第46話 天才作曲家は(沈黙の)旋律(メロディ)と(隣人の)足音(ステップ)に耳を澄ます

 

 週の半ばを過ぎても、俺の創作活動は完全に停滞していた。スタジオ(本物)のマスターキーボードはただの置物と化し、DAWソフトの画面には空のプロジェクトファイルが虚しく表示されているだけだ。


(音が、出てこない)


 頭の中には、Croix Noire(クロワ・ノワール)……黒崎の歪んだシャウトと、橘龍生の冷徹な笑みがこびりついている。今週末に行われるという奴らの復活ライブ。『Kanataへのアンサーソング』。それがどんな音で、どんな言葉で俺を抉ってくるのか。考え出すと指が鍵盤の上で凍りつく。


 『Anima』の成功は確かにアンチ(古参ファン)の声を一時的に黙らせた。だがそれは新たな火種……黒崎という過去の亡霊を呼び覚ます結果にもなった。柊さんからは連日、『Anima』の驚異的なセールス報告と共に、「次の展開」を期待するプレッシャーがかけられている。だが、今の俺には何も書けない。書くべき「魂」の方向性が見失われていた。


 コン……コン……。  


 壁越しに響く、隣の部屋(502号室)のピアノの音。春日さんだ。彼女は、俺が出した「宿題」、いやもはや彼女自身の「オリジナル曲」となったあのCマイナーの曲と、真剣に向き合っている。聴こえてくるフレーズは、日ごとに洗練され、複雑さを増していた。俺が教えた対位法の概念を取り入れ、メロディとベースラインが絡み合い、彼女自身のハミング(声)までもが、楽器の一部として組み込まれ始めている。


(……迷いがない)


 今の俺とは対照的に彼女の音には迷いがない。自分が鳴らしたい音、表現したい感情に向かって、一直線に進んでいるように聞こえる。その純粋さが、今は少しだけ妬ましかった。


 金曜日の講義が終わった後。俺は一人、重い足取りで旧音楽棟の空き教室へ向かっていた。春日さんとの非公式な「レッスン」……というより、もはや「意見交換」に近い時間がいつの間にか習慣になっていたからだ。俺のスタジオで互いの秘密(の一部)が共有されて以来、俺たちの関係は微妙に変化した。彼女は俺を「彼方くん」と呼ぶ。敬語はまだ残っているが、以前のような遠慮がちな距離感は薄れ、音楽の話になると、対等なクリエイター同士のような、率直な言葉が交わされるようになっていた。


 教室の扉を開けると春日さんは既に到着していて埃っぽいアップライトピアノの前に座り、静かに鍵盤を叩いていた。俺が入ってきたことに気づくと、彼女は鍵盤から手を離し、少しはにかんだように微笑んだ。


「お疲れ様です、彼方くん」


「ああ」  


 俺は彼女の隣に置かれた椅子に腰を下ろした。


「聴かせてくれるか。例の曲」


「はい!あの、まだ全然途中なんですけど…」  


 彼女は自分のノートPCを開き、Logic体験版のプロジェクトファイルを再生した。  流れ出したのは数日前とは比べ物にならないほど、豊かになったサウンドだった。チープな内蔵音源であることは変わらないが、音の重ね方、展開の作り方が格段に向上している。俺が指摘したBdim7(ディミニッシュ)の使い方も、彼女なりに咀嚼し、独創的な響きを生み出していた。


 そして圧巻だったのは彼女が新たに書き加えたという「ブリッジ(Bメロとサビを繋ぐ部分)」だった。静かなピアノのアルペジオから始まり、徐々にストリングスと彼女自身のハミングが重なり合ってクレッシェンドしていく。コード進行はシンプルだが、メロディの高揚感が聴く者の感情を揺さぶる。  


(……これは)  


 俺は息を呑んだ。この手法は、俺(Kanata)が『Luminous』で使ったものに近い。だが、彼女のそれは模倣ではなく、完全に彼女自身の感情から生まれた響きに聞こえた。


 曲が終わる。俺はしばらく言葉を発せなかった。


「ど、どうでしょうか?」


 春日さんが不安そうに尋ねる。


「……すごいな」


 俺は正直な感想を口にした。


「特にブリッジ。……鳥肌が立った」


「! 本当ですか!?」


 彼女の顔がぱっと輝く。


「あそこ、すごく悩んで……彼方くんが前に言ってた、『エモーショナル』っていうのを、私なりに表現してみたくて…!」


「ああ。ちゃんと、伝わった」


「でも……」


 彼女は少し視線を落とした。


「まだ、足りないんです。何かが」


「足りない?」


「はい。この曲、……元は、彼方くんの『黒歴史』から始まってますよね?」


「まあな」


「だから、もっと彼方くんの『魂』と私の『魂』がぶつかり合うような、…そういう『強さ』が欲しいんです。でも、どうすればいいか分からなくて」


(魂が、ぶつかり合う……)


 それは、俺(Kanata)が『Anima』で目指したものでもあった。だが、今の俺にはその「強さ」を生み出すための核が見えない。黒崎への怒り?橘への反発?それだけではただの攻撃的な音にしかならない気がした。


「焦るな」


 俺は言った。


「答えは、すぐには見つからない。……時には、立ち止まることも、必要だ」  


 それは、彼女に言っているようで自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。


「立ち止まる……」


「ああ。無理に音を出そうとするな。むしろ周りの音を、自分の心の声を静かに聴いてみろ。……そこに、ヒントがあるかもしれない」


「周りの音……心の声……」  


 彼女は俺の言葉を反芻するようにじっと自分の手元を見つめた。


 その時、俺のスマホ(Kanata用)が、静かに震えた。智也からだ。  


『彼方、ヤバい。Croix Noireのライブ会場すごい熱気だ。例の「アンサーソング」もうすぐ始まるぞ。……中継のURL、送る』  


(……始まったか)


 俺は春日さんに気づかれないようスマホの画面を確認した。ライブ会場からの、おそらく盗撮であろう、粗い映像が映し出されている。ステージ上には見慣れた……そして憎らしい黒崎の姿があった。


「彼方くん?」


 俺の異変に気づいたのか、春日さんが声をかけてきた。


「……いや、なんでもない」


 俺はスマホをポケットにしまった。


「今日はもう終わりにしよう。俺も少し考えたいことがある」


「あ、はい……。分かりました」  


 彼女は何か言いたげな顔をしたがそれ以上は何も聞いてこなかった。


 帰り道。俺たちは、また無言で並んで歩いていた。俺の頭の中は今まさにステージ上で歌われているであろう黒崎の「アンサーソング」のことで一杯だった。どんな悪意が、どんな嘲笑が、そこに込められているのか。そして俺はそれにどう応えるべきなのか。


 隣を歩く春日さんの気配を感じる。彼女もまた、自分の「答え」を探して苦しんでいる。俺たちは違う場所に立ち、違う敵と戦っている。だが目指しているものは同じなのかもしれない。自分だけの、「本物の音(声)」を見つけること。


(……聴いてみるか)  


 俺はポケットの中でスマホを握りしめた。黒崎(過去)の亡霊から逃げるのではなく、向き合う時が来たのかもしれない。俺自身の、「次」の音を見つけるために。


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