第5話 GATEWAY
マナの海での激しい戦いは、やがて収束に向かっていた。
ゼロはノードとデータリンクを維持し、膨大な情報ストリームの流れを正確に読みながら、データの渦やAdmnの残骸を回避し続けた。彼の知識と集中力は限界に達していたが、ノードの温かい手の感触が、彼の実体データが散逸するのを防ぐ、唯一の現実的な錨となっていた。
「ノイズが…減ってきたわ」ノードが囁いた。彼女の声には、極度の緊張から解放されつつある、安堵の色が混じっていた。
マナの海は、それまでの激しい色彩の乱流から、穏やかな、深い藍色へと変化し始めていた。光の粒子はまだ流れているが、その速度は落ち、空間全体が巨大な静寂に包まれていく。
「ゴールが近い」ゼロは端末の予測コードをオフにした。彼の身体を安定させていた。彼は再び、自分の実体がこの空間でどれほど儚いデータであるかを実感した。安定化コードを解除したことで、彼の身体の輪郭を僅かに覆っていた青い光の残滓が、虚空に溶けて消えた。
そして、その静寂の空間に、突如として巨大な構造物が姿を現した。
それは、マナの海に浮かぶ、巨大な電子的なゲートウェイだった。
形状は、古代文明の石造りの遺跡に似ていた。しかし、その素材は石ではなく、純粋なデータから構成された、黒曜石のような光沢を持つマナの結晶体だった。
その質量感は、エコーシティのあらゆるテクスチャを凌駕しており、世界の創造主の意志がそのまま結晶化したかのようだった。二本の巨大な柱は、この無限に続くデータ空間に確固たる存在感を持って立ち、その間に、わずかにたゆたう青白い光の膜が張られていた。
「あれが…出口?」ノードは畏敬の念を持って見上げた。そのゲートは、自分たちの住んでいた世界の存在全体を支える、根源的なインターフェースに見えた。
「Admnが、このシミュレーション世界を構築したときに使った、マスターキーのようなものだろう」ゼロは言った。
「世界のユニバーサル・マナを、別の領域、Far Landへ転送するための、古代のゲートだ」
ゲートの表面には、理解不能なマナの構文が、青い光の線となって刻み込まれていた。それは、ゼロがエコーシティで学んだ低級なマナコードとは比較にならない、世界の根源に関わる最上位のコードであり、触れることすら許されない神の記述のように感じられた。
ゲートの構造は、完全に停止しているように見えた。青白い光の膜は静かに揺蕩い、まるでAdmnがこの世界を立ち上げた後、そのまま放置したかのような、手つかずの遺跡の様相を呈している。
ゼロはゲートに近づき、手を伸ばした。冷たい、そして完璧なデータの質量を感じる。
「僕たちのデータは、このゲートをくぐり抜けることで、Far Landという新たな領域で再構築されるはずだ。データが分解されるのではなく、再定義されるというわけ」
しかし、ゼロはゲートをくぐろうとはしなかった。ゲートの柱の根元に、まるで監視塔のように浮かぶ、小さな球体の構造物を見つけたからだ。それは、かすかに赤く点滅している。
「待って。あれは…認証監視ノードだ」ゼロの顔から血の気が引いた。警戒心の低いノードであれば見逃したであろう、そのノードの存在は、ゼロのプログラマーとしての直感を激しく揺さぶった。
「ゲートは停止しているが、Admnの最終的な監視システムが稼働している。もし僕たちがそのままゲートをくぐれば、アクセスログが即座にAdmn本体に送信される」
ノードが不安げに尋ねた。「ログが送られたら…どうなるの?」
「Far LandはAdmnの監視が届かない場所かもしれない。だが、このゲートをくぐったという事実は、彼らにとって『世界からの逃亡者』、つまり最優先の排除対象になる。僕たちは、Far Landへ着く前に、Admnによって直接、
彼らがゲートをくぐるためには、この監視ノードを欺くか、完全に破壊しなければならない。しかし、ゼロの持つ低級なロールでは、Admnレベルのシステムに直接干渉することは不可能だ。破壊を試みれば、むしろAdmnに即座に警告が届く可能性が高い。
ゼロは必死に端末を操作し、監視ノードの表面を流れるデータを解析した。流れているのは、ゲートを通過しようとするデータ実体に対し、最終的な認証要求を送信するための、極めてシンプルで堅牢なプロトコルだった。
「認証…そうだ。僕たちに必要なのは、正当な通過者であるというデータだ」
そこで、ゼロはシルクハットの男の言葉を思い出した。
「キミは、世界のルールを書き換える『鍵』を持っている」
男から受け取ったデータチップは、地下のアクセスポートを開けるための使い捨てIDとして機能した。だが、チップのデータはそれで終わりではなかったはずだ。
ゼロはチップに残されていた、座標以外のデータ領域を、深く掘り下げて解析し始めた。
彼の端末が、チップの奥深くにある隠された領域を読み解き、ノイズの中から一つのデータ・チャンクを取り出した。
そして、彼はその中に、たった一行の、しかし、途方もなく強力なマナのコードの断片を見つけた。
DataFragment: Universal Mana Level 5: Auth.Keygen.Override(Admn.Primary)
「これは…!」ゼロは息を詰まらせた。彼の端末がこのコードの存在を検知しただけで、端末自体の温度が上昇し、警告音が鳴り始める。
それは、彼のロールでは想像もできない、最上位の権限、Admnのプライマリー認証を上書きするための鍵生成コードの断片だった。完全なコードではないが、このゲートの認証を一時的に騙すには十分かもしれない。
「ノード。僕が今から、このコードの断片を、監視ノードに送り込む。これは最後の賭けだ。成功すれば、僕たちはAdmnのフリをしてゲートを通過できる。失敗すれば、ここで終わりだ。このコードの断片を扱うだけで、僕の端末は焼き切れるだろう」
「失敗しても、私は後悔しないわ」ノードは決然とした表情で言った。
彼女の瞳は、この広大なマナの海の中でも、迷いを一切見せていなかった。
「あなたと一緒なら、どこへでも行く」
ゼロは、こっくりと頷き、端末のキーボードを叩いた。彼は、この極めて危険なコードの断片を、自身の端末と監視ノードの間のデータ通信に、一瞬だけ紛れ込ませる完璧なタイミングを探った。
$Inject(
Node.Primary-Auth,
'Auth.Keygen.Override(Admn.Primary)',
0.0001
);
この0.0001秒という時間は、Admnの監視ノードがパケットを受信し、それを解析し終える直前の、システムの盲点を突くための、ギリギリのタイムラグだった。
ゼロがコードを送信した瞬間、マナの海全体が、短く閃光を放った。彼の端末は高熱を発し、煙を上げ、その表面に亀裂が入った。
監視ノードの赤い点滅が一瞬消え、緑色に変わった。その色は、エコーシティのシステムが「正常(NORMAL)」を示す色だった。
【STATUS: Admn-PRIMARY-ENTITY DETECTED. AUTHORIZING GATE PASSAGE.】
【LOGGING: ACCESS GRANTED. (ERROR: LOGGING SYSTEM TEMPORARILY DISABLED)】
ログの送信が、一時的にシステムによって無効化された。ゼロが注入したコードの断片が、Admnの認証を騙すだけでなく、ログ自体をエラー状態に陥れたのだ。
「やった…!」
ゼロはノードの手を取り、古代のゲートへと駆け寄った。彼らが青白い光の膜を通り抜けた瞬間、ゲートの認証ノードは再び赤く点滅し始め、ログを再開しようと激しくノイズを立てた。
だが、彼らの姿はすでに、その向こう側にあった。
ゼロとノードは、再び激しいデータの奔流に包まれた。しかし、先ほどのマナの海とは異なり、この流れは暖かく、優しかった。データの粒子は、彼らを崩壊させるのではなく、新たな世界で彼らを再構築しようとしている。
そして、視界が開けた。
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