第6話:最後のドライブと、現実主義のバディ

「榎田さーん!しっかりしてください!榎田さーん!」


 肩を激しく揺さぶられ、榎田順一郎の意識はゆっくりと現実世界に引き戻された。ぼやけた視界に、心配そうに自分を覗き込む碇裕美子の顔が映る。ひんやりとしたコンクリートの感触が、背中からじわりと伝わってきた。


「……あれ?碇さん……?私、どうして……」

「どうして、じゃないですよ!私がブレーカーを見つけて戻ってきたら、榎田さんがMGBの横で倒れてるんですから!過労ですか?それとも低血糖?全く、だから日頃から不摂生はダメだと言ってるのに!」


 碇は、矢継ぎ早に現実的な原因を列挙しながら、テキパキと榎田の上着を緩め、彼の状態を確認している。その手際の良さは、まるで救急隊員のようだ。

 榎田は、朦朧とする頭で先ほどの出来事を思い出していた。岩田謙吉の霊との濃密な対話、そして彼の強い念に当てられて意識を失ったのだ。霊との本格的なコミュニケーションは、想像を絶するほど精神力を消耗するらしい。


『……おい、大丈夫か、冴えないの』


 頭の中に、心配そうな岩田の声が響く。どうやら彼はまだ、この場所に留まっているようだ。


「だ、大丈夫ですよぅ……。ちょっと立ちくらみがしただけですからぁ」


 榎田は、碇の肩を借りてゆっくりと身を起こした。


「立ちくらみで人が倒れますか。とにかく、今日の鑑定は中止です。一度病院で診てもらいましょう」

「いえ、それには及びません。それより、鑑定は終わりました」

「はぁ?倒れていた人が何を言ってるんですか?」


 碇の呆れた視線が突き刺さる。しかし、榎田は意を決して、真剣な眼差しで彼女に向き直った。


「この物件の『心理的瑕疵』を取り除く、唯一の方法が分かりました」


 榎田のただならぬ雰囲気に、碇は訝しげな表情を浮かべつつも、彼の言葉に耳を傾けた。


「このMGBで、故・岩田氏が行きたがっていた場所へ行く。……つまり、芦ノ湖スカイラインを走らせるんです」


 一瞬の沈黙の後、碇の口から大きなため息が漏れた。


「……榎田さん。あなたは自分が何を言っているか、分かっていますか?疲れているんですよ。病院に行きましょう」

「いえ、私は本気です。これは故人の強い想いを解放するための、いわば『儀式』のようなもの。これを実行しない限り、この物件の価値は正常化しません。不動産鑑定士として、これが唯一の解決策だと、私は判断します」


 榎田は、霊の存在を伏せつつ、できる限りビジネスライクな言葉を選んで必死に説得を試みた。彼の目には、いつものような覇気のなさではなく、この案件を必ず成功させるという強い意志が宿っていた。


 碇は、腕を組んで深く考え込んだ。目の前の男が言っていることは、非科学的で、常識外れで、ほとんど戯言に近い。しかし、過去の数々の案件で、この男の突飛な「鑑定」が最終的に正しい結果を導き出してきたのもまた事実だった。


「……はぁ。分かりました」


 やがて、彼女は根負けしたように再び大きなため息をついた。


「榎田さんの鑑定結果を信じましょう。ただし、条件があります」

「条件、ディスか?」

「運転は、私がします。榎田さんの運転じゃ、芦ノ湖に着く前に事故を起こしかねませんから」


 彼女のどこまでも現実的な提案に、榎田は心の底から安堵した。


『なんだと!?あの娘っ子が運転するのか!?女の運転なんざ信用できるか!』


 頭の中で岩田が不満を叫んでいるが、榎田はそれを聞こえないふりをした。


 碇の行動は早かった。彼女はすぐに万城目社長に電話をかけ、「榎田鑑定士の最終鑑定に基づき、物件の心理的瑕疵払拭を目的とした走行試験を実施します。場所は芦ノ湖スカイライン。私が責任を持って遂行します」と、見事にビジネス上の案件として報告し、許可を取り付けた。社長が何か言いたげな様子だったが、彼女は巧みに言いくるめてしまったようだ。


「よし、と。では、準備を始めましょう」


 碇はまず、MGBのエンジンをかけ、タイヤの空気圧、オイル、冷却水などを手際よくチェックし始めた。その姿は、不動産会社の社員というより、むしろ熟練のメカニックのようだ。


『ほう……あの娘っ子、見かけによらず、しっかりしてるじゃないか。これなら、俺の相棒を任せてもいいかもしれん……』


 最初は不満を漏らしていた岩田の霊も、碇の丁寧で確実な仕事ぶりを見て、次第に感心したような声を漏らし始めた。

 準備が整い、いよいよ出発の時が来た。碇が運転席に、榎田が助手席に乗り込む。


「さあ、行きますよ。故人の最後の夢とやらを、叶えにね」


 碇はそう言うと、慣れた手つきでMGBのエンジンを始動させた。バリバリというクラシックカー特有の力強い排気音が、静かな工場に響き渡る。


『おお……!この音だ!この響きだ!最高だぜ、相棒…!』


 岩田の歓喜の声が、榎田の頭に鳴り響いた。彼の半透明な姿が、嬉しそうに後部座席の小さなスペースに乗り込むのが見えた。

 MGBはゆっくりと工場を出発し、一路、箱根を目指す。道中、真っ赤なクラシックカーは周囲の注目を集めた。


「うわぁ、結構見られてますね。この車、やっぱり目立ちます」


 碇がサイドミラーを確認しながら言う。榎田は、懐から取り出した地図を広げ、ナビゲーター役を務めた。



 やがて、MGBは芦ノ湖スカイラインの入り口に到着。料金所を抜け、いよいよ本格的なワインディングロードへと突入する。道は緩やかなカーブを描きながら、標高を上げていく。


「ここからが本番ですね…。よし、行きます!」


 碇はハンドルを握りしめ、集中した表情でアクセルを踏み込んだ。MGBが気持ちの良いエンジン音を響かせながら、スカイラインを駆け上がっていく。


『そうだ!この風だ!この速度だ!最高だぜ、相棒!もっとぶっ飛ばしてくれぇぇぇ!』


 後部座席の岩田は、風を受けるかのように腕を広げ、歓喜の絶叫を上げている。


「なんだか、エンジン音が快調な気がしますね。風も気持ちいいし」


 碇が不思議そうに呟いた。彼女には何も見えず、聞こえない。だが、この車の持つ「気配」が、いつもと違うことは感じ取っているのかもしれない。


 いくつものカーブをクリアし、やがて眼前に広々とした大観山展望台の駐車場が見えてきた。碇はゆっくりとMGBを駐車場に入れ、絶景が広がる展望スペースの近くに停車させる。エンジンを止めると、心地よい静寂が訪れた。


「着きましたね。最高のロケーションじゃないですか。これで『走行試験』もバッチリですね」


 碇がふう、と一息ついて車を降りる。榎田もそれに続いた。

 MGBの後部座席から、ふわりと岩田健吉の霊が降り立った。彼は車の横に立ち、眼下に広がる雄大な芦ノ湖と、その先に広がる箱根の山々を、深く息を吸い込むかのように見つめている。その表情は、達成感と安堵に満ちていた。


『……ああ、最高の眺めだ…。この日を、どれだけ待ち望んだことか……』


 岩田の霊は、再びMGBにそっと手を触れる。そして、ゆっくりと車から離れ、展望台の柵の向こう、空と芦ノ湖が広がる方向へ向かって歩き出した。


『…もう思い残すことはねぇ。俺の夢を叶えてくれて、ありがとな、相棒…そして、お前さんたちも…』


 背中を向けたまま、彼の静かな感謝の声が榎田の頭に響いた。岩田の体は、太陽の光を受けて、徐々に輝きを増していく。半透明の体がさらに淡くなり、光の粒子となって空へと舞い上がっていく。その光は、まるで夏の陽炎のようにゆらめき、やがて青い空に溶け込んでいった。


「……成仏、ですねぇ」


 榎田は、その光景を静かに見守り、ぽつりと呟いた。


「え?榎田さん、何か言いました?」


 隣に立つ碇が、不思議そうに彼を見る。


「いえ、なんでも。ただ……なんだか、急に空気が澄んだ気がしませんか?」


 榎田がそう言うと、碇はきょとんとした顔で空を見上げた。


「そうですか?……まあ、気のせいかもしれませんけど、確かに、気分は良いですね」


 彼女の徹底した現実主義の心にも、この不思議なドライブは、何か心地よい感覚を残したようだった。

 帰り道、再び碇が運転するMGBの助手席で、榎田は少しだけ静かになった頭の中で、自分の厄介な能力との付き合い方を考えていた。一人では暴走しかねないこの力を、現実世界に繋ぎ止めてくれるバディの存在が、今は何よりもありがたかった。


(第6話 了)

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