第35話 逆鱗

 

 リナを指さしながら、ケイタが口を開く。


「さて。部外者立ち入り禁止の地下牢にいるんだ。てことは俺はあんたを好きにしていい。そういうことで良いんだよな?」


「ゆ、勇者殿! 待ってください。彼女はたまたま屋敷内で迷って、ここにきてしまっただけなのです」


 グランツがリナを庇おうとするが、クズ勇者に通じるわけがない。


「元領主のオッサン、勘違いすんな。俺が良い女を見つけた。だから俺のもんにする。それだけだ。とりあえずあんたがどこの誰が教えろ」


「私はこのお屋敷のメイドです。配属されたばかりで、グランツ様が仰るように、本当に迷ってしまい……」


 ダメもとで嘘をついてみる。


 グランツの言葉から、リナはこの黒髪の男が勇者であることを理解した。彼女は熾天使の能力を使い、ここまで侵入してきた。強いオーラを纏った勇者の居場所も把握した状態だったのだ。


 しかし目の前には勇者がいる。


 居場所を検知していたオーラはいつの間にか消えていて、目の前の男からはそれほど強いオーラは感じない。この勇者は自らの気配を完全に消す能力があるようだ。


「そうか。あんたはここのメイドなのか。そりゃあよかった」


「ど、どういうことでしょうか?」


「ここの主人との約束でな。主人の家族以外なら、俺が気に入った女を誰でも好きにしていいことになってんだよ」


「……低俗な男ですね」


 リナが隠していた短剣を構える。

 嘘で逃げようとするのを止めたのだ。


「おいおい。お前ほんとにただのメイドか? 俺に抱かれるのを拒んだ女もいるが、剣を向けてきたメイドはお前が初めてだ」


 丸腰状態で剣を向けられても勇者ケイタは一切動じない。


「強気な女の心を折るのも楽しそうだな」


「ご冗談を。あなたの妄想にお付き合いする気はありません」


 リナは表情を一切変えず剣を突き出した。


 彼女の突きは剣術の鍛錬を積んだ者の技を凌駕する。人の身では到達できない武の頂き。そんな攻撃を、熾天使であれば力を与えて支援すべき勇者に向けて放つ。


 それをケイタは最小限の動きで回避すると、動体視力の届かない速度でリナの懐に入り込み、突き出された短剣を持つ手首を掴んだ。


「なっ!?」


 リナの顔に初めて驚愕の色が浮かんだ。

 勇者の動きは彼女の理解を越えていた。


「驚くってことは、俺の動きが見えなかったんだろ? 普通のメイドじゃねーのは分かるが、この程度じゃ俺が武器を持つまでもねーな」


 ケイタは掴んだ手首を捻り上げ、リナの短剣を床に叩き落とした。金属音が静かな地下牢に響き渡る。


「うぐ」


 リナはすぐに体勢を立て直そうとするが、ケイタは彼女の細い腕をそのまま掴み、強引に自分の体に引き寄せた。


「そんな綺麗な顔で睨むなよ。あぁ、いい匂いだな。これは最高だ」


 ケイタはリナの肩に顔を埋めるように息を吐きかけ、下卑た笑いを浮かべる。その力は尋常ではない。リナは既に熾天使としての力を開放しているが、腕力だけでは逃げ出せなかった。


 彼女は魔法を得意とする天使であり、これだけ接近されていると本来の力を発揮できない。


「お前、かなり強いな。でも俺の敵じゃない」


「や、やめなさい。それ以上私の身体に触れれば、ただじゃ済ましませんよ」

 

 リナの拒絶の声にもケイタは止まらない。


「ただじゃ済まない? 触ったらどうなるってんだ? やってみても良いぜ」


 ケイタは腕を掴んだまま、もう一方の手でリナの華奢な腰に手を回す。リナは身をよじるが、まるで岩に掴まれているかのように少しも動けない。


 屈辱と怒りでリナの顔が歪んだ。


「……そうですか。では、お言葉通りに」


(あぁ、もう! お気に入りのメイド服で、これだけはやりたくなかったのに!)


 勇者の圧倒的な身体能力の前では、肉弾戦での抵抗が無意味だと悟っていた。だから彼女は、この状況を打破できる唯一の手段をとるのに躊躇わない。


 リナの身体から濃密な魔力が噴き出した。


 それは光を帯びたオーラとなり、地下牢の暗闇を照らす。


「おい、マジか」


 ケイタがわずかに表情を固めた。


 その瞬間、リナは掴まれた手首を無視して、全身の魔力を一点に集中させる。彼女の身体を中心に激しい爆裂魔法のエネルギーが収束していく。それは周囲の空間をも歪ませるほどの強大な力だった。


「ちっ。自爆はひとりでやれ──って、なんだこれ!?」


 掴んでいた手を離してケイタが高速でその場を離脱しようとしたが、彼の足には無数の木の根のようなものが絡みついていた。


「自爆なんてしませんよ。死ぬのは貴方だけです」


 極限まで高められたオーラをその場に残し、リナはグランツの元へ。短剣で牢の鉄格子を斬り裂き、彼を拘束していた鎖を素手で引きちぎる。


 そして自身とグランツを囲む球状の結界を展開した。


「衝撃に備えてください」

「え」


「お、おい。やめ──」ドォォンッ!!


 激しい爆音と光が地下牢を飲み込んだ。

 天井や壁が崩れ落ち、鉄格子が吹き飛ぶ。


 地下牢全体が激しく揺れ、凄まじい砂煙が立ち込めた。


 爆風の逃げ道が地下牢の出入り口しかなく、その付近にいたケイタはどこかへ吹き飛ばされていった。


 リナはグランツを連れて、吹き飛んだ天井の穴から一気に上階へと脱出する。


 結界に守られていても衝撃まで消すことは出来ない。結界の内側で全身を打撲し、脱出時に服も煤だらけになりながらもリナはグランツを引きずり、屋敷の廊下を全力で駆け抜ける。


「グランツ様、しっかり! 急いでこの場から離脱します!」


「な、なにが起きたんだ? 逃げるなら、私を置いていきなさい」 


「ダメです。あなたが捕まれば私の素性を知られます。そうなれば私の大切な──。とにかく一緒に逃げてください」


 グランツは混乱しながらもリナに必死についていく。


 破壊音を聞きつけて集まってきた警備兵を、リナは魔力で身体を強化して力任せに排除していった。


 詠唱などしている暇はない。

 少しでもから距離を取らなくては。


 リナの目には僅かな怯えが見えた。 


 そして屋敷の裏口にたどり着き、外へ飛び出した瞬間。


 ズンッ──という、背後から重く、ぞっとするような足音が響いた。


 リナは心臓が凍るのを感じた。


 あれほどの至近距離で爆裂魔法を受けたにも関わらず、すぐに追ってこられるなどありえない。


 彼女が恐る恐る振り返ると、そこには砂煙の中から姿を現した勇者ケイタが立っていた。彼の衣服は少し煤けているが、身体には目立った外傷はなく、まるで散歩でもしているかのような余裕綽々とした表情を浮かべている。


「ぜってぇ逃がさねーよ。お前は泣くまで犯す」


 ケイタは不満げに鼻を鳴らすと、舌なめずりをした。


(う、嘘でしょ!? 熾天使の私が本気で放った魔法を至近距離で受けたはずなのに……。あの男、いつも女神が召喚する勇者と格が違う!)


 リナの顔に明らかな焦燥と恐怖が滲んだ。この男は彼女の理解や常識を遥かに超えている。彼女はグランツを背に庇うように短剣を構え直す。


「こっちに来ないで! もし近づけば、さっき以上の威力で──」


 リナが警告の言葉を言い終えるより早くケイタの姿が消えた。


 地響きと共に、リナは激しい衝撃に襲われた。ケイタが一瞬で彼女に接近し、その身体を地面に叩きつけ押し倒したのだ。


「きゃぁ!」


 リナの背にケイタが足を乗せ、逃げられないように押さえつける。


「暴れるな。これ以上抵抗するなら背骨を折るぞ。一生歩けなくなっても良いなら抵抗を続けろ」


 痛みと恐怖でリナは身体が動かなくなった。


「いい眺めだ。さっきまでの気位の高いツラが、今は地面に張り付いて俺の足の下。最高じゃねぇか。とりあえずお前は一生俺の──」


 言葉の途中でケイタは自身の手が震えているのに気付いた。


 その震えは次第に大きくなる。

 勇者の力が警告を発していたのだ。


 今すぐこの場から逃げろ──と。


「な、なんだこれ? なんなんだよ!?」


 この場を離れた方が良い気がした。しかし異世界転移で最強の力を得た自分が、いったい何から逃げるのか。何を恐れるのか。いや、何も恐れなくて良い。この世界の主人公は、自分なのだから。


 そんな勘違いが、この場にケイタを留まらせる。

 

 彼はまだ知らない。


 絶対に敵対してはならない覇者がこの街に来ていたことを。自身が眠れる竜の逆鱗を撫でるどころか土足で踏み躙り、その上で愉快にタップダンスを踊るに等しい暴挙を働いていることを。

 

 

 

 

「ねぇ。僕のリナに、なにしてるの?」

 

 

 

 静かな怒りに満ちた声が響き渡る。

 

 それは鈴を転がすように美しく、けれど絶対零度の冷気を孕んでいた。

 

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