第32話 天才作曲家は(魂の)絶唱(アニマ)と(限界突破の)才能(モンスター)を目の当たりにする

 水曜日、午前十時。俺の部屋(501号室)のリビングは再び即席の作戦司令室と化していた。前回(Luminousの時)と全く同じリビングの隅に設置されたローテーブルとノートPC、そしてボイスチェンジャー。違うのは部屋の主である俺の覚悟の度合いと胃痛の深刻さだけだ。


(本当に歌えるのか?あいつに)


 ノートPCの画面にはVC(ボイスチャット)ソフトの待機画面が表示されている。都内某所のレコーディングスタジオとは既に回線が繋がっているはずだ。向こうには柊さん、霧島さん、そしてエンジニアが待機している。そして、防音ブースの中には春日さんが。


 俺はヘッドホン(密閉型)を装着した。イヤーマフはない。前回(生対談)の地獄の二重音声(デュアルボイス)はもう御免だが今日はレコーディングだ。彼女の息遣い一つ聞き逃すわけにはいかない。壁越しの地声(物理音)が多少混ざろうとも耐えるしかない。


 ボイスチェンジャーをオンにする。


「こちらKanata。準備完了だ」  


 マイクに向かって、低く、威厳のある(はずの)声で告げる。


『Kanata先生!おはようございます!こちらも準備OKです!』  


 ヘッドホンから霧島さんの元気な声が返ってきた。前回より少し緊張しているように聞こえるのは気のせいか。


『凛音ちゃんもブースに入ってます!なんか今日はすごく落ち着いてますね。いつものパニックはどこへやら?』


(ほう)


 それは予想外だった。俺(彼方)が渡した膨大な資料と俺(Kanata)が生み出した超難曲『Anima』のプレッシャーで押し潰されているかと思っていたが。


『凛音ちゃん、先生にご挨拶!』


『おはようございます、Kanata先生。白亜凛音です。……今日は、よろしくお願いします』  


 聞こえてきたのは、第三人格(清楚なお嬢様)でも地声(パニックモード)でもない。落ち着いて、それでいて強い意志を感じさせる『白亜凛音』本人の声だった。壁越しの地声も今は聞こえない。彼女も集中しているのだろう。


「ああ。よろしく。……体調は?」


『はい。万全です』


「そうか。……なら、早速だが、始めよう」  


 俺はエンジニアに合図を送る。


「まずは音(オケ)に慣れるためにAメロからBメロまで一度軽く流してみよう」


『はい!』


 ヘッドホンから俺が作り上げた『Anima』の重厚で美しい、……そして、極めて複雑な伴奏が流れ出す。CmMaj7のあの不安定な響きに乗せて。春日さんが息を吸う。  


(来る)


『♪――(Aメロ)』


(!)  


 俺は息を呑んだ。声が、……出ている。いや、それだけじゃない。音程(ピッチ)が完璧だ。リズムも、……完璧だ。


 俺が月曜日に渡した「ガイドボーカル(Kanataボイス)」を、彼女は完全に自分のものにしている。だが、ただのコピーじゃない。そこに、彼女自身の「解釈」が加わっている。CmMaj7の響きに乗せる僅かな「揺らぎ」。歌詞(言葉)一つ一つに乗せる繊細な「感情」。


(嘘だろ。たった二日で、……ここまで……?)


『♪――(Bメロ)』  


 曲はさらに複雑さを増す。転調、変拍子。ボーカリストにとっては悪夢のような展開だ。だが春日さんの歌声は迷わない。まるでこの難解なメロディラインが最初から彼女のために書かれたものであるかのように、……ごく自然に、……力強く歌い上げていく。


(こいつ、……本当に俺の「弟子」か?……いや、違う。もう、そんな次元じゃない)


 Bメロが終わり音が止まる。VCの向こう側、コントロールルームが静まり返っているのが分かった。霧島さんも、柊さんも、エンジニアも、……おそらく、俺と同じように、言葉を失っている。


『……か、Kanata先生……?』  


 最初に沈黙を破ったのは春日さん本人だった。


『ど、どう、でしたか……?』


「ああ」  


 俺は、マイクの前で初めて、『Kanata』の仮面の下で笑みを浮かべていた。


「悪くない」


「!」


「……今のテイクで行こう」


『え!? も、もう、OK、ですか!?』


「ああ。……いや、待て」  


 俺は付け加えた。


「Aメロの最後の『祈り』の部分。もう少しだけ息の成分を多くしてくれ。消え入りそうに、だが祈りは強く」


『!はいっ!やってみます!』


 俺は、気づいていた。俺が今しているのは、「指導(ディレクション)」ではない。  

「対話(セッション)」だ。俺(作曲家)と、彼女(歌い手)の魂と魂のぶつかり合い。


 レコーディングは、信じられないほどの速度で進んでいった。サビ。ラスサビ。俺が「ボーカル殺し」とまで思った超高音のロングトーン。彼女は、危なげなく、……いや、むしろ歓喜に満ちた表情(声)で歌い切った。俺からの指示は最小限だった。技術的なものではなくほとんどが「感情」や「ニュアンス」に関するもの。そして彼女はその抽象的な要求に完璧に応えてみせた。


 午後一時。予定より三時間も早く。『Anima』のボーカルレコーディングは……ほぼ、一発録りに近い形で完了した。


『……す、……すごい……』


 VCの向こうで、エンジニアが、呆然と呟く声が聞こえた。


『凛音ちゃん……!あなた、……本当に、……どうしちゃったの……!?』


 霧島さんの涙声。


『Kanataさん。あなたの言った通りでしたね。彼女は歌えました』  


 柊さんの静かだが確かな興奮が伝わってくる。


「ああ」  


 俺は短く答えた。


「白亜凛音くん」


『!はいっ!』  


 ブースの中の春日さんが緊張した声で返事をする。


「……よくやった」  


 俺はそれだけを告げた。  


『最高だ』でもなく、『完璧だ』でもなく。ただ、それだけ。だが、それが今の俺が彼女に伝えられる最大の賛辞だった。


『……! ありがとうございます……! 先生……!』  


 彼女の心からの感謝と、……そして、安堵がヘッドホン越しに痛いほど伝わってきた。


「柊さん。俺の仕事は終わった。後の仕事は任せる。……ただし、ボーカルエデ

ィットは、本当に、最小限で頼む」


『……承知しました。……お約束します』


「じゃあな」


 俺は一方的にVCを切断した。ヘッドホンとボイスチェンジャーを外す。リビングに静寂が戻る。窓の外はまだ明るい。


(終わった)


 俺はローテーブルに突っ伏した。疲労感よりも奇妙な「喪失感」に似た感情が胸を満たしていた。  


(俺はあいつを育ててしまった……もう、俺(彼方)の「手助け」は必要ないレベルまで)


 コンコン。壁が叩かれた。  


(春日さんか? ……いや、レコーディングが終わったばかりでまだスタジオのはずだ。じゃあ、誰だ?)


 俺はのろのろと立ち上がり玄関に向かった。ドアスコープを覗くとそこには見慣れないスーツ姿の中年の男が立っていた。


(……誰だ?)  


 俺がドアを開けるのを躊躇っていると、男は、低い声で言った。


「天音彼方くん、……だね?」


「どちら様ですか」


「少し『音楽』の話を聞かせてもらえないかな?」


 男の目が鋭く俺の奥底を見透かすように光った。俺は嫌な予感を感じていた。



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