第5話:冴えない男の受難と、赤い車

「うるさいぃ……」


 榎田順一郎は、自宅兼事務所のデスクで、冷めたコーヒーをすすりながら呻いた。ボロアパートの一件以来、彼の頭の中は四六時中、霊たちの井戸端会議で満たされている。この新たな能力は、彼の精神を確実に蝕んでいた。おかげで、独立事務所の生命線である鑑定報告書の作成も遅々として進まない。


 そんな折、彼のスマートフォンが鳴った。ディスプレイには「碇裕美子」の文字。彼の主要顧客である万城目不動産の、有能すぎる担当者だ。


「はいぃ、榎田ですぅ……」

「榎田さん!やっと出ましたね。昨日送ったメール、確認していただけましたか?至急、お会いしたい案件があるんです」


 電話口から聞こえてくるのは、いつものように淀みなく、そして有無を言わせぬ彼女の声だった。



 一時間後、榎田は万城目不動産のオフィスビル内、狭い小会議室で碇と向かい合っていた。机の上には分厚いファイルが置かれている。


「榎田さん、最近顔色が優れませんけど、大丈夫ですか?不摂生がたたっているんじゃないですか」

「い、いやぁ、ちょっと寝不足なだけですよぅ……」


 彼女の現実的な指摘に、榎田は曖昧に笑ってごまかすしかない。碇はそんな彼を一瞥すると、すぐに本題に入った。


「今回お願いしたいのは、岩田製作所の案件です」


 彼女はファイルを開き、一枚の写真と物件概要書を榎田の前に滑らせた。


「オーナーの岩田謙吉社長が先月お亡くなりになり、工場と土地を売却することになりました。買い手もすぐに見つかり、話は順調に進むはずだったんですが……」


 碇はそこで言葉を切り、写真をとんと指で叩いた。そこには、鮮やかな赤いクラシックカーが写っていた。


「問題は、これです。レストアが完了したばかりのMGB Mk.1。故人の道楽で、かなりの費用が投じられています。動産としてこれも売却対象なのですが……なぜか、誰もこの車に触ろうとしないんです」

「触ろうとしない?」

「ええ。遺族や工場の従業員に聞いても、『車がピカピカすぎて触るのが怖い』とか、『社長の魂がこもっているようで、勝手に動かせない』とか、非科学的なことばかり。買い付け業者も『気味が悪い』と言って、この車のせいで工場全体の買い取りを保留にしている状態です。この車をどうにかしないと、不動産そのものの処理が進まないんです」


(ああ、これは……また、いるのですねぇ……)


 榎田の頭の中には、すでにMGBの周りを漂う霊の姿と、その声が聞こえ始めていた。


『私のMGBだ!勝手に触るなぁ!』


「なるほどぅ。厄介な心理的瑕疵、というわけディスねぇ」

「その通りです。私はそんなオカルトは信じていませんが、事実として取引がストップしている。榎田さんには、物件全体はもちろん、この車が本当に『動かせる』状態なのか、その心理的瑕疵の原因を鑑定してきてほしいんです。あなたの鑑定書があれば、彼らの心理的なブレーキも外せるでしょうから」


 彼女の依頼は、どこまでもビジネスライクだ。榎田が頷くと、碇は手早くファイルを閉じた。


「では、早速現場に向かいましょう。準備してください」

「え、今からディスかぁ?」

「当然です。善は急げ、ですよ。車は私が運転しますから、榎田さんは助手席で現地の資料に目を通しておいてください」


 彼女はそう言うと、当たり前のように車のキーを手にした。榎田は運転が苦手で、万城目不動産の案件で移動する際は、いつも彼女がハンドルを握るのが常だった。

 碇が運転する車は、都心の喧騒を抜け、工業地帯へと向かった。年季の入った「岩田製作所」の看板が掲げられた工場の前で車が停まる。シャッターは固く閉ざされ、人の気配はない。


「さあ、入りますよ」


 碇は手にしたキーでシャッターを開けた。ギギギという重い音を立ててシャッターが上がると、工場内部の薄暗い空間が現れる。金属と油の匂いが鼻をついた。


「うわ、電気がつきませんね。ブレーカーが落ちてるのかも」


 碇が壁のスイッチを何度か押すが、蛍光灯は沈黙したままだ。

 工場の片隅に、白いカバーのかかった車が一台、ぽつんと置かれていた。あれがMGBに違いない。榎田がそちらに目を向けた、その瞬間。


『おい、お前!聞こえてるな!冴えないツラして、やっと通じるヤツが来たか!』


 頭の中に、いきなり豪快な男の声が響き渡った。榎田は「ひっ!」と情けない声を上げ、思わずよろめく。


「榎田さん!?どうしたんですか、急に!足元、気をつけてくださいよ」


 碇が訝しげに彼を見る。彼女には、もちろん何も聞こえていない。


「い、いえぇ。なんでもないディスよぉ。ちょっと、暗くて足元が……」

「これじゃあ車の状態もろくに確認できませんね。私、主電源を探してきます。榎田さんはここで待っていてください。勝手に車に触っちゃダメですよ」


 そう言うと、碇は懐中電灯を片手に、工場の奥へと消えていった。

 一人、薄暗い工場に取り残された榎田。静寂の中、頭の中に響く声だけが、やけに明瞭になる。


『やっとあの娘っ子がいなくなったか!』


 声の主が、MGBのカバーの中からすっと姿を現した。作業着姿の、がっしりとした体格の初老の男。故・岩田謙吉の幽霊だ。


「あなたが、岩田さんディスかぁ……」

『そうだ!お前さん、本当に俺の声が聞こえるんだな。面白い!』


 岩田の霊は、腕を組み、ニヤニヤしながら榎田を見ている。初めて間近で交わす濃密な霊との対話に、榎田の脳が直接揺さぶられるような感覚がした。霊の声は、電話のように耳から入るのではなく、思考に直接割り込んでくる。これは、想像以上に気力を使う。


「何か、心残りでもおありディスかぁ?」

『ああ、そうだ。俺は岩田謙吉。この工場をずっとやってきた。そして、こいつ(MGBを指す)は、俺の相棒だ。若い頃からの夢でな、やっとレストアが終わったばかりだったんだ』


 岩田の霊は、MGBのカバーにそっと手を触れた。その手は車体をすり抜けるが、その表情には深い愛情が滲んでいる。


『それが…もう少しで、こいつと芦ノ湖スカイラインを走れるって時に、ポックリ逝っちまった。まさか、俺がこんなことになるとはな…』


 彼の声には、深い無念がこもっていた。


『なあ、お前さん。頼みがある。俺の魂を乗せて、あのMGBで、芦ノ湖スカイラインを走ってくれねぇか?このままじゃ、成仏なんざできやしねぇ!』


 岩田の霊は、その豪快な見た目とは裏腹に、切実な願いを込めた表情で榎田を見つめる。彼の強い念が、波のように榎田に押し寄せてきた。頭がズキズキと痛み始める。


「わ、私が運転をディスかぁ?…いや、それはちょっと……」


 運転が苦手な榎田は、思わず尻込みした。


『お前しかいないんだ!頼む!』


 岩田の強い想いが、再び榎田の脳を揺さぶる。視界がぐらりと歪み、立っているのがやっとだった。霊との対話は、彼の精神力を容赦なく削り取っていく。


「で、ですがぁ……」

『頼む!』


 岩田の最後の懇願が、雷のように榎田の頭に響き渡った。その瞬間、彼の意識はぷつりと途切れ、視界は真っ暗になった。


「榎田さーん!ブレーカー見つかりましたよー!」


 しばらくして、碇が意気揚々と戻ってきた。彼女が壁の配電盤を操作すると、カチン、という音と共に、工場の天井の蛍光灯がまばらに点滅し、やがて薄白い光で内部を照らし始めた。


「これでやっと鑑定できますね。……榎田さん?」


 明るくなった工場で碇が見たのは、赤いMGBの横で、ぐったりと床に倒れている榎田の姿だった。


「え…榎田さん!?しっかりしてください!榎田さーん!」

 碇の焦った声が、静かな工場に響き渡った。


(第5話 了)

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