上司
また別の人間に案内されて廊下を歩いていく。
案内役の女性は無言で先を歩き、一度もこちらを振り返らない。ただ淡々と、機械的に、目的地へ向かうだけ。まるでわたしは荷物か何かで、意思のある人間として扱われていないような気さえする。
すり抜ける、とまではいかないが、人混みを縫って歩くような技術が要求される。肩をすぼめて、なるべく壁際を歩く。誰かとぶつかりそうになるたびに、小さく謝罪の言葉を口にするが、誰も反応しない。
みんなどこか急いでいて、誰もわたしに目を留めない。
事務的な足音だけが白い廊下に響いている。まるで工場のラインのように、淡々と、機械的に。
――わたしも、いずれあんなふうになるんだろうか。
いつものように碌でもないことを考えていると、いつの間にか目的地にたどり着いていたようだ。
通された部屋はどう見ても会議室。
だが、違和感がある。
窓があるのに外は映らず、白いもやが満ちているだけ。
奥の壁に掛けられたスクリーンも、電源が入っていないのにぼんやり光を放っている。
机も椅子も、確かにそこにある。でも、どこか薄い。
どこか歪んでいる。形は正しいのに、本質が違う。
まるで現世の会議室を雑にコピーして、不具合が出たみたいな。
試しに椅子に手を触れてみる。
冷たくて、硬くて、でもどこか空虚だった。まるで「椅子の概念」を形にしただけのような。
――なんだろう、この違和感。
机も同じだ。
表面は滑らかなのに、温もりがない。
ノックしてみると、木の音じゃない。金属でもない。
何か別の、名前のつけられない素材の音。
壁も、天井も、全部同じ。
白くて、継ぎ目がなくて、どこか薄い。
既視感とも違う。
ただ、違和感。
この空間、全体が何かおかしい。
現世の会議室を、誰かが記憶だけで再現したような。
細部が微妙にずれている。
誰がこの部屋をデザインしたんだろう。建築家じゃなくて、概念アーティストか何かだろうか。それとも、死後の世界には「本物」が存在しなくて、全部こういう曖昧な「コピー」なんだろうか。
窓の外の白いもや。
時々、渦を巻いているように見える。
でもじっと見つめると、動いていないようにも見える。
――気持ち悪い。
席に座るのも立ち尽くすのも気まずくて迷っていると、背後から重低音が落ちてきた。
「――失礼する」
びくっと肩を震わせて振り返る。
入ってきたのはスキンヘッドの男。スーツもネクタイもきっちりしているのに、見た目は完全に「そっち系」。額には薄く傷跡のようなものがあり、鋭い眼光と相まって、映画なら確実に悪役として配置されるタイプだ。
……いや、首から下だけ見れば一流ビジネスマンなんだけど。
身長は高く、がっしりとした体格。鋭い眼光がわたしを射抜く。その視線だけで、背筋が凍りつきそうになる。
思わず一歩後ずさってしまった。
彼は真顔のまま口元だけを緩める。
その笑顔が、逆に怖い。
「驚かせてすまない。こんな見た目だが役職は低い。安心してくれ」
声は低く響き、どこか重力を伴うような圧を帯びている。それでいて冗談を交える柔らかさもある。
――見た目ギャップ系ダンディ。
悪い人じゃなさそう。笑顔はちょっと怖いけど。
そう思うと、少しだけ緊張が解けた。
そんなわたしをよそに、男性は名乗り始めた。
「初めまして。本日付で君の直属の上司を拝命したイザナだ」
「よ、よろしくお願いいたします……」
いかん、先に名乗らせてしまった。
こういうのは下の者から挨拶するのが礼儀だとどこかで聞いていたのに、完全に出遅れてしまった。
わたしは慌てて頭を直角に下げる。
「連絡不足ですまないが、君はどこまで認識をしている?」
「先程書類を頂いて目を通していたところです」
どうやらわたしと同じで、イザナもあまり現状について把握できていないようだ。
ようやく会話が通じる相手に辿り着いた安心感もあり、わたしは先程受付で渡された書類の存在を主張するように掲げた。
イザナはふむ、と頷いてわたしの手の中を見たあと、顔を歪める。
「それは2版前の資料になるので、少々古いところがあるかもしれない」
「えっ」
先程から手順が何ひとつ合っていないじゃないか。
どうなっているんだこの施設は。
「まあ、業務を行いながら修正していけばいい」
わたしは施設側の不手際にぷりぷりしていたが、イザナはあまり気にしていないようで話を続けた。
「とりあえずは今後の業務に関して話し合いをするとしよう。君の場合はかなり変則的になっているからな」
確かに。
自分で言うのもなんだが、初期の説明やチュートリアルを全部すっとばしていきなり実務に据えられてしまったため、知識が圧倒的に不足している。
「初めての任務は、どうだった?」
イザナが静かに問いかける。
その言葉にいたわりを感じたわたしは、思い切って胸の内を正直に打ち明けてみることにした。
「……正直、何をすればいいのかわからなくて」
「無理もない」
イザナが頷く。自分の苦労をわかってくれる人に出会えて、少しだけ心が軽くなった。
「だが、君は対象者の状況を観察し、考え、行動した。それは評価に値する」
評価、という言葉に少しだけ驚く。
あのタオルうさぎの任務、我ながらうまくできたとは思えなかったのに。
結果だけではなく、他の部分を評価してくれたということだろうか。
具体的にどこを?
「でも、時間がかかりすぎたと言われました」
「それは次から改善すればいい」
イザナの声は厳しくない。
ただ、淡々と事実を告げているだけ。
「君には適性がある」
「……適性、ですか?」
「人の気持ちを理解しようとする。観察する。考える」
イザナの言葉が、意外だった。
わたしに適性?
何をやらせてもダメダメで、平均以下を叩き出して疎ましがられていた記憶しかないわたしに?
……テストの点数は悪く、運動も苦手で、人前で話すのも下手で、何か一つでも誇れるものがあっただろうか。いつも誰かの足を引っ張って、申し訳なさそうに謝っていた気がする。
「それは、この仕事において重要な資質だ」
「……そう、なんでしょうか」
「ああ。焦る必要はない。少しずつ慣れていけばいい」
その言葉が、少しだけ、わたしの不安を和らげた。
でも同時に、重い責任も感じた。
――期待されている。
それが、嬉しいような、怖いような。
期待に応えられなかったらどうしよう。また失望されるんじゃないか。また「使えない」と思われるんじゃないか。そんな不安が胸の奥でざわざわと蠢く。
複雑な感情が渦巻き口を噤むわたしをよそに、イザナは腕を組み、少し間を置いてから静かに口を開いた。
「生前の記憶がない者の指導にあたったことは初めてなのでな。さてどうしたものか……」
「生前……」
わたし、やっぱり亡くなっているんだな……。
先程も実感が湧いていなかったが、こうして念押しされると避けられない事実なのだという感覚が湧いてきた。
「今が死後であるというのは、ここにいる方々の共通認識なんですか?」
「ああ、基本的に配属された存在はここを死後の世界として認識している人が多いだろう」
わたしがイレギュラーであるだけで、みんなこの状況を受け入れて対応しているのか。
死後に働かされるとわかった時に絶望する人間が多そうだが、どうなんだろう。
労働組合とかないのかな、ここ。いや、死者の労働組合って一体何を要求するんだ。残業代?休暇?それとも成仏する権利とか?
「……みんな、納得してるんですか?死んで、ここで働くことに」
思わず口に出していた。イザナは少し考えるように視線を落とし、それから静かに答えた。
「納得、というより、受け入れている、というべきかもしれないな」
「受け入れる……」
「生きていた頃には戻れない。それは誰もが理解している」
淡々とした口調だったが、どこか重みがあった。
それは、まるでイザナが自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「ならば、ここでできることをする。それだけだ」
「そう、ですか……」
シンプルな答えだった。
でも、その言葉には諦めと、同時に前を向く強さがあった。
「ここまででなにか質問はあるか?」
「……何を質問すればいいのかがわからないです」
「そうか」
素直なわたしを見てイザナが少し苦笑する。
正直笑顔は少し歪んでいて怖いが、ここまでのやり取りから目の前の男性に対する警戒感は薄れてきていた。
「では、逆に私の方から1つ質問させてもらおう」
「は、はい」
――ごめん嘘でした、めっちゃ怖い。
面接時の質問をされるかのような空気に、背筋がすっと伸びる。心臓が早鐘を打つ――いや、死者に心臓はあるのか? でも確かに胸がドキドキしている。
「名前欄が空欄だったのだが……君のことはなんと呼べばいい?」
「……」
沈黙。
イザナの放った球はクリティカルヒットだった。
そう、わたしは自分の名前を覚えちゃいない。
名前。
自分が何者であるかを示す、最も基本的な情報。
それが、ない。
思い出せない。
昔から記憶力が悪い方だとは思っていたが、自分の名前を忘れてしまうなんてお笑い種だ。
今までの感覚から考えるに、エピソード記憶の欠落がメインだろう。
自分自身に失望しか感じられないわたしだが、実は考えていることが一つある。
ここが役所的役割を果たしているのなら、わたしの情報が残っていてもいいはずだ。
「ここにいるってことは、死んだことだけは確かなんですよね。わたしの名前の検索方法はないのでしょうか」
「基本名前で管理されているはずだからな……難しいだろう」
なんでだよ。
もし同姓同名がいたらどうするつもりなんだ?!
「享年、死んだ日付や死んだ場所で判断すると聞いたことがある」
それがわからないから苦労してるんですが?!
生年月日だとしても被る可能性が十二分でしょうが!
「まあ仕事をする上では特に困らないだろう」
困るよ!
アイデンティティの崩壊だよ!
「便宜上君をなんと呼ぼうか……何か呼ばれていたあだ名のようなものはないか?」
「すみません、特に思い当たる節がないです」
大変申し訳無いことに、それすら覚えていないから困っているわけでして。
イザナが困った顔を向けてくるが、現在困惑度は間違いなく自分のほうが上である自信があるため、こちらも思いっきり眉を下げながら首を傾げる。
……なんか変な絵面になっている気がするな。
「よし、では管理番号で呼ぶことにしよう」
「えっ」
また衝撃的な単語が飛び出した。
管理番号が振られているなんて、わたしたちは家畜か何かなのか。
というかその管理番号で名前を検索とかできないのか?
「番号から過去は辿れない。記憶を元に個人情報を登録して、その後に番号が振られるからな」
――ああ。
そういうことか。
誰もわたしのことを知らない。
だから、何も記録されていない。
番号だけが後から当たり前のように存在している。
「ではこれから仕事を頑張っていこう、管理番号7738――」
「いや待ってください! 番号で呼ばれるのはさすがに!」
咄嗟に制止する。
胸の奥で、何かが拒絶していた。
名前がないだけでも辛いのに、番号で呼ばれるなんて。
それは、自分が「人間」じゃなくなるってことだ。
ただの記号になってしまう。
わたしという存在が、数字に置き換えられる。
わたしは確かにここに存在している。考えて、感じて、悩んで、生きている――いや、死んでいるけれど。でも、存在している。それなのに、名前がなくて、番号で呼ばれて、それでもわたしは「わたし」でいられるんだろうか。
――その瞬間、胸元で何かが震えた。
紫と橙の光が、一瞬だけ白い壁に映る。
温かい。
ほんの一瞬だけ、胸元から温もりが広がった気がした。
すぐに消えた。
「……そうだな」
イザナは少し考えるように視線を落とし、手元の端末を操作し始めた。
「では、次の任務について確認しよう」
次の任務。
また、どこかに転送される。
また、誰かの問題に向き合う。
名前のないわたしが、誰かを助けに行く。
――イザナは、期待してくれている。
この人は、わたしを信頼してくれている。
それは、重い。
応えられるかわからない。
失望させてしまうかもしれない。
でも同時に、それは支えにもなる。
記憶はない。過去もわからない。
名前すらない。
それでも、とりあえずはこの信頼を支えにしよう。
わたしは、小さく息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます