4、絶望的状況


 「っ……‼︎」


 ノイルはあまりの絶望的状況に思考停止。

 これまで以上の恐怖は、悲鳴を上げることさえ許してくれない。

 許されたのはただ無様に立ち尽くすことのみ。


 直後にルリアはノイルの元へと駆け出す。しかし、全力で走ったところで先に到達するのは能獣。このままではノイルの命も持って数秒といったところだろう。


 ルリアはその事を既に悟ったのか、額に汗を滲ませた。だが、諦めるという選択肢は持ち合わせていない。

 現状を打開する方法を考える猶予ゆうよ。そんな贅沢なものはない絶望的な状況下で、ルリアが咄嗟にとった行動。

 それは、希望を込めた”全力投剣ぜんりょくとうけん”だった。

 走る勢いのまま右手に握る短剣を渾身の力で放つ。


 殺意の刃。それは放たれた直後に素早く回転。付着した赤い雫を振り落としながら一直線に目標へと飛行。ルリアの想いが奴の毛皮に触れようとしたその時。

 白い獣は再び空間を蹴り、真上へ飛躍ひやく。紙一重で回避した。


 「くっ……」


 二度目の飛躍にルリアは奥歯を軋ませた。

 その異常を正面で目の当たりにしたノイルは下顎を小刻みに揺らした。

 自由落下を始める白獣。狙いは変わらずノイルまま。

 恐怖で瞬きを忘れ、顔面を引き攣らせるノイル。未だ足が地面に縫い付けられたように動けない。


 ———絶対絶命。

 

 ルリアの投剣が生み出した成果は直接的ダメージではなく、目標がノイルに到達するまでの僅かに二秒程の時間だった。


 たかが二秒間。されど、この二秒間は数秒を争う現状では貴重なもの。

 ルリアはこの僅かな時間を無駄にしまいと更に足で地面を抉る。そして、胸の中心にある最も大きな願いを小さく唱えた。


 「お願い、間に合って……」


 口に出したその願いは奇跡的に追い風を呼んだ。それを好機に、限界を超える思いで全身全霊で手足を動かした。

 そして、その思いはノイルの元へとルリアを運んだ。だが同時に二人のすぐ脇に白の塊が落下。


 砂埃と野良の悪臭が鼻腔に充した。


 窮地きゅうちにルリアが眉を顰めた次の瞬間、白獣は躊躇ためらうことはなく二人の命に喰い掛かった。


 ノイルは心で自身に強く唱えた———動け。


 だが、体は言うことを聞かなかった。

 ただ流れる映像を眺める傍観者のように、獣の糸を引く口内を見て立ち尽くす。


 この時、ノイルの瞳には世界がが緩りと映った。そして、何故か記憶の中のいつかの光景が脳裏を掠めた。

 まるでこの状況が初めてではないような、捕食される直前の記憶。

 これは、過去の記憶なのか。それとも、前世と言われる何者かの記憶なのか。

 そんな不思議な感覚は、瞬きと共に消え去り、現実へと引き戻される。

 目の前には変わらず獣の口内だ。


 この時ノイルは思う———せめて、この先に待つ恐怖映像を見知らぬままに最後を迎えたいと。

 そして、瞳を強く閉ざした。

 無限に広がる黒の世界。そこからは、苦しまずに終わるようにと強く願った。




 ◆ ◆ ◆ ◆




 同時に俺の脳内である思考が巡った。


 (記憶……。何も分からないまま終わるのか……)

 

 すると、本心が溢れ出してきた。


 ———そんなの……嫌だ。死にたく無い……まだ、死ぬのは……。生きたい……。もっと、生きていたい……


 「ノイルゥウウウッ‼︎」


 俺の名前を呼ぶ声が鼓膜を強く揺らした。


 ———⁉︎


 その瞬間、固く締め付けられた瞼が咄嗟に持ち上がった。

 目の前にはルリアの背中。

 両手で一つの短剣を握り締め、能獣の顎を下から突き上げている。


 『グッグヴゥルルゥッ……』


 鼻根に皺を寄せ集め、叫び声が閉ざされた口内で響く。

 だが、ルリアの腕は既に痙攣している。もう長くは持たないだろう。


 ———このままじゃ二人とも。嫌だ……怖い。どうしたら……。


 「ノイルっ。助けて……」


 その言葉は、俺から無駄な思考を掻き消した。


 「ゔぉおおおおおっ‼︎」

 

 剣を強く握りなおし、全身全霊の力でがむしゃらに突き立てた刃。


 『ググゥッ……』


 それは、白獣の首元を貫いていた。


 喉奥から溢れ出していた血液は、牙の隙間を掻い潜り、下顎から滴り落ちる。黒い瞳は上瞼へと隠れ、白が大きく顔を出す。

 それから完全に覇気が失われるまでは、一瞬のことだった。


 「死んだ……」


 命が終わる瞬間。そして、終わらせた瞬間だ。

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