第2話:大物弁護士と、古き友の信頼

 留置場の固く冷たい板の間で、榎田順一郎は静かに夜明けを迎えた。昨夜の喧騒が嘘のように、今は重苦しい静寂が空間を支配している。壁の小さな窓から差し込む朝日は、彼のくたびれたスーツを照らし出し、しわくちゃになった顔の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。


「はぁ……」


 彼は一つ、深く、そして長い溜息をついた。人生で二度目の留置場だ。一度目は若い頃、酔っ払って公園のベンチで寝てしまい、不審者として保護された時だった。まさか、不動産鑑定士という国家資格を持つ身で、住居侵入罪の現行犯で逮捕されるとは夢にも思わなかった。しかも、真面目に仕事をしていてのことだ。


「つくづく、私の人生って、ついていませんねぇ……」


 独りごちたが、返事はない。隣の独房からも、微かな寝息しか聞こえてこない。榎田は、背中の痛む体をゆっくりと起こし、壁に寄りかかった。頭の中には、昨日の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた。あの萩原さん親子の大騒ぎ、警官たちの厳しい視線、そして、まるでショーでも見ているかのような野次馬たちの好奇の目。


(ああ、あのドローンが、あんな騒ぎになるとは思わなかったですけどぉ……。いや、ドローンはあくまで仕事で使っただけなんですよぅ。まさか、空き家の中に隠しカメラがあると思われたとは……)


 彼は、自分が「冴えないおっさん」であることは自覚している。だが、職務には真摯に取り組んでいるつもりだ。それが、まさか泥棒扱いされるとは。榎田は頭を抱え、再び深く息を吐いた。胃のあたりがしくしくと痛み始めたのは、ストレスのせいだろうか、それとも加齢のせいだろうか。


 午前九時を過ぎた頃、独房の扉が開き、警官に連れられて取調室へと向かった。そこで待っていたのは、見慣れない男と、そして、見慣れた顔だった。


「榎田さん!全く、もう!心配しましたよ!」


 見慣れた顔とは、万城目不動産の社員、碇裕美子だった。彼女は、きっちりとしたスーツ姿で、だがその顔には明らかな疲労と、それ以上の怒りが浮かんでいた。彼女の横には、いかにも高そうなスーツを着こなした、威厳のある初老の男が座っている。男は白髪をきっちりと撫でつけ、鋭い眼光で榎田を見据えていた。


「どうもぉ、すいませぇん……」


 榎田は蚊の鳴くような声で謝った。


 碇は榎田の隣に座るなり、机に「バチン!」と音を立てて何かを置いた。それは、榎田が昨日落としたガラケーだった。


「これですよ、これ!連絡が取れないから、どれだけ心配したか!一体何してるんですか、もう!」


 碇の小言は止まらない。榎田はただひたすら平謝りするしかない。そんな二人を、初老の男は面白そうに眺めていた。


「まあ、まあ。碇くん、その辺にしておきたまえ。彼も大変だったのだろう」


 その声は、重厚で有無を言わせぬ響きがあった。男は榎田に向き直ると、にこやかに微笑んだ。


「久しぶりだね、榎田くん。まさか、こんな形で君と会うことになるとは」


 その男こそ、政財界にも太いパイプを持つことで知られる大物弁護士、岸川だった。榎田は彼とは面識があった。国家資格を持つ不動産鑑定士として、通常の不動産鑑定では扱えない「特殊な案件」に、岸川弁護士が仲介役として関わることが度々あったからだ。彼の法律事務所は、そうした「見えざるもの」が関わる複雑な事案の処理にも長けていると噂されていた。


「き、岸川先生……どうも、すいませぇん。こんな私の不始末でぇ……」


 榎田は恐縮して、さらに小さくなった。


「いや、構わない。万城目社長からの依頼だからね。それに、君の置かれた状況も、詳しく聞いた。どうやら、例の『特殊な事情』が絡んでいるようだね」


 岸川は意味深な笑みを浮かべた。その言葉の含みに、榎田は背筋に冷たいものが走るのを感じた。万城目社長は、どこまで知っているのだろうか。そして、この大物弁護士は。


 その時、取調室のドアが開き、一人の刑事が顔を覗かせた。


「失礼します。岸川先生、お待たせいたしました。阪木原です」


 彼は、ガッシリとした体格の中年刑事だった。その目には、鋭さと同時に、どこか親しみやすさが宿っている。阪木原は、岸川に会釈をすると、すぐに榎田の方へ視線を移した。


「榎田さん、まさかこんなところで再会するとはな。また厄介事を起こしたと聞いて、すっ飛んできたよ」


 阪木原の口調は、まるで旧友と再会したかのような砕けたものだった。碇は、そんな二人の様子に眉をひそめている。


「阪木原刑事とは、お知り合いなんですか?」


 碇の問いに、榎田は曖昧に頷いた。


「ええっとぉ、まあ、以前、ちょっとした案件でぇ……」

「ちょっとした案件、か。榎田さんらしいな」


 阪木原はくすりと笑った。その視線には、かつて共有した「特殊な経験」が宿っているように見えた。


「榎田さん。例の、住民が次々と体調を崩していたマンションの件、覚えていますけどぉ……?」


 阪木原の言葉に、榎田はギクリとした。それは、まだ榎田が「霊を見ること」ができるようになる前のことだ。とあるマンションで、住民が次々と体調を崩し、不審な物音や怪現象が頻発するという奇妙な事件が起こっていた。警察では「ただの老朽化によるもの」と処理しようとしたが、阪木原だけは違和感を抱いていた。そこで、万城目不動産を通じて、榎田が鑑定に派遣されたのだ。


「あぁ、ええ、覚えていますけどぉ……」

「あの時、あなたは『この部屋には、ただならぬ『気配』が澱んでいる。何かが見えないけれど、確かに存在する』と言いましたね」


 阪木原は、真剣な表情で言った。


「誰も信じなかった。だが、あなたの言葉を信じて、特殊な清掃と、専門家による除霊を依頼した。その結果……」


 阪木原は、そこで一度言葉を切った。そして、静かに、しかし力強く続けた。


「その除霊の最中、あなたは気絶した。そして目が覚めた時、『ハッキリと見えるようになった』と私に言った。それからですね、あなたの鑑定が、常識では考えられない精度を帯びるようになったのは」


 榎田は、その時のことを鮮明に思い出していた。あのマンションの一室で、これまで感じていた「気配」が、突然、半透明な人影として目の前に現れたのだ。その瞬間、彼の意識は途切れ、次に目覚めた時には、世界は全く違うものに見えていた。壁の染み、家具の配置、そして、そこに留まる人々の「残滓」が、まるで立体映像のように彼の視覚に飛び込んでくるようになったのだ。それは、不動産鑑定士としては、あまりにも厄介な能力だった。


「私はあの時、あなたを心底信頼したんです。常識を越えた現象に対し、真正面から向き合い、真実を見抜こうとするあなたの姿勢を」


 阪木原は、まっすぐな目で榎田を見つめた。その眼差しには、職務を越えた、深い尊敬の念が込められている。


「だから、今回の件も、私は榎田さんが不審な行動を取るはずがないと確信しています。彼は、ただ真面目に職務を遂行していただけだ」


 阪木原は、取調室にいた他の警官たちにも聞こえるように、はっきりとそう言った。その言葉には、警察組織の一員としての立場を越えた、一人の人間としての強い信頼が込められていた。彼の証言は、警官たちにも無視できない重みを持っていた。

 岸川弁護士は、阪木原の言葉に満足げに頷いた。彼の存在が、今回の誤認逮捕を迅速に解決へと導く決定打となることを確信したかのようだ。


「……なるほど。阪木原刑事のお墨付きとなれば、こちらも話が早い」


 岸川はそう言うと、持っていた書類を机に置き、警官たちに向かって話し始めた。彼の言葉は淀みなく、一つ一つが法的な根拠に裏打ちされており、反論の余地を与えない。警察側も、岸川弁護士の圧力と、阪木原刑事の証言によって、今回の件が単なる誤認逮捕であると認めざるを得ない状況に追い込まれていった。




 数十分後、榎田は無事に釈放された。留置場を出て、警察署の廊下を歩く榎田、碇、そして岸川弁護士。その前方には、署長以下、制服警官たちがずらりと並び、緊張した面持ちで彼らを待っていた。


「岸川先生、この度は誠に申し訳ございませんでした!」


 署長は、まるで土下座でもしそうな勢いで、深々と頭を下げた。他の警官たちもそれに倣い、一斉に頭を垂れる。その視線は、榎田の存在などまるで視界に入っていないかのように、一途に岸川弁護士に向けられていた。


「いや、構いませんよ、署長。これも、世のため人のため。彼も、君たちも、それぞれの職務を全うした結果ですからね」


 岸川は鷹揚に頷き、まるで慈善事業でも行っているかのように、穏やかな笑顔で答えた。その言葉は、まるで上から目線で許しを与えるかのような響きがあった。


 署長は恐縮しきった様子で、何度も頭を下げ、岸川に気を遣っていた。榎田は、その異様な光景に、ただただ小さく縮こまるしかなかった。碇は、そんな彼を横目で一瞥すると、呆れたような、しかしどこか誇らしげな表情で岸川を見上げていた。


 警察署の門を出た彼の目に飛び込んできたのは、冷たい空気と、少し眩しい陽光だった。


「全く、榎田さん!もう二度と、こんなことにならないでくださいね!」


 碇が、腕を組みながら小言を言っている。彼女の顔には、安堵と、未だ残る怒りが混じり合っていた。


「すいませぇん。もう、こりごりですよぉ……」


 榎田は、まだ胃の痛むお腹をさすりながら、力なく答えた。


「それにしても、阪木原刑事との関係、驚きました。あの阪木原刑事が、榎田さんをそこまで信頼しているなんて」


 碇は、信じられないといった様子で首を傾げた。彼女の現実主義的な視点からすれば、榎田の「特殊な能力」など、理解できるはずもない。


「まあ、昔、ちょっとしたマンションの案件でぇ……。とにかく、助かったですよぅ。ありがとうございますぅ」


 榎田は曖昧にごまかしつつ、岸川弁護士と阪木原刑事、そして碇に頭を下げた。


「いえいえ。これも仕事ですから。それにしても、榎田さん」


 碇は、急に真面目な顔つきになった。


「今回の誤認逮捕で、万城目社長もさすがに頭を抱えていました。ただでさえトラブルメーカーなのに、まさか警察沙汰になるとは……。ですが、社長はこう仰っていました。『榎田の鑑定眼は、時に常識を凌駕する。彼にしかできない仕事がある』と」


 榎田は、碇の言葉に複雑な表情を浮かべた。トラブルメーカーだと思われているのは不本意だが、社長の信頼は素直に嬉しかった。そして、「彼にしかできない仕事」という言葉に、一抹の不安を覚えた。それは、きっと、厄介な仕事に違いない。


「当面は、少し静かな案件で、信頼を取り戻してくださいね。次に警察に捕まったら、今度こそクビですからね!」


 碇はそう言って、榎田の背中をバシッと叩いた。その言葉には、半分は本気、半分は彼を励ますような響きがあった。


「はいはい。承知ですよぅ……。静かな案件、ですかぁ。だと良いですけどぉ……」


 榎田は空を見上げた。澄み切った青空が、彼の小さな不安を覆い隠すように広がっていた。彼の「冴えない」日常は、またしても予期せぬ方向へと進んでいく予感がしていた。


(第2話 了)

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