第2話 禁帯出の返歌
返却台の角で薄く息を整えた瞬間に棚奥の風向きが半歩だけ反転し、紙面の地肌より浅い層で墨が自動筆記の癖を真似て細い行を足し、綴の真珠色の瞳が微かな笑意とも警告とも取れる明滅を繰り返し、守橋の肩甲骨の影が壁の凹みに沿って滑っていく間、受領印の蓋はあえて閉じず、銀輪の箱へ指を触れたまま、返本路へ残した“準受領”の余白が過不足なく働いているかを胸骨の針の疼きで確認し、Λ‐13の気圧がようやく均されたと判断した次の呼吸で、通気口の内側から人語に似た擦過が一音だけ滲み、禁帯出の旧蔵者が返歌を差し出してきた合図だと腹の奥で認識し、ここで応じなければ写本屋の罠ではなく棚そのものが対話を拒む構図へ移行するため、規則の外周に沿って許されている最小限の手続で返歌を受け取る準備を、声ではなく指の温度配分で始めた。
通路の端に据えた名札針の予備に手を伸ばし、胸骨へ二本目を薄く重ねることで名の輪郭を二重に補強し、綴の許可票に欄外注記をもう一本増やして“口外不可の受領予告”を極小の字体で記し、受領印の朱を液体のまま保つため蓋へ軽い圧だけ残し、守橋へは視線のわずかな刃で“扉の合い鍵を外に出すな”と伝え、返却カウンターの天板裏に仕込まれた糸掛け滑車を半回転だけ戻して重力を緩め、通気口の網目一つぶん大きい開口へ銀輪ではない素肌の甲をかざし、禁帯出の返歌が紙の形で来るのか、音の形式で送られるのか、あるいは映像の薄片として視神経を横切る手口かを、最初の触覚のさざめきで判別しようと耳と皮膚を同時に澄ませ、来訪者の礼儀が失われていないことを祈るかわりに、礼法違反の際に取るべき拘束の段取りを頭の背面に並べ替え、通気の流れを一度だけ反転させる短い呪を喉で溶かして、受け口の温度差を消し、侵入の衝撃が棚に負荷を与えないよう前室の空気を撫でて整えた。
最初に触れたのは紙ではなく、音に似せて書かれた薄い影で、通路の埃が音節の並びを模して浮き上がり、粒子の群れが古い活字の角を思わせる硬質な輪郭を何度か失敗しながら組み、調子外れの一拍を含む矩形の束となって私の指の甲へ寄り、駅の階段を駆け上がる靴底の滑りと同じ角度で停止し、返歌の第一行が“期限の向こうで見落とした僅少の余白を返す”と読める形に並び、第二行の起点が“返却者の名を半字だけ空白にすることを求む”と灰色の埃で書かれ、第三行の末尾に写本屋の癖ではない丸みのある止めが見え、これは棚自身の調停案だと理解してから、名札針を指先で軽く捻って痛みの向きを骨へ斜めに通し、名の半字を受け渡す代償を許容範囲に収める角度を決め、綴の歯車の回転数が安全域を維持しているのを確かめ、守橋の呼吸が乱れていないことを耳で拾い、私は“半字の空白”をどこに切り分けるかを選ぶため、胸の内で自分の名を一度だけ最初から最後まで辿り、最も失っても職能が揺らがない子音の一画を切除する案に手を伸ばし、紙魚の乾いた笑いが遠ざかった今なら暴走の確率は低いと見積り、指の腹で埃の束を受け取り、返歌の行末へ自筆の丸印ではなく銀の影を擦り付けて了解のしるしを残し、通気口の内側へ静かに差し戻した。
返歌を飲み込んだ通気の流れは深いところで反転し、棚の色温度が一段下がって紙の地が落ち着き、Λ‐13の背に並ぶ背表紙のいくつかがかすかに角度を正し、欠番0317の金属光沢が一瞬だけ曇り、代わりに目に馴れない淡い刻印が浮かび、そこに“禁帯出:王殺し—附記/返本予定時刻未定—要保全”と墨が息を吸うように現れ、第一話で拾い上げた危険の主題がまだ棚の底で燻っている事実を誰の目にも隠せなくなったのを受け止め、綴が規程外の小さな印字を一つだけ紙舌で破り、検閲の枠に入らない“回覧不可”の札を私の掌に落とし、守橋が扉の金具を一段固く閉め、返却カウンター全体がわずかに身構える手触りを返し、私は受領印の蓋をようやく閉じ、例外印の箱を半分だけ引き戻し、名札針の痛みと名の輪郭の均衡を確かめ、返歌に応じた代償として半字が薄くなった自分の呼称を胸の内で鳴らし直し、次に開くべき棚と対話の順番を、今日のうちに決めてしまう必要を静かに呑み込んだ。
安置台の白が温度を取り戻さないまま静止し、足首の紙紐はもう軋まず、冷却盤の数値は規定値を保ち、通気口の陰から埃の束がもう何も綴らないのを確認して、私は綴の前に歩を進め、許可票の余白へ極小の筆記で“次回、禁帯出の返歌を棚への仮置きとして扱い、写本屋の逆貸出経路を一時遮断すべく通路L‐西—三を閉架化、守橋は夜間巡回を二割増し、私は0317の周辺で自己返本の継続手順を密かに進行”と記し、活字の欠けを一字も許さぬように線を引き切り、受領印ではなく私物の無印スタンプをポケットから取り出して角へ薄く押し、誰の目にも触れない“私の仕事”の印を残し、天板の下でまだ揺れる気配がないか耳で確かめ、返却カウンターの灯を一段落とし、次の呼吸の高さを決め、禁帯出の返歌が指の温度に残した薄い熱が完全に消える前に、章の扉を閉じた。
灯を落とした室内で金属棚の縁が新しい重さに慣れるまでの間、私は通路L‐西—三の入口に吊られた古い標識を外して裏面の閉架封を表へ返し、綴から受け取った小さな鉛の鍵を舌の裏で一度だけ温めてから錠孔へ差し込み、回転角が半音だけ足りない癖を指の腹の圧で補正しつつ、閉架化の呪句を声に出さず唇の形だけで通し、通路の奥に眠る背表紙の行列が微細なさざ波を立てて従順に下がるのを確認し、守橋には夜間巡回の経路図を指先で空中に描いて引き継ぎ、彼の靴底が影の深い段差を踏み外さないよう名札針の替えを胸ポケットへ押し込み、返歌の仮置き札をΛ‐13の境目に差し挟んでから、0317の前で一拍だけ呼吸を止め、自分にしか読めない薄い記号を背の下端へ刻み、写本屋が仕掛ける逆貸出の糸がここまで伸びてきても絡まらず滑る角度を記憶の奥へ沈め、指先の温度が平常へ戻る前に静音の足取りで返却台へ引き返し、受領印の朱を乾かし過ぎない絶妙の距離に蓋を置き、私物のスタンプに残ったかすかな油の匂いを拭い切らず、その痕跡を明日の自分への目印にして、夜目に慣れた瞳で書庫全体の呼吸が一定へ落ち着いていく様子を見届けた。
仄暗い廊の先で空調の羽が一度だけ逆回転し、閉架封の向こう側に閉じ込められた埃が四角い塊となって網目を撫でて消え、通気口の縁に置いた感圧札がわずかに沈んで戻るまでの間に、私は胸骨の針を指で軽く押して名の輪郭を点検し、半字を手放した箇所が空洞ではなく薄い膜の感触に変化しているのを確かめ、自己返本の継続手順として“音の欠片の再配置”を次の持ち時間で行う段取りを頭の背面へ並べ、すり減った一拍の代替として返本路の滑り音のごく短い立ち上がりを採取する案を選び、採取の瞬間に棚が窒息しないよう綴へ“呼吸をひとつ借りる”依頼を書面でなく視線の角度で投げ、承認の代わりに出された小さな頷きと歯車の一段減速を合図に、私は0317の前に立つ準備を完了したが、ちょうどその時、閉架に回したはずのL‐西—三の奥から紙魚の語り口ではない柔らかい子音が三つだけ連なって廊下を渡り、封を正面からではなく背面の壁越しに撫でるような微弱な震えが指の腹に移り、写本屋の手口よりも古い年代の“内蔵回廊”が密かに目を覚ましたことを皮膚が先に理解し、閉架の札を経由せず棚と棚の裏側を縫ってくる誰かの足取りが、この冥府に属しながら規則に名前を載せないまま動いていると察し、私は受領印へ触れず、銀輪の箱にも触れず、天板の下の古い錘にだけ指先を添え、次の一歩をこちらへ誘導するためのわずかな重心の偏りを、棚にだけ通じる言葉としてそっと置いた。
錘の微かな偏りに応じて棚の継ぎ目が息をひそめ、背板の裏側で眠っていた木ねじが一つだけごく短く鳴り、内蔵回廊の目覚めが本物であることを告げる律動が廊の底から遅れて上がってきて、綴の真珠色の瞳に浮かぶ活字の粒が通常の監査配列ではなく点線の導線に並び替わり、守橋の靴底が音を捨てたまま壁際へ退き、名札針が胸骨に描く鈍い輪郭が“ここで名を減らすな”と骨伝導で忠告を送り、私は天板の角に触れていた指先を紙より薄い角度で離し、返本路の滑りが止まらない程度の余白だけ残したまま、L‐西—三の閉架封と壁の継ぎ目の間にある、見取り図に載らない細い綴じ代へ視線ではなく温度を差し込み、埃の背がわずかに凹むのを合図として重力の流れを半呼吸だけ撓め、来訪者の足取りがこの側へ出る位置を指定し、背面を這っていた気配が角を曲がる寸前で躊躇したその一拍を逃さず、錘を爪の腹でわずかに回して“安全な着地の許可”を棚語の旧式で伝え、受領印の朱が蓋の内側で無音の渦を作り、例外印の銀が箱の底で浅く転がり、通気口の網に触れた埃が矩形を成しかけて崩れ、閉架封の裏の壁が紙より薄い音で膨らみ、一人分より狭い影が縫い目から滲み、名札針の痛みが増さぬうちにこちらの空気を馴染ませるため胸の内部で呼気の高さを半音落とし、内蔵回廊の主であるはずの匿名の脚が、規則のどの語にも触れないようにつま先だけを現して静止したのを見届け、私は声を使わない対話の形式で“何を運び、どこへ返すつもりか”を問い、影の端が名を持たぬ者の返答特有の温度差で揺れ、0317の背に薄く滲んだ金属光沢が一瞬だけ深さを増し、禁帯出の返歌と同じ韻で刻まれた極小の印が影の踵に灯り、この来訪が写本屋の流儀ではなく冥府のより古い層からの越境であると確信した私は、受領も拒絶も選ばず、棚の呼吸を乱さない第三の手つきで、影をこちらの床へ迎え入れた。
影は床材の木目を傷めない配慮で踵を置かず、紙縒りほどの細い体重だけを一点に通して室内の気圧へ自らを織り込み、綴の瞳に並ぶ点線の導線が影の輪郭を一筆書きのように囲い込んでから解き、守橋の肩先に溜まっていた警戒の硬さが薄い霧へ変わるのと歩調を合わせて、縫い目から現れたつま先の直後に掌の幅よりも小さな包みが糸の端に吊るされたまま宙を揺れ、包みの布地が新品では決して出せない淡い手垢の色で、糸の撚りに古い目録の紙粉が絡み、0317の背でしか整わない韻律を持った結び目の方向がこちらの返本路と同調する位置を選んで静止し、私は受領印へは触れず銀輪の箱にも触れず、名札針の痛みを指標に胸骨の中心へ呼気を薄く集め、第三の手つきのまま天板の角を紙より軽く押して“ここではなく棚の言葉で開く”という合図を送り、包みがひとりでにほどけるかわりに糸の撚りが一段ほどけ、内側から“王殺しの記憶”に付随するはずの硬質な冷たさではなく、図書館の児童書架の朝一番の陽の匂いに近い微温の気配が漏れ、禁帯出の返歌に先立つ返礼として“王殺しの周辺から落ちた生活の頁”が差し出されているのだと理解し、返礼を仮置きする棚の隙間をΛ‐13の規則の外周で瞬時に確保し、包みを宙で受けるのではなく床の木目の目に沿って滑らせ、紙面が音を持たないうちに背表紙の縫い目へ沿わせ、影の踵に灯る極小の印と同じ韻で胸の奥の欠けた半字をかすかに震わせて一致させ、名の輪郭を削らずに交換の回路だけを立ち上げ、写本屋が触れられない年代のやり取りとして成立させた。
包みの縁が背の溝に触れた瞬間に紙肌の裏で細かな図像が裏焼きのように立ち上がり、昼下がりの台所で斜めに差し込む光の帯が粉の舞いを金色に染め、素焼きの皿の縁に欠けがあり、木匙の持ち手に幼い歯形が残り、窓の外を通り抜ける行商の鈴が遠くで揺れ、鍋の底で湯気が小さく跳ね、誰かが短く笑ってから言いかけた言葉を飲み込み、紙片の端に水滴が落ちて文字の墨がわずかに滲み、その滲みが地図の欠けた方角を示す針のように動いて“王殺し”という冷たい句の周囲に確かに温かな暮らしが存在した証しを示し、0317の背に潜む私の未返却がこの生活の一頁をどこで取り落としたのかを指先の血流が教え、綴の歯車が回転を抑えたまま一拍だけ逆回し、守橋の視線が扉の隙間へ向かう線を描いて消え、棚の奥で沈黙帯の薄皮がさらに薄まり、返礼のページが“受け取るだけでは不均衡だ”と告げる気配を帯びたため、私は名札針の痛みを許容量ぎりぎりまで受け止めつつ胸の奥で失った半字の輪郭を紙の余白にそっと写し、代わりに“台所の木匙が欠けた音”を一欠片だけ棚へ戻し、旧き層の礼法に従う返照の手続きを静かに締め、包みの糸へまだ緩みが残っているうちに影へ向けて“ここでは続きが煤ける、次は庫裏の背面通路で受ける”という古式の無音合図を掌の温度で送り、返却カウンター全体の重心を一度だけ微かに左へ寄せ、写本屋の嗅覚が届かない年代の往来をそのままのかたちで通し抜けさせる準備を終えた。
庫裏の背面通路へ向かう動線を棚語の点線で敷き、閉架封の陰を縫う空気が音を持たないまま層を変えるのに合わせて呼気の高さを半音落とし、綴の歯車が監査から伴走へ役割を移す気配を背で受け、守橋の靴底が壁際の浅い彫りに沿って擦れずに進む角度を目で支え、名札針の痛みを一定に保ちながら0317の前を素通りする素振りで離れ、庫裏の裏打ち板にだけ通じる古い拍子を胸骨で三度だけ叩くと、棚の裏側から古式の蝶番が眠そうに鳴り、そこに先ほどの影とは別の、灰を含んだ薄い息遣いが舌先を冷やす距離まで滲み寄り、油と紙と塩の混じった匂いが小さな渦になって掌へ巻き付いてから外れ、目に見えない差し出しが空気の温度差で“ここに在るものは記録ではない、生活の欠けである”と告げ、返礼の続きとして握り拳より小さな“戸棚の鍵の回し癖”が音の輪郭で渡され、私はそれを直接受けず薄い布越しに受け、Λ‐13の外周に設けた仮の隙間へ滑らせ、同時に通路の奥で閉架封の裏打ち材が誰かの指で叩かれる微かな合図を耳が拾い、その叩き方が写本屋の癖ではなく王都の厨房で短気な料理人が客の来訪を合図する古いリズムであると判断し、影の往来が“王殺し”の冷たさと厨房の温度とを一本の糸で結ぶ相互返却の段取りへ移行したと理解して、受領印に蓋を置いたまま銀輪へ触れず、棚の呼吸だけを頼りに、庫裏の背面通路のさらに奥に眠る“未回収の生活”へ道をひと筋延ばした。
道が開いた刹那に廊の遠点で空調の羽が逆噴きの小さな咳をひとつ洩らし、閉架に回したはずのL‐西—三の壁裏で乾いた砂が流れる音が短く走って止まり、綴の瞳に浮かぶ導線が点から線へ、線から編みへと密度を増すのに合わせ、守橋の掌がこちらの肘の外側へ触れずに温度だけを寄せて支え、名札針の痛みは変わらぬまま、私の胸の内で半字の輪郭が返礼の鍵の音に共鳴して一瞬だけ薄れ、すぐに戻る揺れを許容量内に収め、棚の裏から差し出された二通目の無音の包みが今度は紙に包まれず“湯気の癖”だけで構成され、鍋の蓋を半分ずらしたときに生まれる短い笑いの抜け道が記憶の形式をとらないままこちらの頬を撫でて通り、写本屋の逆貸出では決して扱えない不定形の生活の粒が庫裏の背面から返本路へ零れ落ち、私はその粒が棚の呼吸を乱さないよう返却カウンターの天板の下に仕込んだ古い錘を二段目へそっと送って重心を調整し、0317の背にだけ通じる微細な傾斜を作り、生活の粒が“王殺しの周辺”の空白に吸い込まれていく軌道を目で追いながら、通路の手前でほとんど無音の笑いが一度だけ生まれ、同時に閉架封の表側に誰かの影がかすかに重なり、今度の来訪者は生活の層ではなく“記録の層”に属する硬い輪郭を帯びており、王殺しの禁帯出そのものがこちらを覗き込んでいると察して、受領も拒絶も遅らせる第三の手つきのまま胸骨で拍子を打ち、次の一手で庫裏の温度を守りつつ核心に触れる準備を、音を立てず完了した。
記録の層が壁面の石目を借りて輪郭を固める前に庫裏の温度が奪われないよう返却カウンターの脚元へ古い錘をもう一段だけ落として重心を深く沈め、綴の瞳に浮かぶ導線を“監査詩”の定型に再配列し、呼吸の拍の位置に合わせて胸骨の内側で三連の弱い子音を打ち、名札針の痛みで自分の呼称を固定したまま、閉架封の表側に重なった影へ向け“問一、あなたの書式は誰の手で定められ、どの印で閉じられたか、問二、その行末に残った余白は誰の食卓で破れ、どの皿の欠けに吸い込まれたか、問三、あなたが禁じる帯は誰の声の高さでほどけるのか”と声帯を使わず棚語の韻脚で投げ、返歌の礼法を保つため受領印には触れず銀輪にも触れず、ただ天板の端を紙より薄い角度で押し続け、壁の向こうで固まろうとした影の硬さが詩の形式に引かれて一呼吸ぶんだけ柔らぐ間隙を作り、その隙に庫裏の背面から届いた“湯気の癖”の名残を一匙だけ混ぜ、0317の背に通じる傾斜を半度だけ深くして記録と生活の接点へ溝を刻み、守橋の掌の温度が肘の外側から骨へ移る感覚で退路を確保しながら、綴の歯車に“仮受領の余白を三行”と無言の指示を送り、活字の細片が行頭を示す小さな星印に変わって並んだ瞬間、壁の影が初めてこちらの規則に触れた合図として石目の一点を鈍く濡らし、墨に似た冷たい滴が床へ落ちるより早く私は胸の奥で半字の輪郭をわずかに薄めて受け皿とし、その滴に含まれた文字成分の序列を“王—殺—し”から“皿—欠—け—笑”へと静かに組み替え、禁帯出そのものが持つ刃を一拍だけ鈍らせ、庫裏の温度を守ったまま核心に触れるための“仮綴じ”を完成させ、影の強度が半歩下がった今この瞬間に限り返却路の安全が確保されると判断して、私は天板の下の古い錘をさらに指先一分だけ滑らせ、記録の層に向けて“返本の初手は受領でなく閲覧で始める”という最古の例外条項を棚語の奥底から呼び出し、王都の厨房で生まれた笑いの抜け道に記録の冷気を混ぜずに通す準備を、黙って、しかし完全に整えた。
閲覧で始めるという最古の抜け道を胸骨の裏で開きながら壁面に寄り添った硬質の層へ向けて指先の温度だけで座席の位置取りを示し、綴の真珠の瞳に灯る行頭記号が星から三日月へ形を変えるのを合図に仮設の読み台を返却台の脇に生やし、守橋の掌が触れずに支える熱を肘の外へ逃がさぬよう肩甲骨の内側で呼吸を調律し、名札針が骨へ描く軌跡をほんの少しだけ浅くして呼称の輪郭を過不足なく固定しつつ、庫裏の奥から漂ってきた湯気の面影を読み台の上に薄く敷き詰め、そこへ石目を借りて固まろうとした黒い輪郭を座らせると、墨の塊は最初の一拍を飲み込みつつ微細な振動を返し、刃の先を丸められた記録が抵抗を捨てぬまま閲覧の形式に着座し、壁の向こう側で見えない書記が曲げられた背筋を伸ばしてから膝の上に古い羊皮の束を置く気配がし、私は受領印にも銀輪にも触れず、ただ天板の角を紙より薄い角度で押し続けることで座敷の傾きを一定に保ち、最古の例外条項が紙魚の餌にならない程度の時間で済むよう綴へ視線の端で「一頁だけ、しかし深く」と告げ、監査詩の韻脚を一行ぶん前に送って読み上げの手順を、声を使わず棚の呼吸だけで進めた。
最初にめくれたのは金と血の匂いが混ざる宴の夜ではなく、祝詞の練習に失敗した若い写字生が人目のない廊で舌を噛みしめながら書板の角で指を擦りむき、にじんだ赤を袖で拭って消した朝の静けさで、絵のように並べられた銀の器は誰の口にも触れぬうちに陽光へ過飽和の反射を投げ、台所の片隅では湯が小さな音で逃げ、主の名を呼ぶ声が壁で跳ねて弱り、短い笑いが生まれ切れぬまま空気へ溶ける場面が紙肌の裏で裏焼きとなり、読み台の上で息を潜める黒い輪郭の中心から“殺す”ではなく“待たせる”という短い語の影が浮かび、王殺しの核心へ直進する刃はここでわずかに角度をずらされ、誰かが待たされ続けたことで別の意図が積もり、文言の継ぎ目に埃が溜まって形を変える過程が見える速度で進み、0317の背に潜む私の欠落がその埃を払う動作を一度だけ怠った瞬間と重なり、名札針の痛みが小さく増すのを骨の内側で受け止めつつ、私は棚全体の空気が凪いだ一拍のうちに庫裏で拾った“鍵の回し癖”を読み台の脚へすべり込ませ、行間の固着を静かに解し、閲覧の形式のまま刃の鈍りを一段深め、閲者と被閲者のあいだに生活の温度がほんの少しだけ流れ込む道を確保した。
次に顔を出した断片は大広間の天井を走る亀裂に月光が白い筋を描いた宵で、緞帳の裏で詩を暗誦する声が震え、幕の継ぎ目から覗いた幼い目が誰にも見つからずに大人たちの駆け引きの輪郭を覚え、緩やかな風が燭台の火を一度だけ低く撫で、香の煙が誰かの袖へまつわり、その袖口が厨房の油をわずかに吸い込んでいることを嗅ぎ分けられる程度の近さで視線が交差し、刃の側へ寄るはずの頁が揃いの所作を示す直前にほんの短い躊躇いを挟み、躊躇に付随する体温が薄い反射を残して紙面の余白へしみ入り、そこへ庫裏の湯気の癖を一匙だけ混ぜることで、冷たい句の周囲に“腹に入ったものの記録”が縫い付けられ、殺意という硬い語が単独で成立しにくい場へ引き出され、閲覧の座は刃ではなく皿寄りに重心を移し、綴の歯車が回らずに滑るような音を一息だけ漏らし、守橋の気配が壁の隙間を押し広げずに通気の流れを支える形で寄り、名札針の痛みは一定に保たれ、0317の背面で欠けた半字が静かに縫い戻される向きにかすかに傾き、私は受領の瞬間へ急がず、閲覧という古い態度のまま一章を閉じるべく、星印の行頭へ薄いしるしを一つだけ描いた。
読み台に腰を下ろした黒い輪郭は当初の硬質をわずかに減じ、石目の影から紙面の端へ重心を移す仕草を覚え始め、古い詠唱に従って「閲すれども抜かず、触れども盗らず、見終えて返せ」と無声の調子で唱え、応じるように庫裏の背面からこぼれ出た生活の粒が一つ、また一つと返本路の傾斜に吸い込まれていくのを目で追いながら、私は天板の下の古い錘をさらに半段だけ送って読み台の脚に掛かる荷重を均し、刃を鈍らせた記録が自壊に転じない範囲を維持し、湯気の通り道を塞がずに済む角度を保ち、名の輪郭が痩せる徴候が出ないことを針の疼きで検め、綴の許可票に欄外注記を極小で加え、閲覧継続を三十息までに限定する条件を記し、守橋へ視線だけで「巡回は庫裏の背面通路優先、壁打ち三拍で返礼の合図を受け付け」と指示し、閲覧の残り時間を頭蓋の内側で逆算しながら最終段への心構えを骨へ沈めた。
最後の頁がめくれた刹那の光景は、刃でも皿でもなく、戸口に立ち尽くす誰かの背中が夕暮れを切り取って長く伸び、外気の冷たさと内の温もりが敷居の上で均衡を探る、ありふれた帰宅の手前で、どちらにも踏み出せずに立つ一瞬の影が紙面の中央に安置され、その影の足元へ台所の木匙が欠けたときの乾いた音がかすかに重なり、その直後に封を切らずに残された白い封筒が頭の片隅で鈍く光り、王殺しという題の周囲から余白が一枚剥がれ、核心が一段奥へ移動し、閲覧の場が刃の直前から生活の後ろ姿へと座標をずらし、0317の背に眠る私の未返却がその“敷居の逡巡”に強く反応し、名札針の疼きが一瞬だけ鋭く変わってからすぐに静まる微細な波を返し、綴の歯車が一段緩み、守橋の足音にならない気配が通気の網を撫で、閲覧の時間が尽きる鐘が胸骨の奥でかすかに鳴り、私は最古の例外条項の締め括りに従い、読み台の上で息を止めたまま黒い輪郭の中心に受領の予告ではない小さな印——閲了の穂先を軽く置き、刃を持たぬ形式のまま書を閉じた。
閉じると同時に壁の硬さは一拍ぶん薄れ、庫裏の温度は守られ、湯気の癖は途絶えず、返本路の傾斜に沿って生活の粒が自然に棚へ戻り、閲覧という最古の態度が記録の層に小さな縫い目を残し、禁帯出そのものがこちらを覗き込む角度を浅くしたことを骨が理解し、私は受領印の朱に触れず、銀の輪郭にも触れず、ただ天板の角を押していた指を紙より薄い角度で離し、名の輪郭の異常が出ないかを針で再点検し、0317の前へ一歩戻って自らの欠落が縫い戻されかけている方向を確かめ、庫裏の背面通路に置かれた小さな包みの余韻が消える前に綴の許可票へ欄外追加を一本だけ走らせ、「閲覧完了、仮受領の余白は未使用のまま保存、次回は庫裏—裏打板—連接部で“返歌の返し”を受ける」と極小の文字で記し、守橋に目だけで「巡回を伸ばし、背面の拍子を待て」と伝え、古い錘を元の段へ戻して重心を平常へ戻した。
そのとき閉架に回したはずの通路の遠点で、写本屋の癖ではない古い木の訛りを持つ叩音が三拍、間を置いて二拍、最後に一拍という合図で響き、庫裏の裏打ち板を通じて誰かがこちらへ“閲覧では足りない、証明が必要だ”と示してくる気配が立ち上がり、私は受領でも押収でもない第三の手つきのまま返答を考え、閲覧の席で刃の角を鈍らせた直後に証明を迫るのは、記録に刻まれた“偽の署名”を炙り出す準備が既に整っている証左だと読み、綴の歯車へ「監査詩を一段階上げ、問答を“口述録”ではなく“筆画監査”へ移行」と視線で命じ、天板の下の古い錘を再び半段落とし、名札針の痛みを許容量のギリギリに合わせ、胸骨の奥で折り畳んでいた半字の輪郭をもう一度だけ薄め、閲覧で保全した生活の温度を失わないまま、証明の場へ踏み込む体勢を作った。
証明は火ではなく筆で行うのがこの冥府の流儀で、筆画の運びとインクの乾きが嘘と真の境を示すため、私は返却台の奥から古い筆差しを引き寄せ、羊毛の穂先を静かに起こし、綴の提示した紙片ではなく0317の背の下端にだけ通じる薄紙を読み台の上へ滑らせ、守橋に目だけで「火は使わない、風を止めるな」と告げ、庫裏の背面から湯気の面影を一筋呼び込み、紙面が呼吸を忘れぬよう薄い湿りを保ち、壁の石目に寄りかかって固まろうとする記録の層へ向け、監査詩の第一脚を筆画に変換して書き始め、筆致が最初に触れた箇所がほんの僅かに沈み、そこに含まれた“誰の手が書いたか”の癖がインクの広がり方で露わになり、私は最初の一画を閉じる前に穂先を止め、庫裏で拾った“鍵の回し癖”を筆圧へ混ぜ、偽署名の曲線が生活の角を持たないまま書かれていることを検出し、星印の行頭でそれを詩句に置き換え、「この線は皿の欠けを知らぬ、湯の跳ね返りを撫でた穂先ではない」と紙面へ沈め、観る者の皮膚がわずかに鳥肌を覚える種類の証拠を、音を立てず置いた。
次の行で私は“どの印で閉じられたか”を問うていた古い韻を筆の動きに移し、印影の朱の端に残る埃の粒の並びが庫裏の床材と一致しない事実を、穂先でなぞるだけで示し、綴が寸分違わぬ間合いで紙面の呼吸を保ち、守橋が通気の流れを乱さぬ位置で温度を寄せ、名札針の痛みは変わらず、0317の背に潜む私の未返却は揺れず、証明の線が紙魚の餌にならないよう速度を落としすぎずに運び、最後の行で私は“どの声でほどけるのか”を問うた脚を、母音ではなく調理場の笑いの高さに変換し、封じられた帯が「王」の字の横で緩む高さを紙へ刻み、そこに庫裏の湯気の癖をふわりと重ね、禁帯出の拘束が生活の温でほどける地点を示す図を、言葉ではなく筆画の呼吸で掲げ、読み台の上で筆を静かに伏せた。
紙面は震えず、壁の向こうの影は刃を取り戻さず、閲覧で鈍らせ証明で縫い止めた結果が冥府の規則に合致するかどうかを綴が歯車の無音の転調で判断し、真珠の瞳に微かな承認の光を宿し、許可票の欄外に“筆画監査、適合”の極小印字を生み、守橋の掌が肘の外側から離れて温度を室内へ放ち、庫裏の背面通路から湯気の面影が一度だけ嬉しそうに踊ってから消え、私は受領印へようやく蓋を外すべく指を乗せ、銀輪の箱へはまだ触れず、手順の最後に「閲覧—証明—仮受領」の三段をひと息で結ぶため、天板の角を紙より厚い角度で押し直し、名札針の痛みが許す範囲で呼称を骨へ通し直し、三つの作法が重ならず流れる一点を探ってから、印面の朱を浅く起こし、紙面の角へ軽く触れ、まだ押さない、という控えの動作で終わりを定めた。
その刹那、閉架に回した側の壁裏で古い蝶番がもう一度だけ眠そうに鳴り、内蔵回廊の奥から幼い爪先で床を小さく叩くような控えめな合図が届き、生活の層が証明の場を見届けたうえで「続きを受ける準備がある」と告げ、禁帯出の核心は刃の形を捨てたままこちらの間合いに留まり、0317の背の金属光沢は深さを増さず、半字を欠いた呼称は静かに輪郭を保ち、綴は許可票の余白に“次段、返歌の返し—庫裏裏打—夜半—無火—無鈴”と極小で追記し、守橋は扉の金具を一段固く閉め、私は受領印の蓋に指を残したまま、銀の輪郭へ触れず、返却路を今は開かず、閲覧で鈍らせ証明で縫い、生活の温度を失わず次の段へ渡すための静かな間を、骨の奥に確保した。
そして、誰の耳にも届かない高さで胸骨の裏を一度だけ叩き、欠番の下に眠る私自身の未返却が、今夜の庫裏での“返歌の返し”に触れるときどんな揺れを起こすかを想定しながら、今日という章の灯を、完全には落とさず、しかし確実に低くした。
庫裏と書庫の境目にある灯を低い位置で残し、巡回の歩幅と合図の刻みを目で配り、鍵の癖を紙片に移した上で袖口へ忍ばせ、閉架封の縫い目には仮綴じの標を細く置き、読み台は脚の荷重を解いて天板下の錘を元段へ戻し、許可票の余白には夜半の時刻と無火無鈴の条件を極小で追記し、胸骨の針は名の輪郭を確かめる指先の圧に応じて鈍い光で静まり、庫裏の奥から漂う湯気の残り香は棚語の点線に沿って細く引かれ、銀の輪郭と朱の面には触れず、ただ呼吸の高さを半音落として空気の層を均し、影の往来が途切れたのを確認してから脚の裏で床の木目を撫で、今日という一連の操作が生活と記録の境へ小さな縫い目を残した手応えを骨で受け止め、扉の金具は一段固く閉じ、耳は庫裏の背面通路の遠点で生まれる微かな合図だけを拾える高さに据え直し、未返却の背番号の金属光沢は深くも浅くもならぬ中間の輝度で揺れ、私は冷えと温もりの釣り合いが崩れない姿勢のまま、夜の真ん中に置いた“返歌の返し”という約束へ向けて視線だけを送った。
廊の陰に沈んだ空気が一度だけ台所の匙を軽く弾くような乾いた音色を生み、閉架の裏側では幼い足音の拍が短く数えられ、壁の石目は墨色の滴をもう落とさず、棚の端では細い白がひと筆だけ走って欠けた半字の輪郭を仄かに縫い戻し、通気の網を渡る薄い笑いは湯気の癖と同じ高さで消え、視神経の隅には封を切らない白い封筒の光が輪郭だけで残り、名札の針は痛みを増やさず、ただ次の呼びかけに備えるよう脈の下で静かに重心を低く置き、返却カウンターの木が新しい重さをおとなしく受け入れ、庫裏の背面通路のさらに奥で見えない蝶番が眠気を帯びた短い呼吸をひとつ漏らし、ここで終わらせるという判断が今夜の続きのための最良の一時停止に過ぎないことを胸の裏で了解し、灯りは消えきらずに暗さへ細い道を残した。
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