第11話 安全圏からの使者
五年が経った。
正確に言えば、五年と三ヶ月。藍が壁に刻んだ印でそれがわかる。毎日、小さな線を一本ずつ。五本で斜線を引いて束ねていく。原始的な方法だけれど、確実だ。
窓の外では、桜が咲いていた。
桜。この街にこんなに桜があったなんて、文明崩壊前は気づかなかった。ビルに遮られて見えなかったのか、それとも見ようとしなかったのか。今では街のあちこちに、薄桃色の花が咲き誇っている。
「きれいだね。」
藍が窓辺に立って呟いた。彼女の髪は、五年前より少し長くなっている。切る道具はあるのだけれど、切らなくなった。伸ばしているうちに、それが普通になった。
「うん。」
僕は日記を書いていた。藍の習慣が、いつの間にか僕にも伝染していた。記録すること。忘れないこと。未来の誰かに、もし未来の誰かがいるなら、この時代のことを伝えること。
『五年目の春。桜が咲いた。希望は六歳になった。光は四歳。コミュニティには今、二十三人が暮らしている。新しく加わったのは、先月見つけた老夫婦。二人とも七十代後半で、お互いだけが免疫を持っていたという。運命的な確率だと、文子さんは言った。』
ペンを置く。インクがかすれてきている。そろそろ新しいペンを探さないといけない。文房具店の在庫も、少しずつ減ってきている。
「今日、どこ行く?」
藍が振り返った。
「図書館。」
「また?」
「うん。探してる本がある。」
「何の本?」
「『失われた時を求めて』。」
藍は不思議そうな顔をした。
「プルースト?なんで急に。」
「わからない。でも、今なら読めるかもしれない。」
文明崩壊前、僕はその本を読もうとして挫折した。長すぎて、退屈で、何を言っているのかわからなかった。でも今なら、と思う。時間はたっぷりある。そして、失われた時について考えることが、今の僕にはある。
「一緒に行く。」藍が言った。
「畑は?」
「由香たちに任せて。たまには二人で出かけたい。」
二人で、という響きが心地よかった。
図書館までは、歩いて三十分。
以前はもっと遠く感じたけれど、今は近い。時間の感覚が変わったのだろう。急ぐ理由がないと、距離も時間も伸縮する。
街は静かだった。いつも静かだけれど、春の静けさは特別だ。鳥のさえずりが聞こえる。以前より鳥が増えた。スズメ、ツバメ、カラス、そして時々見たことのない種類の鳥も。
「見て。」
藍が指差した方を見ると、ビルの壁を蔦が這い上がっている。五年で、建物はずいぶん緑に覆われた。
「自然が、街を取り戻してる。」
「百年後には、ジャングルになってるかもね。」
「千年後には、遺跡。」
僕たちは笑った。
笑えることが不思議だった。世界が終わったのに、笑える。それは不謹慎なのか、それとも人間として正しいのか。
道端に、車が止まっている。中には人が座ったままスリープ状態になっている。五年経っても、彼らはそのままだ。腐敗もしない。老化もしない。ただ、眠り続けている。
最初は不気味だった。でも、今は慣れた。彼らは風景の一部だ。
「この人たち、夢を見てるのかな。」藍が車の前で立ち止まった。
「文子さんの仮説では、集合意識の中で生きてる。」
「それって、幸せなのかな。」
「わからない。でも、苦しんではいないと思う。」
藍は車に手を当てた。ガラス越しに、運転席の男性が見える。四十代くらい。スーツを着ている。
「この人、どこに向かってたんだろう。」
「仕事じゃない?」
「仕事か。そういうのも、あったね。」
藍の声には、遠い昔を思い出すような響きがあった。
仕事。キャリア。昇進。給料。そういう言葉は、もう僕たちの日常にはない。
「戻りたい?」僕が聞いた。
「戻りたいって、何に?」
「前の世界に。」
藍は少し考えた。それから首を横に振った。
「戻りたくない。あの世界は、私を必要としてなかった。というか、私があの世界を必要としてなかった。」
「僕も。」
僕たちは歩き続けた。
図書館は、思ったより無事だった。
五年の間に何度も来ているけれど、崩れていない。頑丈な建物だ。
入り口のガラスは割れていて、誰でも入れる。中は薄暗いけれど、窓から差し込む光で本は見える。
「どの辺にあるかな。」
「外国文学のコーナー。」
僕たちは二階に上がった。階段を上る足音が、静寂の中で響く。
外国文学のコーナーは、奥の方にあった。本棚が並んでいる。埃をかぶっているけれど、本はちゃんと並んでいる。
「あった。」
プルーストの本を見つけた。全七巻。重い。
「全部持って帰る?」藍が聞いた。
「一巻だけでいい。読めるかどうかわからないし。」
一巻を抜き取る。『スワン家の方へ』。
ページを開く。
『長い間、私は早くから寝た。』
最初の一文。有名な一文。
「読む?今ここで。」藍が提案した。
「いいの?」
「時間はある。ここ、気持ちいいし。」
確かに、図書館は居心地がいい。静かで、本に囲まれていて、外の世界から遮断されている。
僕たちは窓際に座った。床に直接。
「読んで。声に出して。」
「僕が?」
「うん。あなたの声で聞きたい。」
僕は読み始めた。
プルーストの長く複雑な文章。かつては苦痛だったそれが、今は心地よい。一文一文が、ゆっくりと脳に染み込んでくる。
藍は目を閉じて聞いている。
時々、鳥の鳴き声が聞こえる。風が本のページをめくる。
どれくらい読んだだろう。十ページ、いや二十ページ。
「疲れた?」藍が目を開けた。
「少し。」
「休憩しよう。」
僕たちは本を閉じて、窓の外を見た。
桜が見える。図書館の前に大きな桜の木があって、満開だ。
「きれいだね。」
同じ言葉を、また言った。でも、飽きない。きれいなものは、何度見てもきれい。
「ねえ。」藍が言った。
「なに?」
「今、幸せ?」
「幸せ。」
即答だった。疑いようがなかった。
「私も。」
藍は僕に寄りかかってきた。
「不思議だよね。世界が終わったのに、幸せだなんて。」
「不思議だね。」
「でも、本当なんだよね。」
「うん。本当。」
僕たちはしばらく、黙って桜を見ていた。
花びらが一枚、風に舞って落ちる。また一枚。
散るものは美しい。それを、今なら理解できる。
家に戻ると、みんなが集まっていた。
「どうしたの?」藍が聞いた。
「ちょっと、話があって。」由香が答えた。
みんなの表情が硬い。何かあったのか。
「何があったの?」
「安全圏から、使者が来た。」
安全圏。
その言葉を聞くのは、久しぶりだった。
安全圏。生き残った人類の大半が集まった、政府が作った居住区。僕たちは、そこに行かなかった。行かないことを選んだ。
「使者?」
「うん。明日、正式に訪問したいって。」
「何のために?」
「わからない。でも、断れないと思う。」
僕と藍は顔を見合わせた。
「とにかく、明日会ってみよう。」文子さんが言った。「話を聞くだけなら、害はない。」
その夜、僕は眠れなかった。
安全圏。
あそこには何があるのだろう。
文明の再建?秩序の回復?
それとも、また同じ過ちを繰り返すだけなのか。
隣で、藍も目を開けていた。
「眠れない?」
「うん。」
「私も。」
「どうなると思う?」
「わからない。でも、」藍は僕の方を向いた。「私たちは、ここを離れない。何があっても。」
「うん。」
それだけは確かだった。
翌日、使者は午前十時に来た。
三十代くらいの男性二人。清潔な服を着て、髭も剃っている。五年ぶりに見る、「整った」人間だった。
「初めまして。私は安全圏中央管理局の田村と申します。こちらは同僚の佐藤です。」
礼儀正しい。丁寧な言葉遣い。
僕たちは警戒した。こういう「文明的な」態度が、かえって不自然に感じられた。
「どうぞ。」
僕たちは彼らをコミュニティの集会所に案内した。
全員が集まった。二十三人。子供たちもいる。
田村と佐藤は、少し驚いたようだった。
「こんなに大きなコミュニティを作られているとは。素晴らしい。」
社交辞令だろうか、本心だろうか。
「用件は?」文子さんが単刀直入に聞いた。
田村は咳払いをした。
「実は、安全圏では現在、人口回復プログラムを実施しております。生き残った方々に、安全圏への移住を呼びかけています。」
「移住?」
「はい。安全圏では、医療施設、食料生産システム、教育機関が整っています。特に、お子さんたちのためには、適切な教育が必要かと。」
希望と光が、僕たちの後ろに隠れた。
「私たちは、ここで教育をしています。」藍が言った。
「それは存じております。しかし、専門的な教育、科学技術の継承には、やはり設備が――」
「必要ありません。」
僕は遮った。
田村は眉をひそめた。
「しかし、人類の未来を考えれば――」
「人類の未来?」
文子さんが笑った。皮肉な笑いだった。
「人類の未来を考えて、あなたたちは何をしているの?また同じ社会を作ろうとしているんじゃないの?」
「同じとは?」
「競争社会。格差社会。終わりのない成長を求める社会。」
田村は言葉に詰まった。
「私たちは、持続可能な社会を――」
「持続可能?」文子さんは立ち上がった。「本当に持続可能なら、文明は崩壊しなかった。あなたたちが作ろうとしているのは、また同じ、破滅へ向かう社会でしょう。」
田村と佐藤は、互いに目を見合わせた。
「とにかく、」田村が声のトーンを変えた。「これは強制ではありません。ただ、選択肢を提示しているだけです。もし気が変われば、いつでも安全圏への移住を歓迎します。」
彼らは立ち上がった。
「それでは、失礼します。」
僕たちは彼らを見送った。
彼らの背中が見えなくなるまで。
「どう思う?」由香が聞いた。
「嘘だと思う。」僕は答えた。
「嘘?」
「強制じゃないって言ってたけど、いずれ強制されると思う。」
「私もそう思う。」藍が頷いた。「彼らは、コントロールしたいんだ。生き残った人類を。秩序の名の下に。」
「でも、私たちは行かない。」健太が言った。
「行かない。」みんなが口々に言った。
希望が僕の手を引いた。
「パパ、怖い人たち?」
「怖くはない。でも、違う考えを持ってる人たちだよ。」
「私たちと?」
「うん。」
希望は不安そうな顔をした。
「大丈夫。」藍が希望を抱きしめた。「私たちは、ここにいる。ずっと。」
でも、僕は不安だった。
彼らは、また来るだろう。
そして次は、もっと強い態度で。
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