔には深い皺、目は細く、しかし優しげな光を湛えていた。

「……え? あの、ここは……?」

口を開いた悠真に、老婆はにっこりと笑って言った。

「気がついて良かった。丸二日、眠りこけておったでなぁ」

言葉は日本語だが、その抑揚はどこか古く、耳に違和感が残る。

「おまえさん、川のそばで倒れておったんじゃ。頭ぁ打って、腕も折れてな ……どこの侍の落とし子かと思うたが、刀も帯びておらんし。まぁ、生きててなによりだわ」

悠真は混乱しながら、老婆の言葉を聞いていた。

「川のそば」――?

侍? 刀? 落とし子?

(なに言ってんだこの人……病院じゃないのか? 救急隊とか、看護師は

……?)

視線を巡らせる。見える範囲に、機械もモニターもない。

火鉢。陶器の茶碗。漆の剥げかけた木の盆。

地面は板張りでなく、土間だった。

そして何より、壁に――コンセントもスイッチもなかった。

不安が、胸を締め付ける。

「俺……ここに、どうやって……」

呟いた瞬間、自分の声が震えていたことに気づいた。

老婆はそれを気にした様子もなく、そっと茶碗を差し出した。

「とにかく、粥じゃ。食って、少し落ち着くとええ」

悠真は、手の震えを隠すようにして、茶碗を受け取った。ほんのりと温かい粥の匂いが、胃の奥の空洞を刺激する。

一口食べた。

――懐かしい味がした。

思わず、涙がにじんだ。

(……俺、死んだんじゃなかったのか……?)

(じゃあここは……夢か、幻か、それとも――)そのとき、外で誰かの怒鳴り声が聞こえた。

「馬が逃げたぞーっ! 南の畑じゃ!」

悠真はその言葉に、条件反射で外を見ようと立ち上がる。

扉を開け、外に出ると―― そこには、

電柱も、道路も、車もない。

一面に広がる、田畑と茅葺き屋根の家々。

馬が駆け、人々は袴を履いて走り、遠くには山並みと木造の見張り櫓が見えた。

悠真は、その場に立ち尽くした。(まさか……いや、そんな……)声が出ない。身体が震える。

でも、どれだけ目をこすっても、そこに広がる景色は変わらなかった。

彼はようやく、気づいた。

――ここは、現代ではない。

そして、どこか遠くからまた聞こえてきた。

あのとき、瓦礫の下で聞いた声。

「……あなたの時間は、まだ終わっていません」風が吹いた。

土と草の匂いを運びながら、まるで未来から過去へ、悠真を導くかのように。

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