第17話「王宮での新生活」
学園を卒業した俺はアシュレイの番、そして未来の皇太子妃として王宮で暮らすことになった。
ヴァイスハイト公爵家の自邸を離れるのは少し寂しかったが、それ以上にアシュレイと四六時中一緒にいられるという喜びの方が大きかった。
王宮での生活は想像していた以上にきらびやかで、そして息が詰まるものだった。
俺に与えられた部屋はアシュレイの執務室の隣にある、豪華な一室。まるで城のように広く、調度品も一つ一つが一級品だ。
だが俺を待っていたのは、そんな優雅な生活だけではなかった。
「よろしいですか、ルシアン様。皇太子妃たる者、帝国の歴史、法律、外交儀礼、そのすべてを完璧に頭に入れていただかなくてはなりません」
俺の教育係に任命されたのは、白髪をきっちりと撫でつけた、いかにも厳格そうな老齢の侍従長だった。
彼の執拗なまでのスパルタ教育が、卒業後の俺を待っていたのだ。
「う……頭が……」
分厚い歴史書と睨めっこしながら、俺は机に突っ伏した。
悪役令息としてそれなりの教養は身につけていたつもりだったが、皇太子妃に求められるレベルはその比ではなかった。
「ルシアン、大丈夫か?」
そんな俺の様子を見かねて、アシュレイが執務室から顔を覗かせた。
彼は俺の隣に座ると、侍従長に「少し休憩させてもらえないだろうか」と頼んでくれた。
「ですが、殿下……」
「私が構わんと言っている」
皇太子の命令にはさすがの侍従長も逆らえない。
彼は恭しく一礼すると、静かに部屋から出ていった。
「……助かった」
「無理はするな。ゆっくり覚えていけばいい」
アシュレイは俺の頭を優しく撫でながら言った。
「私が君を選んだのは君の知識や教養が理由ではない。君という存在そのものを愛しているからだ。だからあまり気負うな」
彼の言葉はいつも俺の心を軽くしてくれる。
だが俺はただ彼に甘えているだけではいたくなかった。
「……でも、俺はお前の隣に立つ人間だ。お前に恥をかかせるわけにはいかない」
俺がそう言うと、アシュレイは少し驚いた顔をして、そして心から嬉しそうに笑った。
「……君は、本当に強くなったな」
彼は俺の体をそっと抱きしめた。
「ありがとう、ルシアン。君がそう思ってくれるだけで、私は何よりも嬉しい」
アシュレイの溺愛は王宮に来てからも変わることはなかった。
いや、むしろ周囲に遠慮する必要がなくなった分、さらに拍車がかかっていた。
公の場では完璧な皇太子としての顔を見せる彼も、二人きりになると途端に甘えん坊になる。
「ルシアン、疲れた。癒してくれ」
執務の合間に俺の部屋にやってきては、俺の膝に頭を乗せてそう言って甘えてくる。
俺が彼の金色の髪を優しく梳いてやると、彼は猫のように気持ちよさそうに目を細めるのだ。
「……お前、皇太子としての威厳はどこにやったんだ」
「そんなもの、君の前では必要ない」
彼は俺の膝の上で寝返りを打ちながら、俺の腹に顔をすり寄せてくる。
その仕草はまるで子供のようで、俺は思わず苦笑してしまった。
これが、あの冷徹で完璧だと言われていた皇太子の本当の姿。
この姿を知っているのは、世界で俺だけ。
その事実がたまらなくくすぐったくて、そして愛おしかった。
もちろん甘い時間ばかりではない。
王宮には様々な思惑が渦巻いている。
皇太子が男性の、それも曰く付きの公爵令息を番にしたことに、快く思わない貴族たちがいることも俺は知っていた。
時折向けられる棘のある視線。
遠回しな嫌味。
それらに俺は、毅然とした態度で立ち向かわなければならなかった。
「ヴァイスハイト様はご自分の立場を、よくお分かりになっていらっしゃらないようだ」
ある日の夜会で、年配の侯爵夫人が扇で口元を隠しながらそう言ってきた。
「アシュレイ殿下は次期皇帝。そのお妃様が世継ぎを産めぬ男性で、本当によろしいのかしら」
それは俺が一番気にしていたことだった。
この世界では稀に男性のオメガも妊娠することがあると言われている。だがその確率は非常に低い。
俺がアシュレイの子供を産める保証はどこにもない。
俺が彼の血を絶やしてしまうことになるかもしれない。
その不安を、侯爵夫人は的確に突いてきたのだ。
俺が言葉に詰まっていると、後ろから俺の肩を抱く大きな手があった。
アシュレイだった。
「ご心配には及びません、侯爵夫人」
彼は完璧な笑みを浮かべながら、しかし瞳の奥は一切笑わずに言った。
「私とルシアンの間には血の繋がりを超えた、絶対的な絆があります。世継ぎの問題は我々が考えること。貴女が口を挟むことではありません」
彼の言葉には有無を言わせぬ王者の威圧がこもっていた。
侯爵夫人はさっと顔を青くすると、慌ててその場を去っていった。
「……すまない、アシュレイ。俺が不甲斐ないばかりに……」
「君は何も悪くない」
彼は俺の体を優しく自分の方へ引き寄せた。
「私が君を選んだんだ。私が君を愛している。それ以外の事実は何一つ重要ではない。……もし本当に世継ぎが必要なら、優秀な親戚にでも王位を譲ってやるさ」
「馬鹿! そんなことできるわけないだろう!」
「君のためなら、できる」
彼は真剣な目でそう言った。
その言葉が本気だということが、痛いほど伝わってきた。
この人は俺のためなら、本当に王座さえも捨ててしまうかもしれない。
だからこそ俺は強くならなければならないのだ。
彼にそんな選択をさせないために。
彼が胸を張って俺を妃だと言えるように。
「……ありがとう、アシュレイ」
俺は彼を見上げた。
「俺、もっと強くなる。お前を絶対に後悔させないから」
俺の決意を受け取って、アシュレイは満足げにうなずいた。
王宮での新生活は始まったばかり。
困難はまだまだ続くだろう。
だが俺はもう何も怖くはなかった。
愛する人が隣にいてくれるのだから。
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