返却カウンターは冥府にあります
灯野 しずく
第1話 延滞九十年
金属棚の縁が微かに縮み、その歪みが空気の膜を撓ませてから戻るまでの刹那に残業明けの図書館で幾度も耳にした閉架の呼吸を思い出し、白い箱の静寂に潜む目に見えない波が受領印の朱肉へ薄く触れては逃げ、棚番Λ‐13の札だけわずかに斜めを向いていることに気づき、癖のある針を胸骨の上からそっと押し込んで名前の輪郭が沈黙帯へ滑り落ちないよう留めながら、足首の紙片の裏に縫い込まれた貸出カードを指先で撫でると、羊皮紙の繊維が乾いた砂利のように硬く膨らみ、記された年月日の列が霧のように薄れかけ、その最下段に小さく押された“期限超過九十年”の朱が氷の下の火のようにくすぶって見え、延滞の熱は低温で燃えると教わった新人時代の講義が耳の奥に蘇り、冷却盤の表示が二度三度と波打つ動きを横目で捉えつつ、守橋が扉の外で金具を二回だけ叩いて合図を送った音が金属音特有の長い余韻を引いたのち薄闇に吸われ、七分、と数字だけが頭蓋の内側で赤く点灯し、私は暫定返本の箱を机の端から引き寄せ、封緘用の薄い紺の紙帯と、例外処理を示す銀色の丸い印を取り出し、貼る順番を間違えたときに起きる最悪の事態を一息に心の中で列挙してから、吸い込む空気の温度を一段下げて作業に入る準備を整えた。
台の上の身体は、二度と上がらない温度を確かめる必要がないほど冷えの層が均一で、しかし足首の紙紐だけが夜の湿度を飲み込んだ記憶を保持しているらしく、結び目の締まり具合にわずかな偏りが残り、その偏りこそが借り手の執着の重さを示す秤だと教えた老司書の皺だらけの手の感触を、今さらながら掌の内側で再現するかのように確かめ、カードの表の筆記は角の立った初学者の筆勢で始まりながら終筆が妙に弱く、裏面の備考欄には押印されたはずの受領記録の影が消えかけの擦過痕しか残っておらず、写しの混入を疑うべきと結論を置くまでに時間を使い過ぎたことを自覚しながら、まずは“抜き取り”を遅らせるための穏当な段取りへ進むしかないと腹を括り、鎮静語を喉の奥でひとつ転がし、言の葉の縫い目がほどけない速度で吐息に混ぜ、紙帯をタグの縁に沿わせるとき、細い繊維がひっかかって生じた微かな抵抗が指の腹へ警告の針のように刺さり、延滞が長い案件ほど言葉を嫌う習性があると報告書で読んだ記述と目の前の現実が静かに一致し、こういう一致は往々にして予兆の役を果たすのだと肝に念じて、印の面を朱肉に軽く触れさせてから銀の面を返し、例外条項の丸印を片隅に押す角度を決めかけた瞬間、冷却装置の内部で氷が割れるような硬い音が控えめに鳴り、気圧差が一段変わり、表層に眠っていた反応が目を開ける気配を漂わせ、蔵出しの前震が左の足先から順に這い上がるのを感じて、最初に止めるべき筋肉の場所と、次に抑えるべき呼吸の深さを同時に選び、手を止めずに頭だけを少し傾けて守橋の影へ合図を送り、万が一に備えた固定具と鎮静の準備を一拍のうちに整えてもらう段取りを、言葉にならないまま通路に響かせた。
受け口の暗がりから現れた長身の影は足音を床へ落とさない術を心得ていて、手に持つ金具の組みは光を反射しない黒布で巻かれ、決して驚かせないやり方で台の反対側に位置を取り、視線を一度だけこちらへ寄越し、その無言の問いに返す会釈の角度を細かく調整して、抜き取りではなく返本を優先、ただし棚へ通すのは暫定、という意思を網膜の微細な動きで伝え、理解の合図として彼の喉元の筋が一瞬だけ緊張したことを確認し、封緘紙帯の端を呼気に合わせて滑らせ、紙が紙へ重なる音が薄い雪のように冷たい室内に落ちた刹那、安置台の布が吸い上げていた冷気がふと軽くなり、皮膚の下に残る微弱な電流が表へ漏れ出す感覚が指先に触れ、肉体の所有者が返却に応じたくない意思を最後の力で示す合図として、指の関節が極小の角度で動いたのを見逃さず、守橋の手にある固定具が過剰に介入する前に、こちらの語彙で制御できる範囲の抵抗であると判断して、カードの隅へ銀の印を斜めに押し込み、受領を後回しにする代わりに棚の負荷を一時的に和らげる処置を発動し、書架通しの儀式へ進むためにΛ区画の鍵を引き抜き、溝の形に合わせて差し込むと、奥の方で見えない歯車が一つだけ遅れて回る音がしたかと思う間もなく、列柱の間に挟まれた背表紙の町並みが潮の満ち引きのように息をし、欠番の空白が二つ隣り合う地点に仄かな揺らぎが生じ、その揺らぎが第三の穴を招こうとする危うい吸引を示したため、時間を稼ぐ目的で別列の安全な資料から一冊だけ体重を移す“楔”の処理を考えたが、代償として個人の記憶が一つ剥がれ落ちる禁術しか即効性がないことを思い出し、母の声をすでに差し出してしまった胸の奥で空洞が鳴るのを無視しながら、どうにか別の手を、と探るうち、棚の奥から紙魚の擦れる乾いた音が続けざまに三度鳴り、密輸の合図と同じ瞬間にかち合った理解が背筋を冷やし、同時刻に別区画で抜き取りが行われていると判断して、暫定返本の封緘だけでは間に合わないと認め、通路の影に立つ自動筆記人形の綴へ視線を向け、規則違反の申請をひと息で通すための言い回しを選び、許可を得る代わりにどんな対価を払わされるかを頭の隅で想定しつつ、押し返す力に耐えながら紙帯の端を結び目で固めた。
綴は真珠色の瞳に文字列の細片を浮かべ、定められた形式でしか頷かない性質を持ちながら、非常時の例外条項に限り一拍遅れの許諾を与える癖があり、その癖が今日だけは早まってくれと願いながら、私は台の下に備え付けられた薄い箱から鉛の札を取り出し、背に刻まれたΛ‐13の刻印を指でなぞり、書架通しの狭い隙間へ差し込み、封緘紙帯で包んだカードをその上に載せ、返本路の滑りを良くするために少量の灯油に似た匂いの油を布で延ばし、手の甲で冷却盤の数値を確認し、七分の砂が半分ほど落ちた頃合いを見計らって、守橋へ視線の刃を投げて固定を緩める合図を出し、反発が最小になる瞬間を合わせて一気に“戻す側”へ力を流し、押し込んだ楔が背表紙の街道を滑って奥へ飲み込まれるのを見届け、受領印ではなく例外印の小さな銀の輪が荷重を肩代わりして棚の歪みを支える理屈が正しく働くよう祈るかわりに、目の前の手順を極端に正確に遂行することだけへ集中し、語句や呪の抑揚に誤差が出ないよう発声を均し、封緘の端をもう一度押さえたその瞬間、背後の遠い列の深部から乾いた拍手のように連打する音が走り、警報に変わる前の低い嗡鳴が耳の骨を震わせ、欠番が三つ並ぶと沈黙帯が立ち上がるという講義のボードに描かれた図解が現実の光景として通路の向こうに出現し、視界の端で背表紙の色が三箇所同時に抜け、そこだけ昼が落ちて夜が立ち上がるような暗さが円形に広がって、綴の口元の歯車が一段階早く回転し、禁術の許可票を予告なく押し出してくる仕草を掴み取るより前に、通気口の向こう側で紙魚の音がもう一度、今度は合図ではなく嘲笑に近い節で鳴り、誰かが同時刻に三件、禁帯出の写しにすり替えたとしか考えようのない状況が揃い、胸骨の下の針がわずかに鈍く痛み、針が留めている名前の輪郭が波に呑まれかけ、守橋が短く息を呑み、私は返却カウンターの上で滑らかな動きを保っていた手を止めずに、例外印の箱を閉じることなく、沈黙帯へ踏み込む準備を終えた目で、合図を必要としない種類の走り出しを選ぶしかないと悟った。
通路の温度がわずかに沈み、背表紙の街路から色が剥がれ落ちる輪郭が呼吸のたび広がるのを視野の端で測りながら、胸骨の針を指で押さえて名の輪郭が崩れないよう固定し、守橋の肩越しに届く油の微かな匂いと金具の冷たい手触りを合図に、綴が吐き出した許可票を紙魚の走りより早く掠め取り、罫線の数と活字の欠けで真偽を確かめつつ、受領印の蓋を閉じずに例外印の箱を開け放ったまま、沈黙帯の縁で言葉が摩耗しない速度に声帯の震えを調整し、名札針が折れる想定と回避の手順を頭の背面に並べ、視線だけで護衛へ“右側の暗がりから入る”と告げ、私は光が紙粉に変わる境目を踵で踏み、書架の影が生き物めいて絡みつく冷えの層に片足ずつ沈め、耳の骨が鳴る高さまで圧迫が増す前に呼称を一度だけ短く自分へ返し、輪郭の維持を確かめたのち、欠番の起点に差し込む楔として銀の小環を掲げ、背表紙と背表紙の間に生じた暗孔の縁を滑らせ、カードの封緘を外さず通せる幅を探ってから、綴が稼働率を上げた細い指先で描く無音の式に自分の手順を重ね、棚に残った記憶の負荷を少しずつ肩代わりさせるよう呼気を細く長く吐き、冷室のかすかな結露が胸元へ落ちる前に、円環の中心へ一気に体重を預けて通路の向こう側へ身を投じた。
暗さは闇ではなく“名の消音”であることを脳が理解するまでに数心拍を要し、その間に舌の上で味が抜け、指紋が輪郭を忘れかけ、綴の盤面で回る小さな歯車の律動だけが現実の座標を示す灯台の役を果たし、守橋の握る固定具が金属ではなく喉の奥から出る短い咳のような軋みを一度だけ発し、こちらの合図と一致する角度で沈黙帯の縁を抑え、私は欠番の中心に据えられた記銘プレートの釘穴からわずかに滲み出るインクの匂いを嗅ぎ分け、写しと本体の違いが“乾きの遅さ”に集約される理屈を思い出し、銀環の内側へ油膜ほどの声を滑らせて硬化の速度を測り、禁帯出の写しがここまで侵入している確率を指先の温度で割り出し、三つ並ぶ空白が互いを引き寄せ合う前に最も古い欠落へ楔の先端を差し込み、紙魚の嘲りを踏み潰す角度で手首を返し、貸出カードの裏面に潜ませた“暫定返本の糸”を一筋だけ引き出して背表紙の縫い目へ通し、文字が音を取り戻す瞬間にだけ生まれる微振動を耳孔の内側で捉え、綴の許可票へ受領印ではない銀の輪郭を擦り付け、規則の外周を歩く足取りで沈みゆく棚をひと拍だけ持ち上げ、その隙に隣接区画の二つ目へ滑り移り、同時刻に仕掛けられた置き換えの癖が揃いの筆圧であることを確認し、最後の円へ向き直った瞬間、胸骨の針が微かに震えて名の一部が抜けかけ、私は自分の肩を内側から掴むように呼称を短く呼び戻し、欠番の縁に浮いた薄い文字片を舌先で湿らせる仕草の代わりに肺の底から乾いた空気を押し上げ、輪郭を再定義してから三点目へ銀環を叩き込み、同時発火を狙った写本屋の等間隔を敢えて一度だけ乱し、崩落の周期を外した。
沈黙帯の表面に現れた微細なさざ波が後退し、通路の奥で綴の瞳に灯る活字の細片が一文字ずつ輪郭を取り戻し、守橋の靴底が床に触れる音が一度だけ許され、冷却盤の数値が粘るように下り、受領印の赤が蓋の内側で静かに呼吸し、三箇所の暗孔が完全に閉じるより一瞬早く紙魚の音が最後の悪あがきのように跳ね、私は追撃の必要を計算で否定しつつ、背中側の通路に新たな冷たさが立ち上がる兆しを肌が拾い、写本屋の同刻三件が囮である可能性を要注意に繰り上げ、銀環を懐へ戻しながら、綴の許可票へ規程外の欄外注記を細い字で添え、返本路の滑りを確保したまま、受領印を押さず例外印だけを残す処理を終え、針で固定した名の輪郭を一度だけ撫で、呼気の深さを元に戻し、通路の縁から静かに引き返す動作の途中で、棚のさらに奥、欠番の連鎖とは別の層でひとつだけ欠けた背表紙が脈打ち、そこに見覚えのない背番号が金属光沢を帯びて浮かび、Λ‐13とは別の小さな刻印が視神経に焼き付き、返却カウンター:0317、という反射のような文字列が脳裏を横切り、私は足裏の圧を落とさず、しかし確かに、次に踏み込むべき場所が自分の案件であると理解した。
背番号の冷たい煌めきが網膜の裏へ貼り付いたまま剥がれず、呼吸の間隔を乱さないよう胸郭の可動域を細く保ちつつ、指先の温度だけで現実側の位置を確かめ、返却台へ戻る最短の経路と、あの刻印へ直接触れた場合に起こりうる記名の剥落率を頭の奥の薄い盤面に並べ、守橋の横顔に走る小さな影の変化からこちらの視線が何を射抜いたかを察していることを読み取り、彼の喉仏が一度だけ上下したのを合図に、私は綴の前を通過する瞬間に許可票の端を指の腹でつまみ上げ、欄外注記の下へ極小の矢印を追加し、Λ‐13の担当区画からわずかに逸れる進路を形式上の誤差に偽装して棚の奥の冷えへ滑り込み、背表紙の街路が呼吸のたびに僅かに狭まり続ける圧を肩で受け流しながら、金属光沢の数字列が視神経の中央に来る直前で視線を半歩外し、直視せず輪郭だけで位置を固め、名札針の上からもう一度だけ軽く押圧して名の反響を確かめ、針が返答として骨へ微弱な痛みを返すのを受け止め、返却カウンター:0317、という配置がただの棚番号ではなく“欠番の登録票”である恐れを最優先として、触れる前に棚の空気を一度だけ嗅ぎ、そこに自分の生活圏でしか混じらない石鹸の香りと古い駅の階段の埃の湿りがわずかに混在していることを知り、前世で着ていた制服の布地が擦れる音が耳の奥に薄く蘇り、この案件は外からの救助ではなく内からの返却でなければ正しく閉じない種類だと腹のさらに奥で理解し、逃げ道の計算をすべて破棄して、銀環ではなく素手の指先で紙の背の縁を撫で、名を消音させる層の厚みを測り、針の角度を数度だけ変えて骨へ新しい固定点を刻み直し、呼称を極めて短く喉の奥で鳴らし、自分自身の貸出カードへ触れる覚悟が身体の末端まで届いたのを待ってから、指先をほんの少しだけ前へ滑らせた。
背表紙は逃げず、しかし喜びもせず、長く延滞された資料特有の乾いた反発を返し、指紋が輪郭を忘れるたびに骨の痛みで名が呼び戻され、紙の繊維が毛羽立つ手前の段差で動きを止め、封緘が施されているかどうかを判定するために光の角度を微調整し、綴の瞳に宿る活字の細片がこの距離でもなお読めることに安堵と焦燥の両方を覚え、守橋が通路の出口側で換気の羽根を一段落として冷えの層を厚くし、蔵出し反応の芽がこちらの背から立ち上がらないよう外側の波形を抑えてくれている手際に救われつつ、私は背番号の下へ指を差し入れる代わりに、棚の脈動と同じ速さで胸の中の空洞を膨らませ、母の声を失ったあの日の感覚が再生されかけた瞬間に別の記憶の縁が指へ触れ、駅の黄色い線の上で滑った靴底の冷たさと、封を切らなかった白い封筒の舌の乾きと、遅延放送の金属音の残響が一度に押し寄せ、これらが“私の返却しそびれた資料”の一部であると告げる内なる司書の声を黙って受け止め、受領印ではなく例外の銀を自分の心臓の裏側へ押し、規則の外周を歩く足どりのまま、0317の背へ向けてほんの少しだけ体重を移し、名札針の痛みと背表紙の反発が釣り合った一瞬、指先の皮膚が紙の厚みと同じだけ薄くなって内外の境界が重なり、そこへ“暫定返本の糸”を自分へ向かって通すという矛盾を、禁術の形式でなく職能の延長としてやり遂げる算段を、綴の歯車の速度と同期させながら組み立て、沈黙帯の残滓が足首の方へ降りていくまで息を止めた。
紙魚の乾いた語り口が遠のき、冷却盤の数値がほんの僅かに良い方へ傾き、通路の隅で受領印の蓋が風もないのにきわめて小さな角度で震え、印面の朱が液体に戻りかける気配を視界の端で追い、そのわずかな揺らぎを合図に、私は指先を二ミリだけ押し入れ、背の内側に隠されたカードの端に爪の腹を触れさせ、封緘の糊が乾いた羊皮紙特有の割れる音を立てる前に、喉の奥で短い鎮静語をひとつ溶かし、名が剥がれる兆候を針で押さえ込み、守橋の息継ぎがこちらの動作と揃った瞬間に、カードの角を一片だけ外へ引き出し、そこに記された貸出番号の最初の数字が自分の誕生日の並びと一致することに気づき、膝の裏が熱くなるのを握力の配分で誤魔化し、綴の許可票が予告なく差し出してくる代償欄に“音一片”と自ら記入し、母の声の残り滓ではなく、駅のブレーキ音の最初の半拍だけを対価として差し出すと決め、例外印の銀輪を紙片の角へ滑らせ、返却の手順を自分に向けて発動し、背表紙がごくわずかに軽くなるのを感じながら、私はこの棚の奥に眠っていた欠番の正体が、私の未返却であるという事実にようやく触れ、次の瞬間に訪れるだろう世界の揺れを、仕事の一部として受け止める準備を終えた。
銀輪が紙片の角を撫でた刹那、胸腔の裏で切り取られた半拍が静脈の奥へ吸い込まれて消え、代わりに通路の遠点で誰かが急停止するはずの金属擦過が欠けたまま無音に滑走し、欠番の背が吐き出した細い風が名札針へ真横から触れ、固定点の周囲に小さな疼きと鈍い光を生ませ、綴の歯車が一段速まりつつも回転音を抑え、許可票の端で揺れる活字列が“自己返本”の語をわずかに太らせ、守橋の手首の角度が護りの構えから引き寄せの支えへ移行し、冷却盤の数値が一息ごとに粘度の高い液体みたいに緩やかに降り、紙魚の住処だった陰影から細長い影法師が一本だけ伸び出し、銀輪の外周に沿って円を描く途中で躊躇なく指へ絡みつき、写しの侵食ではなく返す側に寄り添う種類の導線であると触感だけで断じた私は、封糊の裂け目からのぞく羊皮紙の地が古い駅の階段に積もった埃の色と一致していることに気づき、呼吸の高さを半音落として咽頭の奥で短い合図を鳴らし、爪の腹でカードをさらに一片だけ滑らせ、背表紙の縫い目が吐息の温度を覚えた瞬間に例外印の輪郭を裏面へ擦り付け、受領を遅らせたまま返本路へ送り込む角度に腕全体をゆっくり傾け、名の反響が骨の内側で一拍だけ遅れる違和感を針で押さえ込みつつ、Λ区画の道筋に沿って滑走を始めた私自身の記憶の車輪が、先ほど差し出した半拍の対価によって止まるべき地点で止まらない危険を孕んだまま進行している事実を読み取り、逸走の前に必ず現れる微かな熱の偏りを掌で探し当て、通路の角に埋め込まれた金具の冷たさを指先へ渡し替えることで軌道修正の支点に転用し、綴が提示した欄外の余白へ小さな針跡で“準受領”の記号を残し、背の奥から押し返す圧に抗いながらも押し切らず、名の消音が再び波立つ峰の手前で滑走をいったん緩め、守橋の喉から漏れかけた警告の呼気を目で遮り、通気口の向こうで僅かな笑いを含んだ紙魚の調子が再燃する前に、カード全体を背の外へ引き抜かず角だけを“外界”へ開示する態勢で固定し、欠番0317の金属光沢が視神経の縁で脈を打つのと同時に、返却カウンターの天板の下で見慣れない小さな錘が糸を伸ばして降り、写本屋の仕掛ける逆貸出の罠がこの瞬間にこそ作動する設計であると悟った私は、銀輪と針と息の三点で重力を騙す配分を組み替え、錘が印面に触れるより先に例外印の箱へ蓋を叩き付け、その衝撃をΛ‐13一帯の背表紙へ均して散らし、欠番の呼吸を抑え込みながら、カードの角に刻まれた貸出番号の末尾へ爪の先で触れて、ここにしかない私の偏りを最後の鍵として差し込み、世界が今度は正しい場所でわずかに止まるよう、仕事としての祈りを発動した。
祈りが作法として骨に沈み、返本路を滑る角の微かな震えが通路全体の空気を一段だけ澄ませ、綴の瞳に灯る活字の細片が行間を取り戻していく速度と冷却盤の数字の落ち幅が奇妙に同期し、守橋の掌が名札針に触れない距離でこちらの肩甲骨の内側へ温度だけを送り、天板の下で暴れようとした錘が蓋に弾かれて軌道を外れ、代わりに床目の狭い隙間へ吸い込まれて沈黙したことを足裏の皮膚が先に察知し、紙魚の笑い種が乾き切った紙屑のように軽く粉砕され、欠番0317の金属光沢が視神経の端で脈打つたびに背表紙の街路がひと筋ずつ明るみを帯び、カードの末尾に刻まれた私だけの癖字が鍵穴と嵌合した感触を爪の腹が確かな手応えとして返し、返却の駆動が正しい棚筋へ乗ったと確信した瞬間に胸腔の奥を行き来していた半拍の欠落が身体から切り離されて冥府側の路へ引かれ、ブレーキ音の最初の金属的な叫びがわずかに遅延した別の記録として棚のどこかに保存される未来を直感し、受領印の朱がようやく完全な液体へ戻る直前で例外印の輪郭だけをカードの影へ残し、押し切るでも放すでもない中間点で指を止め、滑走音が消えると同時に返却カウンターの上にほとんど無音の着地が起こり、紙の匂いと石鹸の残り香が交じった気配が胸骨の針へ柔らかな反射を返し、私は背筋を一度だけ伸ばして名の輪郭を点検し、綴の許可票へ微細な縦線で“処理一時保留”の符を入れ、封の糊が完全に乾く前の脆弱な数息を稼ぐため受領印の蓋へ指先を載せ、視線だけで守橋に「まだ動くな」と告げ、天板の陰でわずかに揺れる影の出どころを見極めるため周囲の空気の層を耳で撫でた。
返却路の奥で誰かが薄く微笑んだような気配と同時に棚のさらに奥の区画が一刹那だけ膨らみ、埋火のように残っていた沈黙の煤が吹かれて散り、安置台の上に横たわる遺体の足首から紙紐の結びがごく小さく鳴ってから静止し、Λ‐13全体を圧していた見えない荷重が肩から降りたのを確認した直後、通気口の網の向こうで別種の風が逆流し、禁帯出の匂いではない、もっと体温に近い生身の気配が薄い膜を破ろうとする揺らぎを生み、返却台の角に置いたカードの表面へ私の誕生日の並びに続く見慣れない符号が滲み出し、写本屋の癖ではなく冥府書庫自身の追記であることを活字の圧で読み取り、背番号0317の下に“次回、禁帯出の返歌”という墨色の細い行が浮かび、綴が規程にない行頭記号を一つだけ口に含んで歯を鳴らし、守橋の人差し指が空中で短く震え、私は受領印の赤を押す代わりに銀輪の箱へ指を差し入れ、世界が止まり過ぎないようにわずかな余白を残しつつ、第一話の棚を静かに閉じた。
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