夕に染まる音色
フリテン国士
第1話:少女①
硬い床の感触で、目が覚めた。
うぅ、背中が痛い。
ベッドから落ちてしまったのか、とアイドリング中の脳で考え、体を起こして周りを見渡す。
だが、すぐに周囲の状況が普通ではないことに気づいた。
目に入ったのは自室の家具ではなく、薄暗く長い廊下と、立ち並ぶ教室だった。
ここは…。学校?
信じられない光景に、頭の回転が一瞬停止する。
目線を下ろすと、寝巻きにするにはきつ過ぎる白のシャツと、濃い紺の長ズボン。
それに、足にはぴったりなサイズの上履きが嵌められている。
それは完全に高校生の制服姿であった。
いや、僕が高校生であることに違いはないが…
僕は、家で夏休みを謳歌していたはずだ。なぜ学校にいる?
寝る前の記憶をたどろうとするが、なぜか全く思い出せない。
……。
考えても答えは出そうになかったので、とりあえず歩くために立ち上がった。
う、眩しい。
窓の外から、沈みかけの西陽が僕の顔を照らしてくる。
視線を下げると、グラウンドには誰もいない。
カラスがどこかで鳴いているだけだ。
再び視線を上げると、太陽が、秒針が時を刻むように地平線に姿を消していくのが見える。
これを見るに、今から帰りだしても家に着く頃には真っ暗だろう。
分からないことだらけだが、とりあえず帰らないと。
ここはたぶん2階か3階だろうから…階段をさがそう。
昇降口を目指し、薄暗い廊下を進む。
一歩踏み出すたびに上履きが廊下と擦れ、キュッキュッという音が響き渡る。
どの教室にも人はいない。孤独感に背筋が凍り、足取りはだんだん速くなった。
そして階段を見つけた。
やっと帰れる、と安堵しかけたそのとき、はたと足が止まった。
下の階から何か音がする。
鈴虫の鳴く音—-それだけではない。
色んな高さの、弦を弾くような音が耳に届いてきた。
楽器…?誰かが楽器を鳴らしているのか。
耳を澄まし、意識を集中させる。
…ギターだ。誰かがギターを弾いている。
歌声も聴こえるから、おそらく弾き語りだ。
音楽部の生徒が残って練習でもしているのだろうか?
とりあえず得体の知れない物音でなかったことに安心した。無視して早く帰ろう。
そう思い階段を下り出すが、一歩進んで音が大きくなるにつれ、僕の意識はその音色に惹き寄せられていった。
届いてくる一音一音が壁に反響して弾け、薄暗い校内をその快活さで照らしているかのようだ。
それでいて…誰かが聴きに来るのを待っているかのような。どこか寂しげな響きを感じる。
無視すると決めたはずなのに、いつの間にか聞こえてくる音色に集中してしまっていた。
よし。ちょっとだけ…一瞬だけ、聴いてみよう。
階段を下り切ると、薄暗い廊下に一つの教室から光が漏れているのが見えた。おそらくこの音色もそこから鳴っている。
そろりそろりと近づき、その教室をドアの窓から覗いてみる。
「〜♪、〜〜♪」
窓際の席で、一人の女子生徒がアコースティックギターを弾いていた。
その弦を弾く手元には迷いがなく、次々と音が繰り出されていく。
背筋は伸びていて、仕草には自由さと余裕が溢れていた。
素晴らしいな。あんな音、僕には出せないだろう。
微かな逆光に遮られ、その生徒の細かい表情は見えなかったが、すごく楽しそうに思えた。
夜の気配を帯びつつある外の風景にその生徒の白い制服が浮かび上がり、艶やかな茶色の長髪が風に揺れている。
「〜♪、〜♪」
…?このフレーズは…
はっと気づく。
この曲、僕が作った曲じゃないか。
それも、僕が作曲を始めてすぐのとき、うまくいかなくてファイルをゴミ箱にぶち込んだあの曲だ。
いや、たしかにあの曲のはずなのに——何かが違う。
コード進行に、ひとつひとつの音符が最適化されている。
それに、彼女の歌い方。よく通る歌声で、歌詞の感情が真っ直ぐに伝わってくる。
そう、これこそ、あのときの僕が表現したかったものだ。
あのとき、僕がどれだけ修正を繰り返しても、到底まともに聞けはしなかった。
なのに、彼女の指先で奏でられるそれは、魂を持つかのように活き活きとして、こんなにも楽しげに響いている。
僕が作った曲を、僕より完璧に演奏しているなんて、いったい——
先程まで帰ることに必死だった僕は、今やこの顔を照らすものに釘付けにされている。
——一度、あの人と話してみたい。
好奇に背中を押され、僕の足は自然と前に踏み出される。
これは好機であると、僕の中の誰かが告げていた。
教室に一歩踏み入ると、夕陽の小さな光が完全に消えるのが見えた。
しかし僕は、帰るには遅すぎる時間になっているなどということは考えもできなかった。
教室に踏み入れた足の感覚、夜の匂い。
そして、教室を包み込むギターの音。
それらを含む全ての感覚が、一度に消滅したからだ。
僕の視界は真っ暗になった。
それまでの明明とした教室の白も、窓外の紫も、その空間ごと闇へと消えてしまった。
暗闇の中、あの鮮やかな手捌きと、楽しげなメロディーの残滓だけが木霊する。
しかし次第にその音は、耳を刺すような電子音に塗り替えられていった。
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