シェヘラザード、どうか私を眠らせて
@Judith1530
第1話 どうしてかぐや姫は月に帰ったの?
◇誰かが私に言ったのだ。世界は言葉でできていると。
此処は白い地獄だ。ただひたすら冷たく重い、凍えた泥のような現実だけが降り積もってくる。父母が簒奪者から殺され、信じていた者たちの裏切りにあい、温かく大切な手を離してしまった時からずっと。
重い雪を蹴飛ばし、雪原を走りながら彼は思う。
(ここには何もない)
夜闇のなかで、吐息が月明かりを照り返してキラキラと光っている。
(きれいな花、柔らかい草原、きもちいい風)
凍傷になりかけている手足を動かし、凍って顔に張り付いた涙と鼻水を手の甲で拭いながら、彼は唯一の逃げ場所に向かっている。そこで父の古い友人と落ち合うことができなければ、自分の命が終わることは十分にわかっていた。彼が密告しないとも限らない。薄氷を踏んでいる自覚が、彼の心を冷たく、透明にしていく。
(あたたかい日差し、甘いお菓子、清潔な服も、何もない。父も母も、誰もいない。ただ白くて冷たい雪があるだけ!)
寒さという根源的な絶望が、彼の思考を鋭く尖らせていく。氷点下の空気を吸い込み、肺をひどく痛めながら、彼は生き残るために逃走している。
踏み心地の良い絨毯だなぁ、と彼女は思う。毛足の長い敷物はふかふかで、その上に足を置くのが申し訳ないくらいだった。三日ぶりに温かい風呂に入ることができた。しかも満足に食事ができたので、心はやけに落ち着いている。彼女はセーラー服のスカーフを指先で整え、スカートのプリーツが乱れていないことをしっかりと確認した。夢の中とはいえ、結構偉い人相手に仕事をしないといけないらしい。少しは見た目に気をつけなければいけない。前髪をいじる彼女を老婆が気忙しげに見張っている。
「ネコマル、調子はどうだい?」
「はぁ、いつもと変わりませんけど…」
「声に覇気がないね。やる気を出しな」
ノックの音が響く。老婆がぴしりと背を伸ばした。つられて彼女も背筋を正す。
「どうぞ」
老婆が答えると、ドアが軋みながら開き、客が入って来た。ランプは彼女が持っているもの一つで部屋の大部分は闇のなかにあるが、ローブを被っていること、立ち姿からかなり大柄の男だということがわかる。老婆が揉み手をしながら男の前に飛び出した。
「ストリクス様、この度はどうも…」
男は無言だ。懐から革でできた小さな巾着を取り出し、老婆に渡す。老婆は中身を確認してにんまりと笑い、彼女に「失礼のないようにね!」と素早く耳打ちして部屋から出て行った。
彼女はくちびるをひん曲げて最大限の笑顔を作った。
「ど、どうも~!本日はご指名、あ、ありがとうございます」
「………」
男は無言のまま外套を脱ぎ、ベッドの前に置かれたソファに投げた。そのまま薄い天蓋のなかに潜り込み、さっさと寝台に寝転んでいる。靴を脱いだり、シャツの胸元を緩めようとする様子もない。
「あ、あったかいお茶はどうですか?甘くて美味しいお菓子もあります!」
「いらない。早くしてくれ」
冬の嵐のように低い声である。彼女はごくりと生唾を飲み込んだ。ランプの灯りを絞ってサイドテーブルに置き、もぞもぞと天蓋の中に入る。寝台の端にそっと座り、ちらりと相手を伺う。薄闇の中に、岩のように微動だにしない男の身体がある。
「じゃあ、はじめますね」
「ああ」
「――むかしむかし、あるところに…」
泣き疲れて目が覚めた時、猫丸レイはここに居た。『ここ』とは刈り取られた麦畑の隅っこで、畑の持ち主がレイを村の教会に案内してくれた。この世界には、たまに、レイのような妙な格好や姿をした者が突然出現することがあるらしい。『まろうど』と呼ばれるその者達は、教会が保護し、自活に向けて援助を行う。教会の僧や尼は魔法が使用できる。保護されたまろうど達は、魔法によってこの国の言語や簡単な読み書きの習得をすることができるのだ。
魔法。この世界には、魔法が存在する。
そうは言っても、レイが好んでいた御伽噺に出てくるような魔法とは少し違った。魔法は一人一つ。生まれた時から持っていたり持っていなかったり、発生はランダムで、血筋や生育環境も関係ない。そして使用の度に、なんらかの代償行為が必要になる。
例えば、レイがこの世界で初めて遭った畑の持ち主の農家夫婦も魔法を持っていた。夫は数分間の間高速で動ける魔法を持っていたが、魔法を使用したあとは絶対に苦手な牛乳を飲まなければいけない。妻は植物の成長を助ける魔法を持っていたが、使用したあとは絶対に街を三周走らなければいけない。
まろうどは、必ず魔法を持ってこの世界に出現する。まろうどの使用できる魔法は強力なものが多い、らしい。
意外にも、魔法の代償行為は、魔法で打ち消すことができる。これも、レイが教会で知ったこの世界の知識だった。
日本昔話『竹取物語』を語り終える。レイは、きゅ、と息を止めた。
闇の中、穏やかで規則正しい寝息が聞こえる。
ほぅ、と息を吐く。魔法が効いたのだ。やはり、御伽噺一話分くらいの時間、相手に声を聞かせ続けていれば、充分にこの魔法は効果を発揮する。客は半日は起きないであろう。レイの魔法は『一定時間、自分の声を聞いた者を強制的に眠らせることができる』という、使い所があるようなないような、微妙な魔法であった。
この夢の中に来てから、レイの体感で二週間程度が経っていた。教会で読み書きと言葉を教え込まれ、彼女の魔法がこういうものだと判明するやいなや、なんとなく妙な店に就職させられた。店主の老婆は「ここは慰安所だよ」と言っていたが、娼館のようなところなのだと思う。お茶やお菓子、食事に気を遣っている様子はあるが、やけに際どい服装の婀娜っぽい女性が多いし、客はほとんど男性だし。貞操の危機、逃げ出すべきか…とビクビクしていたが、全くレイの客は来なかった。レイは雑用係として雇われたらしく、館を掃除したりシーツを洗濯したり店長に新聞や手紙と届けたりして、あくせく仕事をこなしながら懸命に過ごしていたのだが。
(……変な夢…)
呟こうとしたが声が出なかった。レイはふっと笑う。これは魔法の代償行為だ。半日声が出ないことは少し不便だったが、特に痛みがある訳でもない。彼女は両手をぐっと伸ばす。それから黒いタイツに包まれた足を摩った。老婆が暖炉の薪をケチったのか、それとも純粋に蓄えがなかったのか、部屋はうっすらと寒い。レイは客を見た。シーツもかけず寝台に寝転んでいる。しっかりとした胸元が上下に小さく揺れていた。
(まぁ、風邪をひかれるのも目覚めが悪いし)
苦労して客の体の下にあるシーツを引っ張り、なんとか客に被せた。重かった。それからソファに置いてあった外套も載せる。これくらい被せれば暖を取れるだろう。レイは満足して猫足のソファに座った。自分の腹にもブランケットを掛け、ソファに横になる。
(おやすみなさい。記念すべき私の一番目のお客様)
ぱくぱく口を動かして、ひらりと手を振る。ちょっと眠って、それから茶を淹れ直し、客を持て成す。それぐらいの時間は十分にあるはずだ。
紅茶の良い香りがする。それになんだか体全体がぽかぽかと温かい。レイはゆっくりと瞼を上げた。目の前のローテーブルにほつれた薄青いティー・コジーが載っている。白い紅茶の湯気が薄くレイの顔を撫でた。
「お、起きたか?」
低いけど優しげな声だ。突然冬の日向に照らされた時のように、レイは目を擦った。あくびをしながらのそのそ起き上がると、体から灰色の外套が滑り落ちる。
窓枠から柔らかな日差しが差し込んでいる。対面のソファに男が座っていた。長い足を組んでのんびり紅茶を飲んでいる。
「…っ!!」
反射的に、『すいません寝過ごしました!』と大声で謝罪しながら飛び起き、頭を下げたが声は出ない。雰囲気でレイの言いたいことが大体伝わったのか、相手はけらけらと軽く笑っている。男は立ち上がり、そのまま、レイの座るソファの横にどすりと腰を落とした。
「いい、いい。あんたの魔法については、店の婆さんから聞いてるよ」
「……っ!……!!」
「うーむ。俺、読唇術はそんなにできないんだよな。だいじょーぶ、謝罪の気持ちは伝わった。別に取って食いやしない。安心してくれ」
「………っ!…っ!」
「てんちょうにはいわないで、って…そりゃあ無理だな。だってこの紅茶、婆さんが持って来てくれたんだもん」
さらりと客に言われ、レイはがくりと肩を落とした。これは一食、いや二食は抜かれてしまう。この客は老婆が妙に気合いを入れて歓待したのだ。館の一番良い部屋、一番良い茶葉、一番良い菓子。それなりに地位のある客のはず。店主の怒り狂う様子が容易に想像できる。
「なぁ、それより。…昨日の話、すげー面白かったな!アンタの創作?うちの国にはあんまりない系統の話だった」
「………」
「東方の国の話で、少し似ている話を聞いたことはあるんだが。なんだったかな、ハゴロモ?だったか。…とにかく、姫は元居た場所に帰ってなかった覚えが…」
客は昨夜と打って変わって饒舌だ。あのぶっきらぼうな受け答えはなんだったのだろう。瞳を輝かせてレイの語った御伽噺の感想を真面目に話している。翁と嫗の姫への深い愛は泣かせる、五人の公達への難題も面白い、燃えない衣などあったらぜひ軍警に全面採用したいところだでも金がないからな、帝と姫は実際は両思いだったんだよな?などと考察なのか妄想なのかよくわからないことを早口で捲し立てている。レイがぽかんとしていると、客ははっと口を噤んだ。
「う、ぐ」
「………」
「……わりぃ。三日ぶりにまともに眠れたからハイになっちまって…」
客は恥ずかしげに言うと、ちびちびと紅茶を飲み始めた。湯気でかすかに煙った頬が薄赤い。客の指に嵌め込まれた指輪がキラキラと朝日を反射して、部屋の中を走り回る。レイは必死に首を左右に振り、両手を体の前でパタつかせた。ダイジョウブデスヒイテマセン、という思いが彼に伝われば良いのだが。
「とりあえず、茶でも飲め。あんなに話して、喉も乾いただろ。冷めるぞ」
咳払いをして、客がレイに茶をすすめる。完全に立場が逆であるが、彼女は大人しく数口紅茶を飲んだ。やっと気分が落ち着いてくると、朝の光のなかで相手を観察することができた。
年齢はレイと同じくらいか、少し上、くらいに見える。燃える炎のような赤毛だ。乱れた前髪の下の両目は、動物園にいるライオンとかフクロウみたいな金色っぽい色をしていた。口調は粗野だが、ソファに置かれた上着にも、シャツにもシミひとつない。カップの持ち方や菓子をつまむ様子には妙な気品があった。
それにしても、なんだか。
(…どこかで、見たよう、な?)
思い出そうとしているうちに、客を見つめすぎたらしい。目が合った。レイはティーソーサーにカップを置き、慌ててぺこぺこ頭を下げる。
「…っ、………!」
「ふっふっふ、バレたか」
「?」
「そうだろうそうだろう。王室日報にたまに出る似顔絵よりイケてるだろう?皆まで言うな」
「???」
頭上にクエスチョンマークを浮かべながら、レイは首を傾げた。男は満足げに笑いながら紅茶をがぶがぶ飲み込み(熱くないのだろうか)、ぐいと彼女に向かって身を乗り出して来た。膝に置かれたレイの両手を両手で包み込む。大きな手だ。熱く、清潔で乾いている。厚く鍛えられた掌は好感が持てた。それなのに、両目は獲物を見つけた猛禽類のように金色に怪しく光り輝き、レイの意思を呑み込むような強い力を放っている。
「まろうど、ネコマル・レイ。アンタを我が国の…いや、俺の夜伽役として召し抱えたい」
「………」
「もう店主にも話はつけてある。反論あるか?」
わがくに?よとぎ?…慇懃無礼な話し方に、レイの記憶が揺り動かされる。毎朝、店主に新聞を届ける時にチラチラ見えるやけに写実的なイラスト、男の指に嵌った指輪のフクロウを模った紋章、軍警についての話、ストリクス………。
(……このひと、今、王位継承権を争ってる王子様だ…!)
何年か前に、この国の王様とお妃様は不慮の事故で死んでしまい、息子たちが成人するまで遠い親戚が玉座を預かり代役を担っている、らしい。遺された三人の息子は『良い子悪い子普通の子』なんて、紙面でも揶揄されていたが。
(二番目の……悪い子のナイトアウル…ヴェスパー・ノクス・ナイトアウル!なんでそんなひとが…)
驚いて文字通り声も出ないレイを見て、男はにっこり笑う。
「俺の魔法は、物の温度を調節できるんだ。ほら」
パキパキ、と軽い音がしたと思ったら、先ほどまで湯気の立っていた紅茶の液面が凍りついていた。白く冷気が漂っている。次はぼうっと音を立てて暖炉の炎が消えた。黒い煙が小さな羽虫の群れのようにレイの髪にまとわりつく。
「本当は温めることもできるんだが、最近はもっぱらこっちしか使ってないな」
「………」
「ひとの肺は、冷たすぎる空気を吸い続けるとダメになる。知ってたか?肺の中の小さい袋が破裂して、血を噴いて死ぬんだ」
なんだか物騒なことを言い出している。思わず身を引くレイだが、掴まれた両手はびくともしない。おそるおそる男を伺う。彼は両目を細めて笑っている。さっきまでの御伽噺の感想をべらべら話していた時のような笑顔ではない。人を脅すことに慣れている笑顔だ。冷たい空気や肺の話云々は脅迫だったようだ。直接的すぎる、とレイは顔を引き攣らせた。
「俺の秘密を教えてあげる」
ものすごく聞きたくない、現在進行形で面倒臭いことに巻き込まれている予感がビンビンする。夢の中なのに。夢の中のはず、なのに!レイは嫌な冷や汗をかきながらブルブルと首を必死に左右に振ったが、男は彼女の耳元に顔を寄せ、無情にも、いやにはっきりした声で言い切った。
「俺の魔法の代償行為は不眠だ」
「………」
「魔法を使用した規模にもよるが、何をしても眠れない。生物としては致命的じゃないか?」
「………」
「ちなみにこのことは俺の周りの限られた者しか知らない。兄も、弟もだ。当たり前だろ?眠れずフラフラになってるところを後ろから…なんて。さっきアンタが話してくれた御伽噺みてーな、間抜けな話だろ」
「………」
「五人の男の人生めちゃくちゃにしといて、姫も良い気なもんだな。……いや」
男はちらりと視線を扉に動かした。両手を掴んでいた掌が外される。レイはさっと自分の腕を抱えた。男に握られていたところだけが、冬の外気の真っ只中を歩いてきた時のように冷え切っている。
「姫はどうしても誰の物にもなりたくなかったのかもな」
ぼそりと呟く声と同時に、扉がコツコツとノックされる。びくりと肩を揺らすレイを無視して「入れ」と男が言った。
「若様、馬の用意ができました」
「ようし!」
瞬間、膝を掬われる。レイは悲鳴を上げたかったが、喉は全く無音で、朝の館は静かなものだった。彼女はぐるぐると両手両足を回してひっくり返った虫のように暴れたが「落とすぞー」とさらりと言われ、きゅっと体を縮こませる。受け身を取れる自信はなかった。男の体幹はしっかりとして全く揺れない。そのくせレイの身体の重さを感じさせない軽やかさで、館の廊下、階段を悠々と歩いていく。男は玄関ホールに居た老婆に「世話になった」と声を掛けた。老婆は「いえいえどうぞまたご贔屓に…」なんてしたり顔である。男を呼びに来た従者が館の扉を開けた。
まだまだ冷たい、初春の早朝の風がレイの顔を撫でる。ぶるぶると震えていると、頭からローブが掛けられた。男の灰色のローブである。そのままぐるぐる巻きにされ、馬の鞍に押し上げられる。レイが今にも落馬しそうになっていると、男が彼女の後ろに飛び乗った。
「はは、まろうどは馬に乗れないのか。悪かったな」
「……!!」
「そう怒るな。…まぁ、さっきの話、俺が王ならこうするということだ。姫が嫌がっても、さらって月になど帰さない」
全く春風の似合わない暴君である。レイは牧場に引かれる子牛のような気持ちになった。遠い目をして諦めて男の胸に背中を預ける。暴君のくせに、血が通っていてやけに温かかった。
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