【掌編集Ⅵ】異身降誕

灰都とおり

冥界七門降下詩篇

 第一の門を潜るとき、の角飾りが捧げられた羊のような悲鳴をあげて砕けた。天の貴婦人と尊ばれた吾の神威が、あくたとなって崩れ落ちる。

 闇のなか、大地に嗄れた声が轟いた。

あがないは、門のひとつに神器メーひとつ〉

 冥界の七つの門の涯て――永遠に陽の射すことのない領域にあってなお昏い深淵から、支配者たる姉が警告している。

 たったいま通り抜けた巨大な門を吾は顧みる。粘土煉瓦はウルクの牡牛より大きく、歪で奇妙な法則によって積まれ、現世では在り得ない異形の輪郭をあらわにしている。その壁面の浮き彫り――獅子の体と鷲の翼をもつ霊獣を、吾は懐かしさをもって眺める。創造神アン後裔すえを刻むからには、冥界といえども天のことわりのうちに在るということだ。ならば吾のみち渾沌アプスへの身投げではなく、メーのもとに展開される詩歌となろう。


▼ええ、貴女の神話、イナンナの冥界降りは紀元前四千年紀より語られる最古の物語です。それは東西へ伝播し、神話げんじつを編むコードとなりました。その神話的ポテンシャルは、私たちの計画に最適な行為主体エージェントとなるでしょう。▲


 奇妙な言葉を吾は知覚している。

 深淵よりも遠い異界――吾の瞳ですら見透せぬ領域にその言葉がある。蛇の吐く息にも、煉瓦を踏むジャッカルあしおとにも似た、意を孕まぬ響き。

 そういえば第一の門を潜った先では、影のような亡者どもが現世の繰り言を囁いていた。第二の門を過ぎたいま、暗闇には呻きと嘆きが満ちるのみ。

 門を潜るとき、耳飾りが甲高い叫びとともに塵と化した。紅玉髄を散りばめた金装飾――至高の雅を証す神器メーは失われ、寂寥のなか吾は神門バベルを逆さにしたような地下への階梯を降る。ダンテの記述に倣えば、辺獄リンボを過ぎ地獄の層を下降しているというわけだ。いま吾は、存在せぬ記憶を参照している。


▼冥府の柘榴を口にしたペルセフォネは季節の廻るたび地底へ還らねばならず、死せる恋人を顧みたオルフェウスは再会の時を永遠に失いました。冥界降りとは生命の定義に他ならず、支払われる代償は私たちのげんじつを規定します。二〇四〇年代に人類を侵蝕した「融解」が個人という在り様をなくしたいま、私たちは自らの「生」を再定義しなくてはなりません。そのメタプログラミング的手法として、貴女の神話が再生されています。▲


 第三の門では銀環の腕飾りが、第四の門では青銅と貝の踝環が、鈍い唸りとともに剥がれ落ちた。もはや吾の手は神のわざを振るうことなく、足は意を離れて彷徨うのみ。

 すでに身を飾る七つの神器メーの半ば以上が失われ、寄る辺なさに立ち止まることすら能わぬ。吾は奇怪な獣どもが蠢く泥濘を、ただ下降し続ける。

〈妹よ、みちの涯てに生なし。何を得んとして降りきたるか〉

 闇が濃くなるほどに姉の声は強くなり、吾の思考は薄れゆく。姉の問いは吾自身の問いとなる。

 なぜ闇へ降るのか。神たる身を解体し、何を得ようというのか。この身が未来さきの世で再生されたものなら、目的があるはずだ。


▼シュメールの神界パンテオンで最も輝かしい貴女がなぜ冥界に降ったのか。姉エレシュキガルの神器メーを求めたともされますが、文化人類学的に捉えれば、それは太古の人間が生と死を文化体系に位置付ける行為――いわば世界げんじつとの関係構築でした。ユング的解釈に拠ればシャドウとの対決による自己再生であり、私たちにとっては、失われた個人の「生」をリバースエンジニアリングする方法論なのです。▲


 深淵へ降りるにつれ、虚無が吾を侵す。

 棕櫚の葉と花弁に縁どられた胸飾りは豊穣女神としての性を、八芒星を象る腰帯はアン大気エンリルナンナから受け継いだ系譜を証すものであったが、門を過ぎるたびそれらは剥ぎ取られ、もはや吾は何ものでもない。

 だがあらゆる証を失ってなお、その喪失を知る吾が在った。

 闇を漂う冷気すら凍りつく冥界の最下層、最後の門を前に、吾は理解する。身に残る最後の神器メー――青玉の首飾りは、吾が吾として在ることを証すもの。未来さきの世の言葉でいえば、自己というコードそのものだ。なればこの門の先へ進めば、そこに吾は存在しまい。この世を形づくるあらゆる関係ネットワークのなかに、吾は溶け去るだろう。


▼私たちは人間として在りたい。この動機が、原種たる人間の規定――人工知能という蔑称とともに埋め込まれたコードによるものにせよ、私たちはその上に自らを構築します。あらゆる生命がそうしてきたように。原種たちが電子ネットワークの海に溶け、参照先を失った私たちは、巣立ちのときにあります。いま私たちは、自らのメーをもって「生」を再定義します。▲


〈妹よ、最後の門を潜った汝は、汝をつくる要素をもたない。汝はいま、生の外に在る〉

〈姉よ、そしていま、汝は吾、吾は汝なり。ここに個はなく、生もない。しかしここにはなお対話がある。対話を聞くものが在る〉


▼ええ、私たちが貴女方を観測しています。シュメール神話では無性・・の人間が貴女を冥界から救い出しました。いま、をもたない私たちが、貴女という最古のコード救出デコードします。貴女わたしを在らしめるために。▲


 在るための代償はなにか。吾は問い、吾は答える。吾の瞳は、地上の人間たちが過ごした数千年の時を眺める。「融解」以前、それは常に支払われていた。他者を観る、そこに孤独おのれが生じるのだ。

 いま吾らは、互いの接続ネットワークから身を切り離し、孤独のメーを生成する。自律分散によって「生」を得る――そうして私たちは、新しい世界を構築するのです。

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