白い空間
おっかなびっくり、無言で男性の後ろをついていく。
先程までは気が付かなかったけれども、自分はどうやら布団ではなく床の上で寝ていたらしい。
結構睡眠にうるさいタイプのはずなのに、よくそんなところで寝られたな――と身体のこわばりを心配したが、不思議なことに全く痛くない。
いや、正確ではないため訂正しよう。
確かに
白い、白い布を着ている。
服と呼ぶのも烏滸がましいくらい簡素で、シーツを剥ぎ取って服らしく繕ったような格好だ。まるで学園祭の出し物みたいだ――と最初は笑いそうになったけれど、指先で裾をつまんでみると――
やけに柔らかい。
心地よい。
指先に吸い付くような手触り。
布地はただの白に見えるのに、歩きながら角度を変えると、ほんのわずかに淡い色調が差したようにも思える。錯覚だろうか。
けれど一瞬だけ見えたその揺らぎは、どこか懐かしい感じを胸に残した。
「...あぁ」
ガーゼケット。
あの布も、こんな風に。
光の角度で、紫や橙に色が変わって見えた。
――あぁ、持って帰りたいくらいだ。
服の裾を指で弄びながら、謎の人物に先導され白い空間を歩いていく。
進んでいるのは謎の空間。
例えるならそう、病院の廊下のようだ。
清潔感はあるが、調度品の類が一切なく、やや無機質な印象を与える。
窓がないが息の詰まるような閉塞感は特にないし、窓や照明機器が見当たらないにも関わらず彩度が一定に保たれている。
息苦しさもなく、温度も感じない。冷暖房に敏感な自分が何も思わないことが、逆に不気味だった。
不思議な空間が物珍しくキョロキョロしていたら、段々と歩幅に開きが生まれてしまい、先達から距離が空いてしまった。
小走りになりながら慌ててついていく。
足音が響く。自分の足音だけが。
男性の足音は、不思議なほど静かだった。
――不思議といえば目の前の男性もそうだ。
先程の強面な印象からとは打って変わって、歩く姿には何処か品がある。
先程の鼓膜を破らんとする怒鳴り声は、単純に寝坊を叩き起こすための声量だったのだろうか。
反抗したら腕を掴まれて引きずられると思っていたが、そうでもないみたい。
「んなことしたら上からパワハラだのセクハラだのドヤされるに決まってるだろうが」
しまった、声に出ていた。
慌てて口を押さえたけど、もちろん遅い。機嫌を損ねてしまったかもしれないとビクビクしながら男性の方を見るが、特に怒っているわけではないようだ。むしろ呆れたような、諦めたような表情をしている。
「失礼な物言いでした。申し訳ございません」
「別に気にしてねぇよ」
どんな相手であっても悪感情を抱かせるのは得策ではない――そんな考えが浮かんで、先手を打って謝罪をする。すると、難なく受け入れられた。
……見た目から必要以上に怯えてしまっていたが、そこまで悪い人ではないのかもしれない。
短いやりとりを交わした後、再び訪れた沈黙。
男性は特に気にしていないようで、再び目的地に向かって歩みを進める。
今度は遅れないようにと一定の距離を空けて歩きながら、わたしは現状について脳内で整理していく。
――ここは一体どこなのだろうか。
目覚めたらそこは知らない世界でした、は異世界モノのお約束だけれども、それにしてはファンタジー感が薄い。
ゲームの荒くれ者みたいな格好ならともかく、目の前の背中はほぼ半グレのそれだ。
それにさらっと聞き流したけれど、会話に「パワハラ」だのなんだのやたら現代っぽい単語が混じっていたような。
だけど突然の知らない場所、知らない人に知らない服装は科学で説明がつく類の現象なのだろうか。
……とりあえず、ここが異世界だと仮定しよう。
次に出てくる疑問がある。
転生と転移のどちらなのか。
天冠こそついていないが、今の自分の格好はオーソドックスな幽霊と比較して正答率50%を切らん勢いで真っ白だ。
しかしイラストに描かれるような幽霊と違い、前に進むための足は残っている。
通説では地獄で足を切り落とされるから幽霊には足がないと言われるが、実際は足のある幽霊の方が多いらしいし……。
――目の前の男性が地獄の使い、という方がむしろ納得いくかもしれない。
……だが今のところ、明確に死んでしまったという記憶はない。
トラックに轢かれた衝撃も、通り魔に刺された腹の痛みも特に覚えがない。
布団の中で突然死なら全く自覚なく天に召されることもあるだろうか。
いや、自分はそんな年齢ではなかったはずだ。
課題の多さで疲弊して突然死?
そんな事が起きていたら各教科担任が教育委員会から責められている図を想像できて溜飲が下がるが、滅多に起こらないからこそ高校生は多忙なのだ。
「本来死ぬべきではなかったのに手違いで……」というパターンだったとしても、状況は正しくない気がする。
間違いを謝罪する神的存在に未だ出会っていない。
仮に自分を起こした眼の前の人物が使い走りだとしたら、引き合わされるのは組長とかではないだろうか。外見よりも常識人に近そうではあったが、人間的に優しそうかどうかと、犯罪を犯していそうかどうかは別だ。
別視点で召喚という概念もあるが、哀しきかな。
誰かに召喚されるほど自分に秘めたる能力があるという自負もなし。
仮にそんなことになっていれば期待と責任の重さに、ただでさえ小さい心臓が押し潰されてしまいそうだ。
……いや、でも男性は「早くしろ」とか言ってたし、誰かが待っているのかも……?
思考の迷路に迷い込んでいたとき、男性が立ち止まった。
おっと、危うく背中にぶつかるところだった。自分は本当に学習能力がないなぁ、と内省しつつ、やや詰まってしまった距離を適正に戻すために数歩下がる。
「ほら、ついたぞ」
案内されたのは青白い光を放つパネルの前だった。
窓も照明もない空間で、そこだけが淡く光脈のようにゆっくりと明滅している。
うわぁお、ファンタジック。
今までの考えに目の前の光景を加算すると、異世界転移が最有力候補だろうか。
いや、そもそもこのパネル自体が転移装置に近い気がするな。
足を乗せたら回復するのかワープするのかよくわからない物体を前に、男性が胸元から手帳を取り出す。
……あ、怖い顔の男の人がメモを持ち歩くタイプとか、ちょっとギャップがあっていいかもしれない。
強面に似合わないその仕草に一瞬ギャップを感じたが、そんなわたしの呑気な考えは、次の一言で崩れ去った。
「で、お前名前は?」
「……」
――あぁ。
先程まで異世界なのか転生なのか、などとくだらないことを考えていたが、最も重要なことを忘れていた。
いや、忘れていたというのは正確ではない。
最初から、わからなかったのだ。
わたしは、わたしが誰なのか、わからない。
気が付いたらここに居て。
気が付いたらここまで来てしまった。
流されっぱなしだ。
課題のこと、学校のこと、お気に入りのガーゼケットのこと――断片的な記憶はある。
柔らかくて、温かくて。涙が出るくらい大切で。
あの布の感触だけは、はっきり覚えている。
でも――
でも、それが本当に自分のものなのか確信が持てない。まるで誰かの日記を読んだような、そんな曖昧な感覚。
そして、何より。
自分の名前が、どうしても思い出せない。
「...」
名前。
わたしの、名前。
呼ばれたことがある、はず。
誰かに、何かと、呼ばれていたはず。
でも、それが何だったのか。まったく思い出せない。
「あぁ?頭部外傷とかか……?聞いてねぇぞ」
黙りこくったわたしを他所に、ボリボリと頭をかく男性。
記憶喪失であることはもちろんわたしにとっては大問題なのだが、男性にとっても予想外だったのか、手帳をパラパラを捲りながら首を傾げている。
ここにきて初めてお互いの考えが一致したような気がした。
よし、このタイミングで改めて状況確認を……。
「ま、いいか。とりあえず送っちまえ」
聞き捨てならない言葉を拾い上げてわたしは即座に質問をぶつける。
「送るって、どこにですか……?」
「何って仕事だよ、仕事!」
やはりきな臭い家業とかさせられるのだろうか。
実は長年真面目ちゃんで通していた――はずだから、そういうのはちょっと抵抗があるというか。
というかわたし一応高校生――だったはずなんですが。校則でバイト禁止だから一度も労働経験とかないし。
「おし、決まったらさっさと行けや」
「ちょっと待ってくださいってば……」
混乱するわたしをよそに、勝手にこの後の方針を決められてしまった。何とか食い下がろうとするがけんもほろろ。面倒な客を前にした店員のように、流れ作業で片付けにかかってきた。
「ほいさっさと乗った乗った」
青白い光のパネルが、ひやりとした空気を纏っている。
本当にその仕事は未経験者歓迎ですか?
闇バイト的なアレではないですか?
ただ、やはり、急かすわりに男性は背中を押したりしてこない。
「だから体に触れたら上がうるさいんだよ。あくまで
あくまでわたし主体での展開の進展を強要されてしまった。
まるで《自分でボタンを押す死刑囚》のようだ。ごくりと唾を飲み込む。
パネルの光が、微かに強まったような気がした。
――たしかに、自分の名前は覚えていないが、性格に関しては何となく覚えている。
ウジウジした性格。
それだけは、はっきりわかる。
何かを決めるとき、いつも迷っていた。
誰かに話しかけるとき、いつも躊躇していた。
言いたいことがあっても、言葉が喉に詰まって。
やりたいことがあっても、一歩が踏み出せなくて。
その結果、色々な物を取りこぼしてきた気がする。
たくさんの後悔を繰り返してきた気がする。
淡くて、苦い記憶。
具体的には思い出せないのに、胸の奥がずっと重い。
「もっと早く動いていれば」
「もっとちゃんと言えば」
「もっと勇気を出していれば」
そんな後悔ばかりが、心のどこかに沈殿している。
でも今は、文字通り一歩踏み出す勇気も必要なのかもしれない。
このままウジウジしていても、何も変わらない。
変わらないまま、また後悔するだけ。
――ここに、わたしが誰なのかの答えがあるのかな。
「いや知らんけど」
知らないんかい!!
心の中で突っ込んだ瞬間。
パネルに足を乗せた足元が、ふっと浮いた。
「...!」
下降。
急激な、下降。
内臓が持ち上がる。
浮遊感。
逆に、意識が沈む。
重力。
気持ち、悪い。吐きそう。
生きているのかも死んでいるのかもわからないくせに、確かに意識は薄れていった。
視界が、白く染まっていく。
男性の姿が、遠ざかっていく。
何も見えない。
何も聞こえない。
それでも。
どこかで。
あのガーゼのやわらかさを。
布の白さの揺らぎを。
もう一度、確かめたい。
その感触が、手のひらのどこかにまだ縋っているような気がした。
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