第4話 マナの海
光の奔流が収束したとき、ゼロとノードは、まるで冷たい液体の中に放り込まれたような、強烈な負荷と違和感に襲われた。
周囲の空間は、もはやエコーシティの物理法則には従っていなかった。それは、重力も上下も曖昧な、果てしない情報の海だった。
そこは、色も形も不規則に変化する、ユニバーサル・マナそのものが剥き出しになった空間、通称「マナの海」だった。
鮮やかな光の糸が絡み合い、幾何学的な図形が一瞬で現れては消える。それらすべてが、世界の構築データであり、この奔流に飲まれれば、彼らの存在データも即座に分解され、海のノイズの一部となってしまうだろう。
「ひどい…ノイズだ」ノードは頭を抱えた。
彼女の視界は、無数のテキストデータと意味不明な光の粒子に満たされ、感覚が麻痺しそうになる。
彼女の耳には、データが摩擦し合う、金属的な轟音が響き渡っていた。
ゼロもまた、強烈な負荷を感じていた。彼は自身の肉体が、この空間で不安定になっていることに気づいた。右腕のテクスチャが一瞬消え、その下に流れる
これは、彼らの意識がシミュレーション構造から強制的に切り離されたことによる、存在の危機だった。
「落ち着いて、ノード!」ゼロは叫んだ。
彼の声すら、電子的なエコーを伴って歪む。
「ここは、純粋なデータ空間だ。僕たちの身体は、僕たちが人間であるという
ノードは恐怖に打ち勝ち、ゼロにしがみつく。
「どうしたらいいの? 私たちのデータが…崩壊しそう。このままでは、次のWIPEを待つまでもなく消えてしまう!」
ゼロは携帯端末を握りしめた。画面は、この膨大な情報の海を解析しようと激しく点滅しているが、彼の低級なロールでは、海全体の構造、すなわちシールドの裏側の巨大なマナの流れを把握することなど不可能だった。
彼の端末の処理能力は、このマナの海の中では、子供のおもちゃのようだった。
「僕たちは、このデータストリームに乗って、Far Landを目指さなければならない。でも、このままじゃ、僕たちの実体が先に崩壊する」
ゼロは、自分が今までエコーシティで学んできたユニバーサル・マナの知識のすべてを、一気に脳内で展開した。
この海を乗り切るには、単なる移動ではなく、自身の身体を構成するデータを、この乱流に耐えられるように一時的に最適化する必要がある。
これは、彼の存在データに、マナの壁を一時的に構築する行為に等しい。彼は震える手で、端末に簡潔なマナのコードを打ち込んだ。
$Self.Entity.Stabilize('Armor-Mode', 0.8);
これは、彼の身体の安定性を80%まで引き上げるよう、自己の存在データに命令するコードだった。80%という数値は、彼のロールで許される最大限の負荷であり、これ以上安定性を求めれば、端末と彼自身の意識がフリーズしてしまうだろう。
コードが実行された瞬間、ゼロの身体の輪郭が、わずかに青い光を帯びて安定した。体表に硬いテクスチャが付与されたわけではないが、データの揺らぎが収まり、周囲のノイズから隔離された感覚があった。
一時的に、彼はこのマナの海の乱流に耐えられるデータ・バリアを獲得したのだ。
「これで一時的に安定する。ノード、君も僕のデータリンクに乗って!」ゼロはノードの手を強く引き寄せ、彼女のデータと自身の安定化コードを無理やり同期させた。
彼のロールは、他者(ノード)のデータ構造に直接的な安定化コードを書き込む権限を持たない。これは、彼自身の安定化リソースをノードと共有する、危険な行為だった。
ノードの身体の揺らぎも収まり、彼女は一息つくことができた。
「ありがとう、ゼロ…あなたが、私を、安定させてくれた」ノードは彼の顔を見上げた。
「僕たちが今いるのは、シールドの内側と外側をつなぐデータパイプラインだ。この流れに乗れば、遠いFar Landへ行けるはず…」
ゼロは、マナの海の中を、まるで巨大な河の流れを読むかのように見つめた。
情報の流れには、時折、極端に激しい渦や、情報のデブリが密集した領域が存在する。それらは、シミュレーション世界で発生した、修復されていない巨大なバグの残骸のように見えた。
そのデブリの塊からは、時折、エコーシティの風景のテクスチャや、人間の顔のデータが、一瞬だけ再現されては消えていく。
「あれを見て」ノードが指さした先には、巨大なデータの塊が、渦を巻いている場所があった。
それは、ノイズの塊でありながら、どこか人工的な形状を保っている。
その塊の周囲には、冷たい赤色の光が不規則に点滅していた。
「Admnの警備プロトコルの残骸だ」ゼロは顔をしかめた。
「僕らがアクセスポートを開けた時、Admnが送り込んだ強制初期化コードの残りが、このマナの海に残っている。もしあれに触れれば、僕たちのデータは初期化されてしまう」
彼らは、この危険なマナの海を航行しなければならない。ゼロの保有するロールでは、マナの海の流れを大きく変えるコードは使えない。彼は、自身の知識と、目の前の情報を解析する能力だけを頼りに、進路を見極めるしかなかった。
ゼロは、この予測不能な空間で、自らの予測能力を試されることになった。
「僕が流れを読んで、回避経路を探す。ノード、僕の手に力を入れていてくれ。僕たちのリンクが途切れたら、君のデータは一瞬で散逸する」
ゼロは、携帯端末の処理能力を限界まで使って、マナの海の局所的な流れの予測コードを打ち込み始めた。
この作業は、彼の端末のバッテリーと演算能力を急速に消耗させていく。$Flow.Predict(Local.Stream, 0.05, 5);
「5秒後までの流れを、5%の精度で予測する。この精度でも、流れを読み切るには十分だ…!」
ゼロの目に、マナの海の流れが、微かに予測された矢印のイメージとして重ね合わされて見え始めた。
彼らはその矢印に従い、危険なデータの渦や、初期化コードの残骸を紙一重でかわしながら、Far Landへ向かう大いなる流れに乗ることに成功した。
彼らがデータパイプラインを航行していくと、周囲の光の糸が、次第に規則的になり始めた。
光の粒子は、遠くの出口に向かって、より速く、より直線的に流れ始めたのだ。
これは、Far Landと呼ばれる次のシミュレーション領域への接続が近いことを示唆していた。
「この先だ、ノード。この流れに乗って、シールドの外、真実の世界へ…!」ゼロはノードの手を強く握り、加速するデータの奔流に身を委ねた。
彼らは、世界の構造の外側で、初めて本当の「生」の重さを感じていた。それは、エコーシティの無気力な日常とは比較にならないほど危険で、しかし、希望に満ちた旅路だった。
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