第31話 天才作曲家は(二重の)課題(レッスン)と(覚醒の)予兆(サイン)に翻弄される
月曜日の朝。俺は栄養ドリンクの空き瓶が転がるスタジオ(本物)で、ほとんど眠らずに夜を明かした。手元には一本のUSBメモリ。シルバーの俺の私物だ。こちらには、昨夜徹夜で作成した『天音彼方』から春日さんへの非公式補足資料が入っている。今からこれを隣の部屋の主に手渡さなければならない。
(『Kanata』からの公式練習データが入ったUSBメモリは、既に柊さんに送付済みだ)
(さて、どう切り出すか)
『昨日のデモ(Ver.2)は良かったがまだ足りない。これをやれ』とでも言うか?いや、それではあまりにも上から目線すぎる。あくまで俺は『隣人の師匠(仮)』なのだ。
コンコン。ドアをノックする前に向こうから壁を叩かれた。
「師匠!おはようございます!私、今から大学行きますけど!」
壁越しに春日さんの元気な声が聞こえる。
(ちょうどいい)
俺はシルバーのUSBメモリをポケットに入れ玄関に向かった。ドアを開けるとちょうど502号室から出てきた春日さんと鉢合わせになった。今日の彼女はいつもの清楚系スタイルだが、目の下にはうっすらとクマができている。それでも表情は明るい。
「あ!師匠!おはようございます!」
「ああ。……これ」
俺は無言でUSBメモリを差し出した。
「え? これって……」
「昨日のデモ(Ver.2)、聴かせてもらった礼だ」
「れ、礼だなんて!そんな!」
「お前の『魂』、ちゃんと聴こえた。悪くない」
「!」
春日さんの顔がパッと輝く。
「だが、まだ足りない」
「はい!」
「そのメモリの中に俺なりに『お前の曲』をもっと良くするための『ヒント』をいくつか入れておいた」
俺は努めて『天音彼方』としてのアドバイスを装う。
「俺が気づいた点とか、……あとお前が知りたがってた和声学の基礎とかまあ、そんなもんだ」
「あくまで『俺の解釈』だから、参考にするかしないかはお前次第だ」
「そ、そんな!絶対、参考にします!ありがとうございます、師匠!」
春日さんはUSBメモリを宝物のように両手で受け取った。
「(中身を見たら、絶句するだろうがな)」
(昨夜の俺の熱量がそのまま詰まってるからな。和声学の解説から打ち込みのコツ、果てはボーカル練習の基礎まで。普通の音大生が隣人に渡すレベルじゃない)
「じゃあ、俺は行く」
「あ、はい!師匠も大学ですか?」
「ああ。今日は、ちゃんと出る」
(サボっている場合じゃない。レコーディングは水曜だ)
「じゃあ、一緒に行きましょう!」
「……(面倒くさい)」
俺たちは連れ立ってエレベーターに乗り込んだ。春日さんはさっそくポケットからスマホを取り出し俺が渡したUSBメモリを(おそらく変換アダプタを使って)接続し中身を確認し始めた。
「ひゃっ!?」
エレベーターが下降する途中、彼女の小さな悲鳴が響いた。
「な、なんですかこれ……! ファイルの数がすごい……!」
「(……気づいたか)」
「『和声学基礎_借用和音とは.pdf』……? 『DTM講座_グルーヴの出し方_応用編.txt』……? 『ボイトレ基礎_腹式呼吸とピッチコントロール.mp3』……!?」
彼女は画面をスクロールしながら、呆然とファイル名を読み上げている。
「師匠……これ、全部、師匠が……?」
「まあな。……暇だったから」
(大嘘だ。睡眠時間をすべて削って作った)
「こ、こんな……!大学の先生が一年かけて教えるような内容を一晩で……!?」
「(!ヤバい。やりすぎたか?)」
チン。エレベーターが一階に到着した。春日さんはまだスマホの画面に釘付けになったままふらふらと外に出た。
「……師匠」
「なんだ」
「やっぱり、師匠は何者なんですか……?」
(来た。核心に触れる質問)
「ただの音大生だ。ちょっと音楽が好きなだけだ」
俺はいつものはぐらかしで答えた。
「それより、お前こそ大丈夫か? レコーディング水曜なんだろ」
「え!? あ、は、はい!……って、あれ?なんで師匠がレコーディングのこと……?」
(しまった!)
俺は無意識に『Kanata』としての情報を漏らしてしまった。
「あ、いや」
俺は慌てて言い繕う。
「お前の『推し(凛音ちゃん)』の活動関連で、なんか水曜に大事なことがあるって、この前言ってなかったか?勘違いか?」
「あ、いえ!次の曲のレコーディングが確かに水曜日……って、マネージャーさんからも聞いてますけど……」
春日さんが混乱している。
(まずい。墓穴を掘った)
「とにかく!」
俺は強引に話を打ち切った。
「そのデータ、ちゃんと読み込んでおけ。今日放課後またレッスンするからな」
「! はいっ! 分かりました!」
春日さんは、再び目に闘志を宿し頷いた。
◇
その日の大学での講義は俺にとっても春日さんにとっても上の空だった。俺は必修の「管弦楽法」の講義を受けながらも、頭の中では『Anima』のストリングスアレンジの最終調整について考えていた。一方、隣の席の春日さん(今日も当然のように隣に座ってきた)は、教科書そっちのけでスマホで俺が渡した『補足資料』のテキストファイルを食い入るように読み込んでいる。時折、小さな声で「なるほど……」「腹式呼吸……深い……」と呟いている。周囲の学生たちは、そんな俺たちを遠巻きに見ながら「また師弟がなんかやってる」とヒソヒソ噂していた。もうどうでもいい。
問題は放課後だ。俺たちは大学の防音練習室(俺の部屋は危険すぎる)に籠もった。時間は限られている。レコーディングまであと二日。
「いいか、春日さん。まず、腹式呼吸だ」
俺は練習室のアップライトピアノの前に座り、鍵盤には触れずに言った。
「俺が送った『ボイトレ基礎』のファイル、聴いたか?」
「は、はい!聴きました!師匠の声で……!」
(危ない。こいつ俺の声(彼方)と俺の声(Kanataボイスチェンジャー)の違いに、まだ気づいていないのか?それとも……?)
「あの、師匠の声!すごく落ち着いてて分かりやすくて!あんな声も出せるんですね!」
(ボイトレ解説用にいつもより少しトーンを落として録音しただけだ。ボイチェンではない。助かった)
「いいからやってみろ。息を腹に入れろ」
「はい!」
春日さんはピアノの横に立ち息を吸い込んだ。
「違う。肩が上がってる。腹だ。腹を膨らませろ」
「こ、こうですか?」
「そうだ。そのままゆっくり吐け。『スー』っと」
「すーーー……」
(!)
俺は彼女の息の長さに驚いた。声楽科としての基礎はやはり伊達じゃない。
「よし。じゃあ今度は音(声)を乗せるぞ。『ド』の音だ。ロングトーンで」
俺はピアノで「ド」の音を弾く。
「はい!」
「ドー――――――……」
(!)
俺は鍵盤を弾く指が止まりそうになった。声が……違う。ブレがない。ピッチ(音程)が完璧に安定している。腹式呼吸を意識しただけでここまで変わるのか?
「ど、どうでしたか……?」
歌い終えた春日さんが不安そうに俺を見る。
「……ああ」
俺は、……嫉妬と、……興奮と、……そして、一抹の恐怖を感じながら言った。
「……完璧だ」
「! やった!」
(こいつ本当に何なんだ。ただの、「耳がいい」だけじゃない。聴いた情報(知識)を瞬時に自分の「身体」で体現する「才能(ギフト)」。それは俺
(Kanata)ですら持っていない『ボーカリスト』としての天賦の才)
俺は次の音を弾いた。『Anima』のAメロの最初のフレーズだ。CmMaj7のあの不安定な響き。
「……次、ここだ。歌えるか?」
「はい!」
春日さんは歌った。淀みなく。完璧に。俺(彼方)が、USBメモリに入れた「理論(テキスト)」と「基礎(ボイトレ)」を彼女自身の「感覚(みみ)」と
「身体」で、完全に融合させて。
俺たちの「地獄のレッスン」は予想外の形であっけなく終わりを告げようとしていた。彼女にはもう俺(彼方)の、「指導(レッスン)」は必要なかったのだ。必要なのはただ俺(Kanata)が作った「舞台(Anima)」だけ。
練習室を出る頃には外は真っ暗だった。
「師匠!今日はありがとうございました!」
春日さんが、いつものように深々と頭を下げた。
「私、明日もこの調子で練習続けます!」
「……ああ」
俺はかける言葉が見つからなかった。
(俺はもうこいつに何も教えられない……俺の役割は終わったのか……?)
◇
火曜日の夜。レコーディング前日。俺は自室(スタジオ)で『Anima』の最終的なオケ(伴奏)データのミックスダウン作業を行っていた。
(完璧だ)
俺(Kanata)のすべてを注ぎ込んだサウンド。これ以上ない最高の「舞台(ステージ)」は、整った。
(後は、あいつ(春日さん)がこの『舞台』でどう歌うかだけだ)
左の壁(502号室)からは音が聞こえない。
(寝たのか?それとも明日に備えて喉を休ませているのか?)
俺はふと不安になった。
(俺はあいつにすべてを押し付けすぎたのではないか?俺(Kanata)の「魂
(Anima)」と俺(彼方)の「期待(プレッシャー)」と……あいつ、……潰れてないだろうな?)
俺は、(またしても、無意識に)大学用のスマホ(彼方用)を手に取り春日さんにチャットを送ろうとして指を止めた。
(いや、やめよう。俺が今『師匠(彼方)』として声をかけたらそれはあいつの「覚悟」を揺るがせるだけだ)
(信じるしかない……俺(Kanata)が、惚れ込んだあの「声(タマシイ)」を……そして俺(彼方)が、育ててしまったあの、「才能(モンスター)」を)
俺はスマホを置き、代わりに明日のレコーディングで使うヘッドホン(本物)とボイスチェンジャー(Kanata用)の最終チェックを始めた。明日。俺たちの「本当の勝負」が、始まる。
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