第2話

 イースター……復活祭近くに体調を崩すのが常なあたしは、なるべく節制して過ごすことにしていた。盛り場にも週に一度しか行かず、お酒はちょっとだけ、なるべく早く寝る。日々の掃除洗濯料理で結構疲れることもあるから夜はぐっすり眠れたけれど、ドン、と言う音が礼拝堂から響いて来ると起きない訳には行かなかった。


 何、今の音。誰かが訪ねて来た? こんな夜更けに? ネグリジェ姿のまま十字架だけは握り締めて礼拝堂に向かうと、教壇に背中を付けてげほげほと噎せているフロウの姿があった。まだ司祭服を着ていて目立たないけれど、その咳に赤いものが混じっているのに気付くのと、侵入者に気付くのは同時で。


「『マリア』――あなたも懲りませんねえ」


 マリア? マリア様って、あのマリア様?


「『マリア』を渡せばそう苦しむことも無いと言うのに。何故私にそう逆らうのです? 穏便に、穏便に事を進めたい私の慈悲が分からないほど愚かではないでしょう」

「……」

「『マリア』」

「がっ」


 何かを叩きつけられたようにフロウの身体が震える。あたしはフードを被って顔を見せない男の方を見た。どこかで聞いたような声だったのは気のせいだろうか、今はそんな事どうでも良い。あたしは駆け出して、フロウとその男の前に立ちはだかっていた。


「ルイーサっ馬鹿、逃げろっ!」

「馬鹿じゃないもん! フロウ、なにこの人、何されてるの!? 全然分かんないんだけどっ!」

「おや『マリア』。出て来てくれたのですね、重畳、重畳」


 あたしも『マリア』って呼んだ? この人。でもフロウを傷付ける友人に心当たりはなくて、あたしは声を張り上げる。


「あたしはルイーサよ! ルイーサ・シャルロッテ! マリア様なんかじゃない!」

「そう思っているのですか。ははあ、まだ記憶が戻っていないらしい。そちらの『マリア』も含めて」

「ちっ」


 フロウは煩わしそうに首から掛けていたチェーンのクロスを外し――


 それを巨大化させて、あたしの前に立ちはだかった。

 え?

 なんでそれ、そんな巨大化するの?


 金のクロスの裏には読めない字が書かれている。多分ヘブライ語だろう。聖書に書いてあるのと同じだ。でもそんな事はどうでも良くて――あたしはいきなり放り込まれた不思議空間に、ぽかん、としているばかりだ。そしてフロウはまたあたしに怒鳴る。逃げろ。


「ここでない所ならこいつは力を奮えないだろう。一般人を巻き込むにはまだ早いはずだ。信徒の所に行け。ここからならレオンの家が一番近い」

「ちょ――そんな事いきなり言われてもっあたしも、あたしもなんかする! 椅子投げるぐらいなら出来るもん!」


 燭台の灯りが風で乏しくなっている、そんな中であたしは叫び返した。くすくす笑うフード姿の男は、不気味に見える。逃げるならフロウも一緒じゃなきゃ嫌だ、思いながらあたしは十字架を握りしめた。


 するとそれも、ぼんっと音を立てて巨大化する。

 え?

 なんで?


 きょとんっとしているあたしに、フードの男はいよいよおかしそうに笑って見せる。いやおかしいのはあんただよと突っ込みを入れたかったけれど、空気がそれを許さなかった。びりびりするものがあるのに気付いてしまったのだ、十字架を構えた瞬間に。どうして気付かなかったのか分からないほど、身体を締め付ける――空気。怖い。怖いけれど。

 でもフロウを置いて逃げるなんて出来ない。この不審者を相手にそんな事は出来ない。

 フロウもちょっと驚いていたけれど、苦々しい顔であたしを見つめるだけだった。


「この馬鹿……!」

「馬鹿じゃないもん! って言うかこれどうなってるの!? これであいつ倒せるの!?」

「知らねえよ俺のじゃねーんだから! って言うかお前は戦おうとしなくて良い! 逃げろって言ってるだろ、それ振りかざしてでも!」

「振りかざせばいいいのね?」

「へ? って、うわあっ」


 短い方を握って剣の要領でクロスを振りかざすと、そこにはきらきらしたものが集まって行くのが見えた。何だろう、でも悪い物じゃない。思ってあたしはそれをクロスに巻き付けるようにして、フード男の方に思いっきり振りかぶった。男は笑いを消して礼拝堂のドアから出て行く。追おうと思ったけれど、それはフロウに肩を掴まれることで制された。

 今は追い払えただけで十分、と言うことなのだろう。ぽんっといつもの大きさに戻ったお互いのクロスを見やってから、フロウは礼拝堂のドアを閉じ、鍵を掛ける。


「いいかルイーサ、良く聞け」

「な、なに」


 びくびくしてしまうと、フロウの銀色の目があたしを見つめて瞬いた。睫毛が長いから大げさに見える。


「俺もお前も、『マリア』の生まれ変わりだ」


 ……。

 額に手を当てたらべしっと払い落とされた。

 だって今、すっごい馬鹿なこと言われた気がしたんだもん。


「マリアって。あのマリア様?」

「厳密には違う。『聖母マリア』は俺で、お前は『マグダラのマリア』だ。俺達は神が進めたある計画を阻止するため。物質界にまた受肉した。そして十九年間、逃げて来た――」

「ある計画、って?」

「神はまた、箱舟を作る気なんだ」

「え?」

「自分を信じる人間のみを乗せ、天変地異で一度人を滅ぼそうとしている」

「ま……って、だって、ノアと約束したんじゃなかったの? もうそんなことはやらないって」

「そうも言っていられなくなったらしい。神は人間のこの先を演算して、救いようがないと思った。だったらまた箱舟で人類をリセットすれば良いと考え、勿論そこにはマリアも入れる予定だった」

「聖母……マリア?」

「そう。だがそのマリアがいなければ可愛い彼の子供であるヨシュアが納得しない。だから一緒に逃げた俺たちを探していたんだ、ずっと」

「そ……そんなの、信じられ……」

「なくても、それが現実なんだ。俺たちのクロスはヨシュアが物質界に向かう俺達に寄こしてくれた選別みたいなもので……この力で逃げ切ってくれと、託されたものだ。良いか、俺たちの一挙手一投足がこれからの人間の在り方を決める事になる。お前も精々今よりヨシュアを信仰しろ。信じる者は救われる」

「それって神様に……だよね?」

「天使もいるかもしれない」

「天使はあたしたちの味方なの?」

「それは分からない。さっきの奴はルシファーと名乗っていたが」

「堕天使じゃん!」

「そう。天に戻ることを引き換えに俺たちを探していたらしい」

「思いっきり敵……」

「ああ。だから明日からは、お前を鍛えてやる」

「へ?」

「人類の為だ、青春を犠牲にしろ」


 聖母とは思えない笑顔で、フロウは言った。

 あたしは情けなくも――

 事態に付いて行けず、気絶した。

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