第45話 天才作曲家は(忍び寄る)過去(シャドウ)と(隣室の)進化(エヴォリューション)に惑う
火曜日。週が明けても、俺、天音彼方の頭の中は重かった。月曜の夜に智也に調査を依頼したCroix Noire(クロワ・ノワール)……忌々しい黒崎の名前がまるで呪いのように思考にこびりついている。奴が再び音楽シーンに姿を現した。しかも、あの『偽りの鏡』という曲……明らかに俺(Kanata)を狙い撃ちにしている。背後にあの男……橘龍生の影を感じずにはいられない。スタジオに残してきた『Anima』の成功の余韻は、過去からの不吉な足音によってかき消されつつあった。
同時に、隣の部屋の住人……春日さんの存在も俺の心を複雑にかき乱していた。彼女の才能はまるで堰を切ったように開花し始めている。それは彼女の未来にとって喜ばしいことのはずだ。俺がそのきっかけの一つを作れたこともわずかな満足感を与えてくれる。だがその輝きが増すほどに俺の中の焦りと得体のしれない恐怖感が濃くなっていくのを止められない。彼女は俺(Kanata)の魂(Anima)に触れ、俺(彼方)の過去(黒歴史)を知り、そして今、自分だけの音(答え)を生み出そうと猛烈な勢いで進化している。その進化の先に俺の居場所はあるのだろうか。
昼休み。カフェテリアの喧騒が今の俺にはひどく耳障りだった。一人、窓際の席で味のしないパスタを口に運びながらぼんやりと窓の外を眺める。考え事をしようとしても黒崎の嘲笑うような顔と春日さんの真剣な眼差しが交互に浮かんでは消え思考がまとまらない。
「彼方くん、……隣、いいですか?」
不意にすぐそばで声がした。見上げると春日さんが少し遠慮がちに立っていた。以前のように無邪気に駆け寄ってくるのではなく、俺の様子を窺うような慎重さが感じられる。これも俺たちの関係性が変わった証だろう。
「ああ」
彼女は静かに席に着き、自分のトレー(今日は軽めのサンドイッチとサラダだ。ちゃんと栄養バランスを考えているらしい)を置いた。しばらくの間、ぎこちない沈黙が流れる。カチャカチャという食器の音だけがやけに大きく聞こえた。
「あの…」
先に口を開いたのは彼女だった。
「昨日、言ってた曲の続き……自分なりにかなり進んだんですけど」
「ほう」
俺はパスタを食べる手を止め彼女を見た。寝不足なのか目の下に薄くクマがあるがその瞳は創作の熱意で爛々と輝いていた。
「対位法、すごく難しくてまだ全然使いこなせてないんですけど……でも、面白いです!メロディとメロディがぶつかったり、追いかけっこしたり、……まるで会話してるみたいで!」
彼女は目を輝かせながら語る。俺が何気なく渡したヒント(専門書)が、彼女の中で新しい音楽の扉を開いたようだ。その純粋な探求心は、今の俺には眩しすぎる。
「ただ…」
彼女は少し声を曇らせた。
「自分の『色』を出すのがすごく難しいなって。どうしても、師匠……じゃなくて、彼方くんや、……Kanata先生の音に無意識に引っ張られちゃうんです。特にコード進行とか……」
(だろうな)
彼女が聴いてきた音楽、特に最近強く影響を受けているのは、俺(Kanataと彼方)の音楽だ。模倣から始まるのは当然のプロセスだ。
「焦るな。今はそれでいい」
俺はできるだけ穏やかな声で言った。
「模倣(マネ)から始めなければ、オリジナルは生まれない。大事なのはなぜその音に惹かれるのか理由を考え続けることだ。そして自分の『好き』という感覚を見失わないことだ」
「私の、『好き』……」
彼女は自分の胸に手を当て呟いた。
「ああ。理論(ルール)は後からついてくる。お前が本当に鳴らしたい音、伝えたい感情は何なのか。それを、探せ」
「はい!」
彼女は力強く頷いた。その素直さと吸収力こそが、彼女の才能を恐るべき速度で加速させているのだろう。俺自身、彼女の言葉に触発される部分があることを認めざるを得なかった。
「おー!またやってんな二人とも!熱心だなー!」
そこに、けたたましい声と共に高木が現れた。手には案の定カツカレー(大盛り)。彼の登場で俺たちの間に流れていた繊細な空気は一瞬にして霧散した。
「今日は何の秘密会議だよ?作曲会議か?俺も混ぜろよ!」
「高木くんには、まだ早いよ」
春日さんが少し慣れた様子で悪戯っぽく笑って言った。いつの間にか高木に対するあしらい方も覚えたらしい。その変化に俺は少しだけ驚いた。
「なんだよー!ケチ!まあいいや!それより聞いたか?白亜凛音の新曲『Anima』! オリコン週間チャートぶっちぎりの1位だってよ!マジでやべえ!」
「へえ」
俺は興味なさそうに相槌を打つ。チャートの結果は当然把握している。
「だよな! やっぱKanata、神だわ!あの『魂がない』とか言ってたアンチどもも、これで完全に黙ったろ!」
高木は自分のことのように得意げだ。
「……そうでもないらしいぞ」
不意に俺たちのテーブルに近づいてきたのは智也だった。彼の表情は、昨日よりもさらに硬く険しい。
「智也!どうしたんだよ、怖い顔して」
高木が尋ねる。
「彼方、ちょっといいか」
智也は俺にだけ聞こえる声で言った。
「黒崎の件、続報だ」
「!」
俺は息を呑んだ。
「わりい、渉、春日さん。こいつちょっと借りるわ」
「え? あ、はい」
「んだよー、話の途中だったのに!」
俺は智也に促されるまま席を立ちカフェテリアの隅、人目につかない場所へと移動した。高木と春日さんの訝しむような視線が背中に刺さる。
「どうだった」
俺は単刀直入に聞いた。
「……予想以上に厄介だ」
智也は苦々しい顔でスマホの画面を見せた。
「Croix Noire、本格的に再始動してる。しかもバックにはやっぱりフェニックスが付いてる。橘が糸を引いてるのは間違いない」
「橘か……!」
「ああ。例の『偽りの鏡』、インディーズチャートで急上昇中だ。歌詞の内容が明らかにKanata(お前)への挑発だってネットでも騒ぎになってる。まとめサイトまでできてる始末だ」
画面には音楽ニュースサイトの記事が表示されていた。『Kanataへの宣戦布告か!? 謎のバンドCroix Noireが物議』という扇情的な見出し。記事には黒崎の挑発的なインタビューコメントと『偽りの鏡』の歌詞の一部が引用されていた。
「完璧な鏡は嘘をつく」
「剥き出しの魂だけが真実だ」
明らかに俺を意識している。
「それだけじゃない」
智也は続けた。
「奴ら、今週の金曜日都内の結構デカいライブハウスで復活ライブやるらしい。チケットは即完売。業界関係者も多数招待されてる」
「ライブ……?」
「ああ。しかも、そのライブで『Kanataへのアンサーソング』と称して新曲を披露するって予告してる」
「アンサーソングだと?」
「ああ。お披露目とお前への示威行為、そしてお前のアンチ(古参ファン)を完全に自分たちのファンに取り込むそのための派手なパフォーマンスだろうな」
「……」
俺は黙り込んだ。黒崎がライブで俺への当てつけの新曲を歌う。観客を煽りKanata(俺)への憎悪を掻き立てる。その光景がありありと目に浮かぶ。高校時代のあの屈辱的な記憶と共に。
「どうする、彼方」
智也が尋ねた。
「放っておくのか?あいつら完全にお前に喧嘩売ってきてるぞ」
「……放っておくしかないだろ」
俺は吐き捨てるように言った。
「俺はKanataだ。あんなインディーズバンドの挑発にいちいち乗ってられるか。無視すればそのうち消える」
「……本当に、そうか?」
智也は俺の目を覗き込んできた。
「お前、黒崎に、……過去にただコンクールで負けただけじゃないんだろ?もっと、……何か決定的なことをされたんじゃないのか?」
「!」
「高校の時のコンクール。あいつのバンドが優勝してお前は落選した。それは知ってる。だがその裏で、……あいつ、お前の曲を……」
「やめろ!」
俺は智也の言葉を遮った。
「昔の話だ。もう、終わったことだ」
俺の声が自分でも驚くほど荒くなっていた。
「そうは見えないけどな」
智也はため息をついた。
「まあ、お前がそう言うなら今は深入りしない。……だが何かあったら絶対にすぐに言えよ。一人で抱え込むな。俺はお前の味方だ」
「……ああ。……分かってる」
智也と別れ、俺は一人重い足取りで次の講義室へと向かった。黒崎。橘。フェニックス。過去の亡霊たちが、具体的な脅威となって俺の足元を掬おうとしている。『Anima』の成功は、新たな戦いの始まりを告げる号砲に過ぎなかった。
◇
その日の夜。俺はスタジオでただ漠然と鍵盤に指を置いていた。新しい曲のアイデアは全く浮かんでこない。黒崎の歪んだ歌声と、橘の冷徹な言葉が、思考を鈍らせる。
(俺はどうしたいんだ?戦うのか?それとも、このまま『Kanata』の仮面に隠れて嵐が過ぎ去るのを待つのか?)
答えは出ない。ただ、胸の奥に高校時代のあの屈辱と無力感がじわりと蘇ってくるのを感じていた。
コン……コン……。
壁越しに、音が聞こえる。春日さんのピアノの音だ。彼女は今日も自分の「答え」を探している。その音は昨日よりもさらに力強く迷いがなくなっているように聞こえた。彼女が見つけ出した、あの「減七の和音(ディミニッシュ)」が大胆にそして効果的に使われている。彼女の「好き」という感情が音になって溢れ出している。
(……こいつは、進んでいる)
俺が過去の亡霊に囚われ、立ち止まっている間にも、彼女は確実に自分の音楽を未来へと歩を進めている。その事実が俺の心をさらに掻き乱した。焦りと、……そして、ほんの少しの希望。
俺は鍵盤の上で一つの和音を鳴らした。Cマイナー。俺の原点。そして、彼女の出発点。そこからどこへ向かうべきなのか。俺自身の「次」の音はまだ見つかっていなかった。だが探すのを諦めてはいけない。そう思った。
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