ACT.1

 春の風が、街路樹の若葉を揺らしていた。

 二年前、あの冷たいタイルの上で娘を抱き上げた私――彩花は、今は16歳。ブレザーの制服に袖を通し、新しい学校の門をくぐった。


 紺色のジャケットにリボンタイ、スカートの下には黒いタイツ。足を一歩踏み出すたび、タイツ越しに空気の冷たさと布の摩擦を感じる。その感触は、あの日の裸足の冷たさを思い出させて、胸の奥をきゅっと締めつけた。


 校門の前には新入生らしい子たちが集まっていて、みんな眩しいくらい笑ってた。私も笑いたいのに、どこかぎこちなく、ブレザーのボタンを指先でいじってしまう。だって、私にはみんなと違う秘密がある。制服の胸元の奥に、小さなペンダントを下げている。娘の退院のときに母がくれたもの。


 ――二年前に生まれた娘は、今も健やかに育っている。朝、保育園に預けてから私は電車に揺られ、この学校に来た。ランドセルを背負った子どもたちとすれ違うとき、ふと「あと数年したら、うちの子もこうなるんだ」と想像してしまう。


 教室に入ると、新しい匂いがした。黒板のチョークの粉、ワックスがけしたばかりの床の匂い。座席に腰かけてタイツ越しに脚を組むと、なんだか「普通の高校生」に見える気がして、ほっとした。


 だけど、心のどこかで囁く声がある。

 ――私は普通じゃない。娘を抱えながら生きている。


 だからこそ、この新しい場所で、絶対に守り抜かなきゃ。そう決意した。


 教室のざわめきの中で、ひときわ目立つ声が響いた。


「ねぇねぇ、新入生ってもっと地味かと思ったけど、意外と可愛い子いるじゃん!」


 振り向いた瞬間、視界に飛び込んできたのは金色のツインテール。陽光を弾くみたいにきらきら揺れていて、まるでアニメの中から抜け出してきたみたいだった。ぱっちりした瞳は澄んだ水色で、口角が小悪魔的に上がっている。


 彼女は勢いよく机に手をついて、私の前まで来るとぐっと覗き込んだ。


「あなた、名前は?」


 その近さに思わず身を引いて、慌てて答える。


「……あ、彩花。二年の、えっと……」

「彩花? ふーん、かわいい名前じゃん! 私は美咲(みさき)。よろしく!」


 美咲はにかっと笑いながら、勝手に私の手を握った。爪には薄いピンクのマニキュア。制服はちゃんと着てるのに、どこか自由奔放な雰囲気が漂っている。


「てかさ、入学式って超だるいよね。私、朝から眠くってさー。あ、彩花はどこから来たの? 中学どこ?」


 矢継ぎ早に質問されて、私は言葉を選ぶのに必死だった。娘のことはもちろん秘密。過去を少しでも探られたら危ない。でも、美咲の瞳はまっすぐで、逃げ場がない。


「……普通の、公立中学だよ」

「ふーん。じゃ、同じタイプじゃん。よかったぁ! 私、友達つくるの早いからさ、彩花はもう私の“相棒”ね!」


 いきなり相棒宣言をされて、教室の何人かがくすっと笑った。でも美咲は全然気にしないで、ツインテールを揺らしながら椅子を引き寄せ、私の机にぴたりとくっついた。


 タイツ越しの膝が触れるくらい近くて、私は少し背筋を伸ばした。胸の奥で「普通の子として見られてる」という安堵と、「秘密を知られたらどうしよう」という恐怖がせめぎ合う。


 ――新しい生活は、彼女との出会いから始まる。そんな予感がした。

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