第2話 欲望の街 前編
あの夜から一週間。
木村美咲は再び「星の回廊」を訪れていた。
やつれた表情はまだ完全には晴れないが、その目の奥には、わずかな不安とともに前を向く強さが宿っていた。
「詩歩先生…本当にありがとうございました。先生に会えていなければ、私は今頃…」
深く頭を下げる美咲。こみ上げる涙は感謝のしるしだった。
詩歩はゆっくりと首を振り、穏やかに答えた。
「星は未来を決めつけるものじゃない。ただ兆しを示すだけ。未来を変えたのは、あなた自身の選択よ」
美咲は涙を拭き、小さな紙袋を差し出した。
「これは代金です。少ないですけど…」
「言ったはずよ。初めての人からは、いただかないって」
詩歩は紙袋を受け取らず、続けた。
「新しい生活には資金が必要よ。それに充てて」
美咲は少し黙った後、首から小さな銀のネックレスを外した。
「これは夫から最初にもらったものです。あんなことがあっても、外せなかった。ずっと“愛の証”だと信じてきたから……。でも今は気づいたんです。これはただの鎖。私を過去に縛る鎖だと」
彼女はネックレスを掌にのせ、詩歩に差し出した。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「そう…それならいただくわ」
詩歩はネックレスを受け取り、星座盤の上にそっと置いた。
すると、水晶の光が淡く反射し、盤上の星々が揺らめいて新しい線を描き始めた。
「…ほら。あなたの未来は、もう変わり始めている」
その瞬間、窓辺のカーテンが揺れ、黒い影がふっと現れた。
深い青い瞳の黒い猫――アルタイルだ。
アルタイルは音もなく歩み寄り、ネックレスを咥えると、美咲を見上げた。
まるで新しい門出を祝うように尾をひと振りし、ランプの影に吸い込まれるように姿を消した。
美咲はその光景を見届け、清々しい表情で言った。
「…私の過去は、星が消し去ってくれたんですね」
詩歩は微笑み、うなずいた。
「ええ。あなたはもう、新しい道を歩き始めている」
深く息を吸い、一礼した美咲は背筋を伸ばし、扉を出て行った。
その背中には、“自分を守る強さ”がしっかりと刻まれていた。
――美咲が去った後、静けさを取り戻した「星の回廊」に、再び扉を叩く音が響いた。
「…どうぞ」
入ってきたのは北十字慎吾だった。
ラフなジャケット姿に疲れを滲ませた表情。だが瞳は鋭く、何かを抱え込んでいるようだった。
「今出て行ったのは、この前の……」
星座盤を前に座っていた詩歩は黙ってうなずいた。
慎吾はそれ以上問わず、椅子を引いて詩歩の正面に腰を下ろした。
「相談がある」
低い声で切り出すと、慎吾は続けた。
「クスリを追っていたら、妙な連中に行き当たった。“投資詐欺グループ”だ。クスリ代を稼がせると言って甘い言葉で投資を煽り、儲かるどころか借金地獄に落とす。調べていくと、クスリには関係のない一般人、店主や主婦、学生まで被害に遭っている。少し嗅ぎまわったが、俺一人じゃ限界だ。…占い師、あんたに星読みを頼みたい」
詩歩は黙って星座盤に視線を落とし、水晶に手をかざした。
盤上の水瓶座が揺らめき、冥王星が不吉に重なっていく。
「…これは“組織的な破滅の兆し”。放っておけば、さらに多くの人が罠に落ちるわ」
慎吾はうなずき、詩歩を真っ直ぐに見つめた。
「どうだ、力になってくれるか?」
詩歩は水晶を胸に抱き、静かに答えた。
「星が導いている。断る理由はないわ」
その言葉に、慎吾は小さく息を吐き、わずかに笑みを浮かべた。
――翌日。
慎吾は被害に遭った人々を次々に詩歩のもとへ連れてきた。
居酒屋を営んでいた男は肩を落としながら語った。
「最初は五万円だけって言われたんです。それがすぐ十万円になって戻ってきて…倍ですよ! 信じてしまったんです」
今では数千万円の借金を抱え、店を閉じざるを得なくなったという。
シングルマザーの女性は膝に手を置き、震えながらハンカチを握りしめた。
「子どもの学費を作ろうと思って…“三か月で倍になる”って言葉にすがってしまったんです。でも全部取られて。子どもの高校進学はもう無理…」
大学生の青年は真っ赤な目で訴えた。
「最初の利益を見せられて信用しました。奨学金まで投資に回して…気づいたらゼロどころか莫大な借金だけ残って…親には言えないし…」
どの顔も疲れ果て、希望を失い、重い足を引きずるように部屋から出て行った。
詩歩は一人ひとりの生年月日を聞き、星座盤に星を並べた。
冥王星と金星の不吉な交差、火星と土星の衝突…。
皆同じ、“裏切りと破滅”の配置が浮かび上がる。
「…星は確かに欺かれる未来を示していた。でも同時に、“再生”の光も見える。今ならまだ、失ったものを取り戻す道は残されている」
詐欺グループの手口は典型的な“ポンジ・スキーム”だった。
「最初に儲かったと見せかけて、さらに大金をつぎ込ませる。後から入った者の金を回しているだけだ」
慎吾は悔しさを滲ませて詩歩に説明した。
街頭やSNSでターゲットを集め、セミナーや“資産運用塾”を名乗って人を惹きつける。
少額で始めさせ、最初は必ず利益を渡す。それが信頼を作り、やがては全財産を奪う。
「しかも厄介なのは、自分の意思で投資した形にされることだ。警察に通報しても取り合ってもらえない。泣き寝入りさせられてるんだ」
さらに、返金を求めた者には“始末屋”が現れ、脅しや暴力で二度と声を上げさせない。
背後には“ある大きな組織”の影が見え隠れしている――と慎吾は唸った。
「でな…」
慎吾はスマホの画面を詩歩に向けた。
“特別投資セミナーのご案内”と表示されたスクリーンショット。
「一週間後、連中が大きなセミナーを開くらしい。ターゲットは資産家や経営者、そして一度でも投資をした経験がある人間。利益が出ていない者には“逆転のチャンス”を謳っている。実際には数億単位を吸い上げ、一気にバックレるつもりだ」
詩歩は眉を寄せ、水晶を握りしめた。
「俺たちも潜り込む」
慎吾のまっすぐな瞳に、詩歩は水晶を胸に当て、静かにうなずいた。
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