星を歩く人 ―星の回廊の詩歩―
山川 いろは
第1話 星の回廊
トントン。
扉を叩く音がした。
東京・新宿の裏通り。繁華街が近く、夜十時を過ぎても人通りは絶えない。
だがそこからさらに一歩、ビルとビルの狭間にある細い路地へ入ると、街灯の光も乏しく、街の喧噪から切り離された空間が薄暗い闇に沈んでいる。
小さな占いのアトリエ「星の回廊」は、その奥にひっそりと佇んでいた。
看板はなく、古びた木の扉の上にランプがひとつ灯っているだけ。
だが迷い込むようにここを訪れる者は、皆、心の奥に深い影を抱えていた。
再び、扉を叩く音。
「……どうぞ」
扉の隙間から入ってきたのは三十代前半の女性だった。やつれた顔に、落ち着かない視線。
「詩歩(しほ)先生ですよね……。私、木村美咲と申します。夫のことで、助けていただきたいんです」
促されて椅子に座るなり、美咲はすがるように言った。
美咲の話によれば、サラリーマンの夫が最近急に冷たくなり、会社帰りに誰かと会っているらしい。
財布から消える現金、深夜の帰宅、一時も手放さないスマホ。
「でも、問い詰める勇気がなくて……。私が疑い深いだけかもしれない。けど、このままでは壊れてしまいそうで」
詩歩は静かにうなずき、机の上の星座盤に手を伸ばした。
美咲と夫の生年月日を重ね合わせ、星を結んでいく。
盤上に浮かび上がったのは、火星と冥王星の凶角。さらに金星と土星がいびつに交差し、「裏切り」と「破滅」を示していた。
「…残念だけれど、彼はすでに誰かと心を通わせている。しかもそれだけじゃない。星は“あなたのいない未来”を示しているわ」
「どういう意味ですか? 近いうちに私が死ぬということ!?」
美咲の肩が震える。
詩歩は冷静に言葉を重ねた。
「明日のことは誰にもわからない。
ただ、私は信じているの。星の力で未来は変えられると」
「…帰ります! いくら払えばいいですか」
欲しい言葉…安心する言葉を得られなかった美咲は、パニックに陥りながら立ち上がり、バッグから財布を取り出そうとした。
だが手は震え、涙で視界も歪み、指先がおぼつかない。
「初めての人からはお金はいただかないの」
尚もバッグをかき回す美咲に、詩歩は穏やかに続けた。
「星はもうひとつ示しているの。
あなたが“自分を守る強さ”を手にする時が近い、ということ」
「え…」
手を止め、目を上げた美咲に詩歩は微笑みかけた。
「今週の木曜日、午後十時にもう一度ここへ来なさい。星が、真実を照らすでしょう」
バッグを開いたまま、力無くうなずいた美咲は、深く頭を下げて扉へ向かった。
扉が閉まると同時に、窓辺のカーテンが揺れ、黒い影がよぎる。
ふっと姿を現したのは、一匹の猫だった。
毛色は漆黒に星をちりばめたような白い斑点、瞳は夜空と同じ深い青。
「…アルタイル。また厄介なことになりそうね」
詩歩がつぶやくと、猫は長い尻尾をゆらりと振り、まるでうなずいたかのように消えていった。
木曜日、午後十時。
美咲は約束の時間通りに、再び「星の回廊」を訪れた。
「行きましょう」
部屋に入るなり、外出着の詩歩に促され、そのまま外へ出た。
二人が向かったのは歌舞伎町。
賑やかな人混みを縫い、早足で歩く詩歩の背を美咲は必死に追いかけた。
やがて詩歩は引き込まれるように一つのビルへ入った。
慌てて美咲も続き、狭いエレベーターに乗り込むと、詩歩は無言で七階のボタンを押した。
黙ったままの彼女の横顔を、美咲は不安そうに見つめる。
エレベーターが開くと、目の前にバーの扉があった。
詩歩はそこで美咲を振り返り、静かに告げる。
「星が示したのは、この場所よ」
扉を開けると、薄暗い店内にジャズの音色が静かに流れている。
カウンターには数人の客。
奥のボックス席には――美咲の夫が若い女と肩を寄せ合って座っていた。
女は真っ赤なルージュを引き、夫の耳元に顔を寄せて笑っている。
美咲の顔が蒼白になった。
「…やっぱり…本当に…」
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえる。
バーテンダーに案内され、二人は入口近くのボックス席に腰を下ろしたが、夫はまったく気づかない。
うなだれて肩を震わせる美咲の横で、詩歩は瞬きもせずに奥のボックス席を見つめていた。
やがて、夫は周囲をうかがいながら、懐から小さな透明の袋を取り出した。
白い粉末が入っている。
「これさえあれば簡単だ。飲み物に混ぜれば一瞬で終わる。
…保険金も、がっちりいただきさ。うまくやるよ」
その時、カウンターの端から低い声が響いた。
「…それ、俺にも分けてくれないか」
黒いコートを羽織った男が椅子を引き、ゆっくり立ち上がった。
鋭い眼差しが夫を射抜く。
慌てて袋を懐に戻して男を睨みつける夫。
「なんだよ、お前は」
「俺は警察の関係者だ。ここで違法薬物の取引が行われているって情報を得て、この店を張っていたんだが…胸クソ悪い話を聞いちまったな」
夫の顔色が一気に変わる。
「ば、ばかばかしい! なんだよ!警察の関係者って…笑わせるな。 出よう」
動揺を隠せず、夫は若い女の手を引き、席を立って出口へ向かった。
だが、ドアノブに手をかけたその腕を、細い手が引き留めた。
横を見ると、そこに詩歩が立っていた。
背後のボックス席には、声を押し殺して泣きじゃくる美咲の姿がある。
「美咲…お前…」
詩歩は手のひらに水晶を取り、掲げた。
青白い光が広がり、バーの壁に星座の模様が浮かび上がる。
赤く光る火星と冥王星――“破滅”の象徴。
「星はあなたを許さない。あなたの罪は暴かれた」
その時、どこからともなく一匹の猫が現れた。
しなやかな黒い体に、まるで星を散らしたような斑点。
ニャーと鳴くと、その瞳が青く輝いた。
その輝きに誘われるように、夫は抑えきれず叫んでいた。
「妻を始末して、保険金をせしめるんだよ!
俺はこの女と幸せになるんだ!」
夫は青ざめて口を押さえた。
自分の意思ではないのに吐き出してしまったことに困惑し、震えていた。
美咲は泣き崩れ、詩歩がそっと肩を抱き寄せる。
猫はいつの間にか姿を消していた。
黒いコートの男が素早く夫を押さえ込み、バーテンダーに怒鳴った。
「警察に通報しろ! 今すぐだ!」
ビルの外。
警察に夫を引き渡した後、詩歩と美咲は冷たい路上に立っていた。
「…先生、本当にありがとうございました」
美咲は涙ながらに深く頭を下げ、タクシーに乗った。
残された詩歩の横に、黒いコートの男が立った。
「あれはマジックかい?それとも魔法でも使ったのか?
俺はクスリ(違法薬物)を追っていただけだったが…まさかこんな場面に出くわすとはな」
詩歩は水晶を胸に抱き、微笑んだ。
「あなたは何者なの?警察の関係者って」
「俺は元刑事だ。あるでかい事件(ヤマ)を追っていたんだが、まんまとはめられてクビになっちまって…今は当時の警察仲間のお手伝いをね。
あんたは何なんだい?」
「私は星読み師。星は人を導くもの。あなたとの出会いも必然だったのでしょう」
詩歩の言葉に、男は右手を差し出して、名前を告げた。
「俺は北十字。北十字慎吾(きたじゅうじ・しんご)」
「私は詩歩」
二人は握手を交わす。
慎吾は肩をすくめ、口元をほころばせた。
「星を歩く人と、地べたを這い回る俺…悪くない組み合わせかもな」
「星は出会いを選ばない。ただ、必要な時に必要な縁を結ぶだけ」
詩歩の言葉に、慎吾は黙ってうなずいた。
ビルの隙間から覗く夜空には、赤いベテルギウスと白いシリウスが並んで輝いていた。
――それが、二人の“最初の事件”の始まりだった。
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