「榎田順一郎の日常」〜冴えない中年、幽霊の愚痴を聞くハメに〜

大堀吹太郎

第1話:冴えない鑑定士と、騒がしい隣人

 その日、荻原とも子は自宅のダイニングで、静かにパソコンに向かっていた。朝から続くリモートワークは、いつもと変わらぬ穏やかなリズムで進んでいた。午前中の会議を終え、淹れたてのコーヒーを一口含んだその時、背後から突然、幼い娘の声が響いた。


「……お母さん」

「うわ!ビックリした!」


 とも子は思わず肩を跳ね上げた。振り返ると、そこには娘の璃梨佳が、真剣な表情で立っていた。その顔には、いつもにはない、どこか怯えたような色が浮かんでいる。


「しっ!」


 璃梨佳は小さく声を出すと、口の前に指を立てて、静かにするようジェスチャーした。その瞳は、何かを警戒しているかのように、大きく見開かれている。


「……なに?どーしたの?」


 とも子も娘のただならぬ様子に、自然と声をひそめた。心臓がトクトクと、不規則なリズムを刻み始める。


「……隣のお家に、変なオジサンがいる……」


 璃梨佳の言葉に、とも子は一瞬で顔色を変えた。隣の家は、数ヶ月前に独り暮らしの老人が亡くなって以来、ずっと空き家になっていたはずだ。人影を見るのは、引っ越しの作業員以来だった。


 とも子はゆっくりと立ち上がり、キッチンの窓へと向かった。レースのカーテンをそっと捲り、隣の家の敷地内を覗き込む。確かに、そこに人影があった。薄汚れたスーツに、どこかくたびれた赤いネクタイを締めた、いかにも「冴えない」といった風貌の中年男性だ。彼は一台の小型カメラとタブレットを手に、まるで調査員であるかのように家の周囲をうろうろと探っている。時折、軒下を覗き込んだり、庭の隅を念入りに調べている。


「お葬式の時、あんな人いた?」


 とも子は璃梨佳に尋ねた。


「うーん。覚え無いなぁ」


 璃梨佳は首を傾げた。隣家とは家族ぐるみの付き合いだったため、とも子も葬儀の手伝いに行ったが、そこで紹介された親族の中に、あの男性の顔はなかった。


「どうしようか?」「どうしよう?」


 母娘は顔を見合わせ、不安げに囁き合った。とも子の頭の中には、様々な可能性が駆け巡っていた。泥棒?不審者?それとも、まさか……。

 その間にも、おっさんの動きは止まらない。彼は一度、建物の影に姿を消したかと思うと、次の瞬間、窓から見えにくい場所で再び姿を現した。


「あれ?いない?」

「あ!あそこに居る!押入を覗いているよ!」


 璃梨佳が興奮した声で叫んだ。

 とも子が再び窓に目をやると、おっさんは確かに空き家の縁側から内部へと侵入し、押し入れの襖を開けて中を覗き込んでいる。その無遠慮な態度に、とも子の不安は確信へと変わった。


「あれ、泥棒じゃない?」「泥棒だよ!」


 母娘は再び顔を見合わせ、今度は迷うことなく同時に叫んだ。


「ケーサツ!」「119!」「違う!110番!」


 とも子は慌てて窓から離れたが、その場で立ち尽くしてしまった。頭の中が真っ白になり、次に何をすべきか、全く思いつかない。


「ウチはネットはあるけど、電話はない!」


 自宅の固定電話は解約していたのだ。


「お母さん!スマホ!スマホ!」


 璃梨佳が自分のスマホを差し出す。焦るあまり、とも子は璃梨佳のスマホのロック解除にも手間取り、ようやく警察へと電話がつながった。


「事件ですか?事故ですか?」


 オペレーターの落ち着いた声が、とも子の耳には遠く聞こえた。


「事件?事故?どっち?」

「事件!事件だよ、お母さん!」


 璃梨佳がとも子の腕を揺さぶる。


「はい!はい!事件です事件!そうです!」

「泥棒!泥棒だよ、お母さん!」

「はい!隣の家に泥棒が入っているんです!」


 荻原家は大騒ぎになった。通報を終えたとも子は、今度は玄関の鍵を何度も確認し、窓という窓に全て鍵がかかっているか確認して回った。璃梨佳は、ソファの影に隠れるようにして、じっと隣の家を見つめている。



 荻原家で大騒ぎが繰り広げられている一方、隣の空き家の中では、一人の「おっさん」が淡々と作業を進めていた。薄暗い和室で、彼は戸袋に頭を突っ込み、天井裏を懐中電灯で照らしている。


「えー。押し入れ、天井裏、異常無しっと」


 ぶつぶつと独り言を言いながら、彼は手にしたデジカメでパシャパシャと写真を撮っていく。その動きには一切の迷いがない。まるで、長年染み付いた習慣のように、機械的な正確さで調査を続けているのだ。


「床下、ドローンで撮った屋根と外壁、異常無し!」


 彼はタブレットを操作しながら、画面に表示された画像と報告書を指差し確認している。その姿は、いかにもプロの調査員といった風情だ。


「ヨシ!これで送信!ポチッとな」


 タブレットの画面をタップし、報告書を送信する。一連の作業を終えると、彼はすかさず胸ポケットから古びたガラケーを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。最新のタブレットを使いこなす一方で、未だにガラケーを手放せないという、なんとも「冴えない」おっさんなのである。


「どうもー!榎田ですぅ!調査終わりましたぁ」


 その口調は、どこか締まりがなく、間の抜けた響きがある。しかし、会話の内容は真剣そのものだ。


「今、調査の写真を送りましたぁ。はい。はい」


 電話を終えると、彼はヨレた背広を羽織り、カバンにタブレットやデジカメをしまう。カバンの中身も、一つ一つ指差し確認だ。「フン、フン!ヨシ!」その行動は、几帳面なのか、それとも心配性なのか。


 玄関ドアも施錠し、門扉もしっかりと閉める。完璧に作業を終え、ようやく外に出た彼に、思わぬ声がかかった。


「すいません!ちょっとお話し、よろしいですか?」


 振り向くと、そこにはニッコリと笑顔を浮かべた警察官が二人、立っていた。職務質問である。職質される冴えないおっさん。彼の名は榎田順一郎。まさにその通報の被疑者であった。


「あぁ。はい。ワタクシぃ、こういう者です」


 榎田は流れるような動作で名刺を取り出し、警官に差し出した。彼こそが、不動産の鑑定評価に関する法律に基づいて、不動産の経済価値を判定する国家資格を持つ専門家、不動産鑑定士であった。今回の空き家は、彼が業務提携している「万城目不動産」からの依頼で、物件の調査をしていたのだ。


「なんでしたら、不動産鑑定士協会にお問い合わせ下さい」


 榎田は、警察官の訝しげな視線に慣れているかのように、淡々と答えた。


「あ〜はい。一応、免許証などありましたら、見せてもらえますか?」


 警官は、あくまで笑顔を崩さずに免許証の提示を求めた。


 その様子は、警官の後ろから様子を伺っていた荻原家の母娘も、聞き耳を立てていたようだ。


「不動産の鑑定士だって。そんな職業あるの?」

「鑑定士って顔じゃないよね。ニセモノじゃない?」


 二人とも、自分たちが通報したなどとはおくびにも出さず、すっかり野次馬と化して好奇の目を向けている。


「とりあえず、立ち話も何ですから、あちらのパトカーでお話しを聞かせていただけないでしょうか?」


 警官は、あくまでにこやかにパトカーへと榎田を誘導する。その笑顔の裏には、ベテラン特有の有無を言わせぬ圧力が秘められている。


「あー。手慣れたヤツの言い訳に使われるんだよ、不動産鑑定士。物件の実査なら所有者と管理者とかの立会人は?」

「見当たりません。この方、一人だけのようです」


 無線連絡を受けて駆けつけたのか、別の警官が到着し、先に来ていた警官と小声で話し始めた。どうやら、後に来た警官の方が先輩らしい。


「あぁ、いえ。今、迎えが来るんですけどぅ、その迎えが管理している人でぇ」


 榎田は、慌てて説明しようとする。


「では、そのお迎えが来るまででも。どうぞ、どうぞ」


 警官は笑顔を浮かべながら、じりじりと榎田との距離を詰める。いつの間にか、警察官の数は増え、榎田を取り囲むように包囲網が形成されていた。その圧力に、榎田は思わず後ずさる。


 その時、榎田の足がうっかりカバンに当たり、カバンが倒れて中身がこぼれ落ちた。すると、後方から様子を眺めていた璃梨佳が、転がった荷物の中身に気が付いた。


「あれ?もしかしてドローンじゃない?」「もしや、覗き?」「えー!ヤダー!」


 女性たちの騒がしい声に、榎田はひどく挙動不審になった。やましいことは何もないのだが、元々「冴えないおっさん」である彼は、こうした状況に慣れていない。


「あぁ!いぇ!これはぁ、仕事でぇ……」


 榎田はしどろもどろになりながら弁明しようとする。


「すみません!これについても詳しくお話し訊かせていただきますね!」


 警官の言葉に、榎田はさらに後ずさりするが、すでに包囲は完成していた。もう逃げ場はない。


「逃げようとしたな!」「はい!確保!住居侵入罪の現行犯で逮捕します!」

「えぇ!ちょっ!ちょっと〜!」


 榎田の情けない声が響き渡る中、彼はあっという間に手錠をかけられ、パトカーへと連行されていった。最終的に6台にも増えたパトカーが去った後、道端には榎田のガラケーがポツンと落ちていたのだった。



 パトカーが去り、静かになった路地に、一台の軽自動車がゆっくりと停車した。その車から、スーツ姿の若い女性が降りてきた。彼女はキャリアウーマン風のきっちりとしたオフィスカジュアルに身を包み、洗練された印象を与える。その顔には、どこか疲労の色が浮かんでいるものの、きりりとした眉と真剣な眼差しが、彼女の有能さを物語っていた。


 碇裕美子。万城目不動産の社員である彼女は、いつもタイミングが悪い、と自嘲する。


「あれ?榎田さんたら、ドコへ行っちゃったのかな?家の前で待っているって言ったのに」


 碇は周囲を見回したが、榎田の姿はない。まさか、ほんの数分でこれほどの騒ぎが起きていたとは、知る由もない。


「榎田さーん!クルマ回してきましたよー!」


 碇が大きな声で榎田を呼ぶが、当然のことながら返事はない。


「もー!すぐにフラフラといなくなっちゃうんだから!」


 苛立ちながら、碇は自分のスマホを取り出し、榎田のガラケーに電話をかける。すると、足元でチリンチリンと、古びた着信音が聞こえてきた。


「あれ?これ、榎田さんの電話じゃ?あー!全く、もう!電話を落としたら、連絡出来ないじゃない!」


 碇は渋い顔でガラケーを拾い上げた。奇跡的に壊れておらず、無事に回収されたそれは、ポケットへと収められた。しかし、この瞬間、榎田はどこにも連絡がとれず、その夜は留置場で過ごすことになったのだった。


(第1話 了)

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