第26話 天才作曲家は(隣人の)才能(答え)と(自らの)覚悟(未来)を直視する


「師匠ー! 聞いてくださいー!」  


 壁越しに響く春日さんの歓喜の声。


「私! できました! 『続き』! Cマイナーの先の『魂』!」


(なんだと?)


 俺はスタジオ(本物)の椅子の上で固まっていた。柊さんからの無茶な締切(デッドライン)メールを睨みつけ、第二弾楽曲の方向性に頭を悩ませていたまさにその瞬間だった。春日さんに渡したあの『黒歴史(Cマイナー)』のデータ。あれはただの気まぐれと時間稼ぎのはずだった。まさか本当に一日で『続き』を作ってくるなんて。


 ドン、ドン!壁が再び叩かれる。


「師匠!聞いてますかー!すっごいのできちゃったんです!」  


(うるさい。聞こえてる。だが今それどころじゃないんだ)


 俺は柊さんへの返信メールを打ち始めていた。『来週末締切は物理的に不可能だ。最低でも二週間は必要だ』と。そして『ボーカルエディット前提の曲作りはしない』とも。だが、そのメールを送信する指が、止まった。


 (もし、もし、春日さんが本当に『何か』を掴んでいたら?俺が今書こうとしている『魂』の曲。それを歌えるだけの『何か』を)


 俺は立ち上がり壁に向かった。ドン、と一度だけ、壁を叩き返す。


「分かった。今、行く」


「! はいっ!」


 隣の部屋(502号室)へ向かう。わずか数メートルの距離が今は途方もなく遠く感じる。ドアの前で一度深呼吸する。  


(落ち着け俺。相手はただの初心者だ。過度な期待はするな)


 ドアをノックする。


「どうぞー!」  


 ガチャリ。ドアを開けるとそこには目をキラキラさせた春日さんがノートPC(俺のお古じゃない、彼女自身のものだ)を抱えて立っていた。部屋の中は相変わらずぬいぐるみと吸音材でカオスだが、昨日までとは違う熱気が満ちている。


「師匠! 来てくれたんですね!」


「『続き』ができたんだろう」


「はい!あの、自信あります!」  


(自信?)  


 あの春日さんが自分の音楽に『自信』を持つなんて。


 俺は部屋に上がり、ローテーブル(まだ鍋の匂いが微かにする)の前に座った。


「聴かせろ」


「はい!」  


 春日さんは俺の隣に座りノートPCを開く。画面にはLogic(体験版)が起動していた。昨日俺が渡した『黒歴史(Kasuga_Lesson_Ver01.logicx)』のプロジェクトファイルが開かれている。8小節しかない、あの短い練習曲。


「じゃあ、再生しますね!」  


 彼女は再生ボタンを押した。


 ――ポロロロロン…♪…キラリーン…☆


 俺(過去)が書いたメロディ。春日さんが見つけたオルゴールの光(ミ♮)。そこまでは昨日と同じだ。問題はこの先。8小節目の終わり。本来ならそこで曲は終わるはずだった。


 だが音は止まらなかった。8小節目の最後の和音(Cマイナー)から滑らかに……いや、力強く次の和音へと繋がっていく。E7(ミソ#シレ)。そして、Am(ラドミ)。  


(! やはりあの転調か!)


 だが驚きはそこで終わらなかった。Aマイナーに転調した後、彼女が紡ぎ出したメロディは。俺の『黒歴史』のあの暗く内省的な雰囲気とは全く違う。もっと開放的で、……切なくて、……どこか懐かしいような新しいメロディ。


(なんだ、これは。このメロディ、……どこかで……)


 俺は気づいた。これは春日さんの「オリジナル」じゃない。彼女が無意識に……あるいは意図的に引用している。俺(Kanata)の『アストロラーベ(原曲)』のCメロのあの最もエモーショナルなフレーズを。


「っ!」  


 俺は息を呑んだ。彼女は俺(過去)の曲の『続き』として、俺(Kanata)の曲の『魂』をここに繋げてきたのだ。しかもただのコピーじゃない。キー(調)もリズムも原曲とは違う。彼女自身の解釈(フィルター)を通して再構築されている。


 ピアノの音色だけじゃない。ストリングス(Logic体験版のチープなやつだ)が控えめにだが効果的に加わっている。ドラム(リズムトラック)まで拙いながらも打ち込まれている。


(嘘だろ。たった一日で、……ここまで……?)


 曲はAマイナーの世界でしばらく展開した後再び転調し元のCマイナーへと……だが、ただ戻るのではない。何かを掴んだかのような力強さを持って着地した。そして、静かに終わった。


 シン、と静まり返る部屋。春日さんが緊張した面持ちで俺の顔を窺っている。


「ど、どう、でしたか……?」


 俺は言葉を失っていた。嫉妬?驚愕?違う。もっと別の感情。  


(……ああ、そうか……俺はこれを待っていたのかもしれない)


 俺(Kanata)の『魂』に応えられる、……『鏡』を。


「……師匠?」


「悪い」  


 俺はようやく声を出した。


「全然、ダメだ」


「えっ!?」  


 春日さんの顔が絶望に曇る。


「……嘘だ」


「え?」


「最高だ。……鳥肌が立った」


「!!!!」


 春日さんの目がみるみるうちに潤んでいく。


「で、でも! ダメだって!」


「ああ。ダメだ。技術的にはな」  


 俺はPCの画面を指差した。


「まずこのストリングスの打ち込み。ベロシティ(音の強弱)が全部同じだ。これじゃただの機械(ロボット)だ」


「あ、はい……」


「ドラム。ハイハットのタイミング、全部ズレてる。クオンタイズ(補正)かけろ」


「く、くおんたいず……?」


「転調(E7→Am)の繋ぎ。アイデアはいい。だがボイシング(和音の構成音)が汚い。もっと滑らかにできるはずだ」


 俺は、次々と具体的な「ダメ出し」を始めた。それはもはや「隣人の音大生」のアドバイスではなかった。『Kanata』としてのプロの視点からの容赦ない指摘だ。


(……まずい。俺、今、『彼方』の仮面剥がれてる)


 だが春日さんは怯まなかった。彼女は涙を浮かべながらも必死に俺の言葉をメモ帳に書き留めている。


「ベロシティ……。クオンタイズ……。ボイシング……」  


(こいつ、食らいついてきやがる)


「分かったか? お前の『魂』はまだ、『技術(ルール)』に追いついていない」


「はい……!」


「だがその『魂』は本物だ」


「!」


「お前がもし本気で『作曲』をやりたいなら」  


 俺は彼女の目をまっすぐ見て言った。


「……俺(かれ)が『地獄』まで付き合ってやる」


「師匠……!」  


 春日さんは今度こそ声を上げて泣き出した。  


(ああ、もう。だから近いって)


 俺は、彼女の頭を(無意識に)ポンポンと撫でていた。  


(……しまった)  


 慌てて手を引っ込める。


「あ、ありがとうございます! 私、頑張ります!」  


 春日さんは、涙を拭い決意を新たにした顔で頷いた。


 俺は立ち上がった。


「じゃあ、俺は帰る。その『続き』俺が今言ったダメ出し全部修正して明日までにデータ送れ」


「え!?明日!?」


「できなければ地獄(レッスン)は終わりだ」


「ひゃっ!?は、はい!やります!」


 俺は春日さんの部屋を後にした。自室(501号室)に戻り、スタジオの椅子に深く沈み込む。  


(疲れた……だが、決まった)


 俺は、PC(Kanata用)を起動し、柊さんへのメールを開いた。さっき打ちかけ『締切延期』と『編集前提反対』の下書き。それをすべて削除(デリート)した。


 そして新しいメールを打ち始める。


『柊さん。第二弾楽曲、引き受けます』


『方向性は、「魂」。アストロラーベを超えるものを書きます』


『納期は、来週末。……間に合わせます』


『ただし、条件が一つ』


 俺はそこで、一度指を止めた。  


(本当にいいのかこれは賭けだ。俺(Kanata)のキャリアと春日さんの未来を天秤にかける無謀な賭けだ)


 だが、迷いはなかった。俺は続きを打ち込む。


『ボーカル・エディットは最小限にします』


『彼女(白亜凛音)は歌えます。俺(Kanata)が歌わせてみせます』


 送信ボタンを押した。もう後戻りはできない。


 俺は再びマスターキーボードに向き直った。  


(やるぞ……春日さんが俺(かれ)の『ダメ出し』と格闘している間に……俺(Kanata)は俺(おのれ)の『魂(すべて)』をこの一曲叩き込む)


 俺たちの二つの「作曲」が今、本当の意味で始まった。


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