42.
マルクは何も知らないわたしに、たくさんのことを教えてくれた。
「楽しい」を教えてくれた。
「嬉しい」を教えてくれた。
「寂しい」を教えてくれた。
「好き」が何かを教えてくれた。
「大切」がどんなものか教えてくれた。
「愛しい」を、教えてくれた。
わたしが知らなかった優しいものを、たくさん教えてくれたのだ。
「――――最近、反応が悪いですね」
マルクがクエストへと旅立っていったその夜、わたしは先生の元へ「夜伽」に呼ばれた。行為を終えて、ぽつりと先生がそんなことを言ったのに、わたしは何の表情を浮かべることもなくただ「すみません」と言っておいた。
何も思うことが無かったこの行為は、いつしか心底嫌悪するようになっていた。気色悪いとさえ思っていた。マルクに触れられるのはあんなにも心地がよかったというのに、相手が違うだけでこうも違うものなのだなと、顔には出さずそんなことを思った。
「まあ、十分楽しめるので構いませんが――そうそう、帰る前にこれを持って行きなさい」
服を着終え、身支度を終えたわたしに向かって先生がそう言ったのに、わたしは先生に振り返った。
「“狩り”の依頼です。頼みましたよ、イレヴン」
そうして、いつものように渡された写真と地図に目を落とし、わたしは一瞬息を止めた。
心底驚いた。けれど、その驚きを顔に出すことはしないようにした。マルクと出会ってから、少しずつ取り戻していた感情というものを、先生のお陰で隠すことが上手くなっていて良かったと、そう思った。
――――写真に写っていたのは、マルクだった。
先生がわたしとマルクの関係など知る筈なかった。何せ、先生はわたしが普段どう動いているのかなんて、興味ないのだから。わたしが頻繁に足を運ぶあの酒場の場所も、伝達係の猫は知っていても先生は知らないだろう。そしてその猫も、理由は分からないけれど先生に好意的ではなく、何ならわたしに好意的であったため、先生にわたしが何をどうしているか伝えたりしていないのを、わたしは知っていた。監視だってされていない。
必要な時に勝手に呼び出され、用をさせるためだけの存在――先生の使い人形であるのが、わたしだった。
ずっと、先生はわたしのことを躾はするものの管理はしなかった。管理などしなくとも、わたしが逃げ出すことなどないと、先生は分かっていたから。
だから、渡されたこの写真に写っているのがマルクであるのは、十中八九偶然だということも分かった。分かったから、先生には何も悟られないようにそれを聞かなければならないと、わたしは思ってしまった。
「どうした、もう用は済んだから早く行きなさい」
「……先生」
「? 何ですか」
何も悟られないように、声を震わせることもなく、それを聞かなければならないと思ってしまったのが間違いだった。
「一つだけ、聞いてもいいでしょうか」
「…………」
「自分はこれまでこうして言われるがままに“狩り”を行ってきましたが、その対象となる人物は一体どういう理由でその対象となっているのですか」
「…………」
「“狩り”を実際行っているのは自分です。ですから、その理由を――……」
言っている途中でだった。
パァンっ!と乾いた音が左耳の近くでして、そのまま床に自分の身体が転がったことにわたしはただ目を見開いた。じわりと左頬に熱とが痛みが広がって行くのに、わたしの身体から血の気が引いた。先生に、頬を叩かれた。
「変ですねぇ……私の知っているイレヴンはそんなことを言う子ではなかった筈ですが」
ぽつりと呟くように先生がそう言ったのに、わたしの身体は金縛りにあったように動かなくなり、カタカタと小さく震え出した。
先生は、部屋の中を歩いて自身が使っている剣を手に取ると、鞘から引き抜くことはせず、それでわたしの顎を持ち上げ、上を見上げさせた。そこにはわたしのよく知る張り付けたような笑顔の先生が、わたしのことを見下ろしていた。
「君がそれを知って、何になると言うのです?」
「ぁ……」
「理由を知り、自分がしていることが正しい行いなのだとでも思いたいのですか?」
「じ、ぶんは、」
「大丈夫――そんなことを思う必要はありません。イレヴン、君に考える必要はないのです」
「っ、」
「殺せ。命令は絶対だ。君に感情など要らないと――そう教えたでしょう?」
訥々と、諭されるように、一つ一つゆったりとした口調で先生から言われるそれらに、わたしは目を見開いて、緊張からハッ、ハッ、ハッ、と浅い呼吸を繰り返した。わたしの全身の細胞が、マルクとの日々で忘れかけていた先生への恐怖を思い出していた。
「一端に感情など持つな……君は、私の使い人形だろう?」
そこまで言うと、先生はわたしの顎を持ち上げていた剣でわたしのみぞおちをドっ!と叩き、わたしが呻き声を上げて身体を丸めたのに、膝をついて耳元で静かに言った。
「さあイレヴン……返事は?」
問われたそれに、全身から冷や汗が吹き出し、わたしは空っぽの声で「はい」と返事をした。
それ以外の返事を言うことを、教えられていなかったから。
+
自分が所属するギルドナイトの正装は、黒ずんだ赤色を基調とした装備だった。
それを身に着けて鏡の前に立つ度、わたしは「なんだか返り血でも浴びて構わないと言わんばかりの装備だな」と思っていた。多少返り血を浴びたところで、この装備であればそれは気付かれないだろう。そして、初めての対人の任務をこなした時、「だからこんな色をしていたのか」とわたしは思った。
闇夜に紛れやすく、任務の後に痕跡が残りにくい。一言で言えば、暗殺に適した装備だった。
いつものように、その装備に身を包み、黒い外套を羽織って、わたしは先生から与えられた双剣を手にした。二対からなる双剣は、対象の首を跳ね飛ばすのに適した武器だった。上手くいけば、抵抗されることなく対象はこと切れ、下手を打っても片方で防御して片方で攻撃できるため、対人にはもってこいの武器だ。
わたしが躊躇いさえしなければ、相手を苦しませることなく終わらせることができる。躊躇いさえ、しなければ。
場所は、ハンターライセンスを所持した者しか足を踏み入れられない、一般人は立入禁止となっている区域――いわゆるフ危険区域だった。先生からの依頼は、大体にしてそんな危険区域で行われた。村でそれをしてしまえば殺人事件にでもなってしまうが、危険区域であれば危険なモンスターが出る場所で在るため、その要因が何なのか特定し辛い上に、普通特定しようとしないから。危険区域に出て死んだ者の責任を、ギルドは一切負うことはない。それは、ハンターの規約の一つである。
地図に記された場所に向かって歩き、人の気配を感じたことにわたしは双剣を手にした。対象を目に捉え、気付かれないよう近づいて、後ろから首を跳ね飛ばせばいいだけだ。そうすれば、きっと、いつも通り何も思うことなくこの任務を終わらせることができる。
終わらせて、帰らなければ、わたしは。
そうして、わたしが対象に近づき、剣を振りかざそうとした瞬間だった。
稀に、手練れであると気配に気付かれ振り返られる時があるが、今回はそうだったのか――ただ、相手が振り返ったところですでにわたしが先手を決めているため、そこから抗われることがあろうとも問題にはならない。
「――――イヴ……?」
問題があったのはわたしの方だった。呼ばれた名前に、躊躇いが生まれてしまったから。
+
噎せ返るほどの血の匂いに、わたしの意識はぐらぐらとした。こんな匂い、慣れていたはずなのに、どうしてこんなにもそれに恐怖を抱いているのだろう。
流れ出ている鮮血の中で膝をついて、わたしはその出所である元を止めようと、両手で必死に抑えつけていた。
「……し、死なないで、お願い、死なないで……っ」
それをやったのは自分自身だというのに、何とも滑稽な発言だと思った。馬鹿みたいに溢れ出る涙だって、おかしな話だった。
わたしが泣くのはどう考えたって可笑しい。だって、被害者はマルクの方だ。
細い声で、「イヴ」とわたしを呼ぶ声が聞こえた。わたしのことをそう呼んでくれるのはマルクだけだ。
マルクは患部を抑えるわたしの手に触れて、ふと笑みを零した。
「バカだなあ……君は悪くないんだから、そんなに泣かなくてもいいのに……」
マルクの言っていることが分からなく、混乱していた頭の中は更に混乱した。わたしが悪くないはずないのに、わたしが、マルクのことを剣で刺したというのに。
何か言いたいのに言葉はわたしの口からは何も出て来なく、ただ震えた。
躊躇ってしまったわたしは、マルクのことを一撃で仕留めることができなかっただけではなく、刺し損じてしまった。致命傷を与えるだけ与えて、それ以上わたしの身体は動かなくなり、こんなことになっていた。すぐには死なないだろう、けれど、助けることもできない傷をわたしがマルクに負わせた。
殺すつもりで切りかかったくせに、死なせたくないと、今更わたしは思っていた。
「わ、わたし、わたしがっ、マルク、ごめんなさい、わたし、」
「イヴ、俺、知ってたんだ、最初から」
「な、にを」
「――君が、ギルドの人間だってこと。知ってたから俺は君に近づいた」
「どう、いう……」
「……金のために、俺は悪いことしてたから。いつか俺はこうやって排除されるだろうって思って……殺されないよう、君に近づいたんだ。ハニートラップていうか?」
小さく笑いながらそう言ったマルクに、わたしはますます理解できなかった。だって。
「……だったら何故避けなかったんですか、避けれたのに、避けてわたしを殺すこともできたのにっ、どうしてそうしなかったんですかっ!!」
わたしは、マルクに名前を呼ばれた時、確かに躊躇った。その躊躇いはどう考えても、わたしが殺されたって全然可笑しくないくらいの隙だった。それなのにマルクは、腰に携えていた剣を抜くことも、動くこともしなかったのだ。マルクの言ったハニートラップは、成功していたというのに。
なのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
「誤算だったのは……俺が本当に君のことを愛してしまったことかなあ」
「え……、」
「家族のためにとはいえ悪いことしてきたのは事実だし……それで君に殺されるならいいかって。この仕事の前金で目標としてた金額は家族に送れたから」
「だ、から抵抗しようとしなかった、んですか……?」
「俺が抵抗してたらこの時間はなかった……イヴと話すこともできず、きっと俺は死んでたんじゃない? 俺じゃイヴに敵わないし」
「でもっ、だからって、どうして……っ」
マルクの言う通り、抵抗されていたらわたしはきっと、確実に急所を刺してマルクのことを殺していただろう。躊躇いが生まれた今、中途半端に致命傷を与えて動けなくなってしまい、でもどの道、マルクは。
細く息を吐いて、マルクは笑った。
「イヴ……俺ね、君のことを助けてあげたかった。これで俺も家族のことあんまり心配しなくてよくなるし、君を連れてここから逃がしてあげたかったんだ」
「わたしを、助ける……?」
「君の見ている世界は狭い鳥かごの中みたいなものだよ。そこから君を引っ張り出して、色んなものを見せてあげたかった。俺は……君のことを愛してしまったから、俺が、君を幸せにしたかったなあ……」
そこまで言うと、マルクはわたしの頬を手で撫でて、にこっとわたしに向かって笑いかけてきた。
「君が……自分の意志でこんなことをしてるわけじゃないのを、分かってる。君は何も悪くないよ、イヴ……だから泣かなくてもいいんだ。弱かった俺が悪い……そのせいで嫌な役回りをさせてしまってごめんね」
「マ、ルク、」
「俺のことは忘れていいから、どうか……君は自由に、生きて……――」
そんな言葉の後、わたしの頬に触れていたマルクの手は地面に落ちて、マルクは動かなくなった。
小さくまた「マルク」と呼びかけてみたけれど、当然マルクから返事はなかった。残ったのはマルクの遺体と、マルクの血で真っ赤に染まったわたしだけ。
――愛していた、本当に。
マルクの傍は、陽だまりのように温かくて、とても優しかった。
彼の綺麗な瞳の色が好きだった。
彼のたくさんの感情が乗る話し声が好きだった。
わたしを「イヴ」と呼んで笑ってくれるその表情が好きだった。
わたしも、マルクの幸せを願っていた。
マルクは最後に、わたしに「悲しい」という感情を教えてくれた。
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