3、初の能獣戦
◆ ◆ ◆ ◆
太い枝の上には、恐れていた存在『
視認できる範囲で五体。
全身に
どうやらこの大樹を住処にしているようだ。
ノイルは慌てて立ち上がり、瞬時にルリアの反応を確認。既に二本の短剣を抜いていた。
右手は順手、左手は逆手に短剣を握る。足を広く構え、重心を低く落とす。無駄な力みのない美しい戦闘体制だ。
それを見たノイルは、慌てて剣を引き抜いた。
剣を両手で握り締め、顔の前で構える。だが全身に力が入っており、剣身が小刻みに震えている。素人丸出しの不格好な構えだ。
『グヴゥゥゥ……』
能獣は眠りから目を覚ましたばかりで機嫌は最悪。
危険がなければ愛くるしいはずの顔から、鋭い牙が剥き出しになっている。睨みつける光の消えた二つの黒は、ノイルの全身を芯から震わせた。
掌にじわりと汗が滲む。
本能が死を間近で感じているのだろう。
ノイルは瞳孔すらも揺らしながら、すくむ足をひっそりと動かして後退を始めた。
今ならまだ逃げられるかもしれない。淡い希望が浮かんだのだ。
しかし、一人で走り出す訳にも行かない。そう思ったノイルは後退を続けたままルリアに視線を運ぶ。
「ルリア……これ……やばいんじゃ……」
完全に覇気を失った細く、震えた声。だが、尽かさずルリアは言った。
「そうね。でも、やるしか無いわ。見逃してくれそうに無いし……」
ルリアはとっくに覚悟を決めているようだ。
焦りや怯えなどは見て取れず、命の奪い合いに向けて集中力を高めている。
ノイルは大粒の唾を飲んだ。
先程までの穏やかな空気はもうない。今はただ、緊張と恐怖だけがこの場を支配している。
「ノイルは下がってて」
そう声をかけるルリア。しかし真剣な眼差しはノイルに向けられることは無く、ただひたすら能獣を凝視。
ノイルはそんなルリアの背を見つめた。それは頼りたくなるほど強い意志を宿した背中だった。
しかし、ノイルは咄嗟に目を逸らした。
共に戦う度胸や勇気。そんな良いものをまだ持ち合わせていノイルからすれば、自身の情けなさを自覚するだけからだ。
ノイルの中にある恐怖心———それが、全ての感情を飲み込んでいる。
ただ体を震わせ、自由が効か無くなった足を必死に動かして後退。それが今のノイルが出来る精一杯。
未だ能獣との睨み合いは続いていた。
無駄な音は無く、静けさの中に風だけが通り過ぎて行く。
長いようで短い時間。
そんな空間で、場違いのように密かに後退していたノイルの足が自ら捨てた葉を踏み潰した。
『ザスッ』
張り詰めた静寂に僅かな乱れ。
その些細な雑音が試合開始の引き金になった。
『グラルルルルッ‼︎』
重複する
その時すでに膝を折り、重心を落とし込んでいたルリア。全身のバネを最大限に利用して瞬時に強く飛び上がった。
地面は抉れ、草が舞う。
五体の能獣を真正面から迎え撃ったのだ。
思わず息を呑むノイル。その視界の中心で瞬く間に混じり合ったその時だった。
上昇するルリアの左右から走る閃光の刃。それが、先陣を切った二体の首元を的確に切り裂いた。
空中に
「ぇ……」
その光景を目の当たりにしたノイルの表情が凍く。
ノイルは確かに見ていた———けれど、目が追いつかなかったのだ。
二体は音も無く、無惨に地面へと落下。白い毛皮を真っ赤に染あげた。もう既に息はない。
それを目にした後方の三体。瞬時に何も無い空中を蹴り、後退。ルリアと距離をとって地面に降り立った。
(なんだ、今の……。何もない空間を、蹴った……?)
ノイルは初めて見る常識離れした挙動に戸惑いを浮かべる。そして、それが奴らを能獣と呼ばせる力なのだと確信した。
ルリアは思わず舌を鳴らす。
「ダブルジャンプって感じか……」
ルリアは着地後、無理に追撃することなく素早く後退。態勢を立て直す。
たった数秒の出来事にノイルはすっかり腰を抜かし、剣は掌から溢れ落ちた。だが、幸い戦闘の邪魔にならない位置まで避難が完了している。今はただ、ルリアの勝利を祈るばかりだ。
散開した能獣は再び毛を逆立て、ルリアを威嚇。かなり警戒しているようだ。
距離をとったルリアは落ち着いて深呼吸。ゆっくりと吐き出された息を取り戻し終えたその時。右足で強く地面を蹴り込み、勢いよく走り出した。
ルリアは一気に間合いを詰めに掛かる。
同時に次々と駆け出した三体。助走を活かして飛び掛かり、更に空中を蹴って変則的な軌道で襲い掛かった。
それを目の前にしても尚、ルリアは止まることはない。
咆哮が響く。
次の瞬間、ルリアは奴らの視界から消えた。
真正面から衝突する直前、ルリアは体を地面に滑らせて、宙を舞う奴らの下へと潜り込んだのだ。
頭上を行く三体の能獣。その先頭目掛け、逆手に持つ左の短剣を下から強く突き立てた。
刃は胸元へと突き刺さり、股に掛けて流れるように深い線を刻んだ。
『ギュルグググッ……‼︎』
切り裂かれた能獣は最後の雄叫びを上げて墜落。緑の上に臓物を滑らせ、停止。力尽きた。
その身のこなしを目に映したノイル。状況を把握しきれていないが、恐怖に溺れていた青い瞳に微かな光が宿ったてた。
安心するにはまだ早い。
直後にはまだ二体が宙に残る。だが、ルリアは決して油断することない。
滑る勢いのまま獣の下を転がり抜け、奴らの背後を取った。
飛び越えた二体は着地。体を切り返し、素早く振り返る。が、既にルリアは間合いを詰め終えていた。
『ググッ……』
赤く塗られた左右の短剣は、二つの喉元を貫いた。
痙攣する能獣を冷たい風が摩る。
数秒後、静止。ルリアは息の根が完全に止るのを確認し、短剣を引き抜く。
二つは静かに崩れ落ちた。
能獣五体———完全撃破。
ルリアは分厚い息を長く吐き出した。
まだ恐怖が残るノイル。驚愕と安堵の狭間で混乱するも、自然と体に取り憑いていた震えは薄れていった。
そこでようやく、全身が力んでいたことを自覚した。
「……本当に、やりやがった」
一息ついたノイルは気の抜けた腰を持ち上げ、緑の中で無様に沈む一本の剣を拾いう。
空気に漂う赤い香りが鼻を掠めた。
この後、ノイルが真っ先に取るべき行動は一つ。ルリアへの感謝だ。
不慣れに剣を腰に戻すのを中断し、ルリアに視線を運んだ。
「ルリア、助かっ……」
ノイルの言葉が止まった。
太陽に雲がかかる。
視線の先で呆然と立ち尽くすルリアが、大樹を見上げていた。
その姿で何故か全身に悪寒が走る。同時に、ルリアが戦闘体制に入った。
それにより肩を強張らせたノイルは恐る恐る視線を上に運んだ。
すると、そこにあったのは一体の能獣。
先程の能獣と姿形は同様。だが、明らかに違うのは体格。全体的に一回りほど大きい。
そして、額の真ん中には緑の石が埋め込まれていた。
嫌な予感はよく当たる。
睨み合いが始まり、たちまち緊張が充満。
すると、雲に隠れた太陽が再び顔を出す。
辺りが鮮やかに彩られた次の瞬間。白い獣は息つく間もなくルリア目掛けて飛び掛かった。
ルリアは歯が軋ませながら全身のバネで再び勢いよく飛び上がる。
だがしかし、能獣。すぐさま宙を蹴り、軌道を変えた。
「逃げてぇえっ‼︎」
ルリアが叫んだ。
軌道を変えた先は———ノイルだ。
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