第5話「零階病院で目覚める患者は誰だ」



## I. 発見


佐古田玲央が零階病院を発見したのは、零階に留まって二十三日目のことだった。


七月二十五日。


佐古田は、もはや時間の感覚を失いかけていた。零階電話局の隅で眠り、目覚め、また眠る。食事は——考えないようにしていた。空腹を感じなくなっていた。


この日、佐古田はふと、電話局の奥に新しい扉があることに気づいた。


「……こんな扉、昨日まではなかった」


佐古田は、扉に近づく。


白い扉。病院の扉のような、清潔な印象。


扉の上部には、赤十字のマークと文字があった。


《零階病院》


佐古田は、扉を開けた。


---


## II. 患者


白い廊下が続いていた。


消毒液の匂い。かすかに聞こえる、機械音。


佐古田は、廊下を進む。


病室が、並んでいる。


最初の病室を覗く——空だ。


次の病室も、空。


三つ目の病室も——


「……誰もいない?」


だが、最奥の病室だけ、扉が閉まっていた。


佐古田は、ドアノブに手をかける。


ゆっくりと、開ける。


そして——


「……え?」


ベッドに、一人の患者が横たわっていた。


点滴が繋がれている。心電図が、規則的な音を刻んでいる。


生きている。


佐古田は、患者の顔を見る。


そして——血の気が引いた。


「……羽佐間、さん……?」


ベッドに横たわっているのは、羽佐間健吾だった。


佐古田の同僚。第1話で死んだはずの、あの羽佐間。


「なんで……!?」


佐古田は、羽佐間の手を握る。温かい。


心電図は、確かに心拍を示している。


「生きてる……でも、羽佐間さんは死んだはずじゃ……」


その時——


背後から声がした。


「——やはり、始まりましたか」


佐古田は振り返る。


九条が、立っていた。


---


## III. 矛盾


「九条さん……!」


佐古田は、九条に詰め寄る。


「どういうことですか!? 羽佐間さんは死んだはずでは!?」


九条は、ベッドの羽佐間を見つめる。


「……死にました。確かに」


「でも、ここに——」


「ええ。生きています」


九条は、静かに説明する。


「零階の死体は、"確定した未来"です。しかし——」


九条は、佐古田を見る。


「——死体がここに現れた後、本人が"理解を拒否"すれば……」


佐古田は、息を呑む。


「まさか……」


「——死体と本人が、同時に存在する」


佐古田は、混乱する。


「そんな……それは矛盾じゃないですか!?」


九条は頷く。


「ええ。矛盾です。そして——」


九条は、病室の窓を見る。窓の外で、零階全体が揺らいでいた。


「——世界は、矛盾を許容しません」


---


## IV. 崩壊の始まり


その瞬間——


零階全体が、激しく揺れた。


佐古田は、壁に手をつく。


「地震!?」


「違います」


九条は、冷静に答える。


「零階が——崩壊を始めています」


廊下から、轟音が響く。


佐古田と九条は、廊下に出る。


零階図書室の方向から、本が降り注いでいた。


本棚が倒れ、本がページを開きながら舞い散る。


ページが、勝手にめくれる。


文字が、溶け出す。


「何が……起こってるんですか……!?」


九条は、図書室を見つめる。


「矛盾が、拡大しています。羽佐間さんの存在が、世界の整合性を破壊している」


「じゃあ……どうすれば!?」


九条は答えない。


ただ——病室の方を見る。


「……彼が、目覚めれば」


---


## V. 覚醒


病室に戻ると——


羽佐間が、目を開けていた。


「……ここは?」


羽佐間は、ゆっくりと身体を起こす。


佐古田は、駆け寄る。


「羽佐間さん!?」


羽佐間は、佐古田を見る。


「……あなたは?」


佐古田は、言葉を失う。


「え……俺ですよ、佐古田……」


羽佐間は、首を傾げる。


「佐古田……?すみません、記憶が……」


九条が、羽佐間に近づく。


「あなたは、羽佐間健吾さんですか?」


羽佐間は、考え込む。


「……羽佐間、健吾。ええ、そうです。でも——」


羽佐間は、自分の手を見る。


「——私は、何をしていたんでしょう?」


九条は、静かに尋ねる。


「あなたが最後に覚えていることは?」


羽佐間は、額に手を当てる。


「……図書館で、働いていた。それから——」


羽佐間は、苦しそうに頭を抱える。


「——誰かを、守ろうとした……?いや、違う……」


羽佐間の記憶が、混濁する。


「私は……死んだ?いや、生きている?」


---


## VI. 二つの記憶


羽佐間は、ベッドから降りる。


「私には、二つの記憶があります」


羽佐間は、九条を見る。


「一つは——私が、誰かを守るために死を選んだという記憶」


「もう一つは?」


「——私が、それを拒否して、ここに来たという記憶」


九条は、深く息をつく。


「……やはり」


佐古田が尋ねる。


「どういうことですか?」


九条は、説明する。


「羽佐間さんは、零階図書室で自分の死を理解しました。しかし——」


九条は、羽佐間を見る。


「——あなたの一部は、それを拒否した」


羽佐間は、混乱した表情で言う。


「拒否……?」


「ええ。あなたの意識の一部が、"死にたくない"と叫んだ。その声が——ここに、あなたを生み出した」


佐古田は、信じられないという表情で言う。


「じゃあ……羽佐間さんは、二人いるんですか?」


九条は頷く。


「死んだ羽佐間さんと、生きている羽佐間さん。両方が——同時に存在しています」


---


## VII. 世界の修正


再び、零階が揺れる。


今度は、さらに激しい。


廊下の壁に、亀裂が走る。


天井から、破片が落ちる。


「崩壊が加速しています」


九条が告げる。


「世界は、矛盾を修正しようとしています」


羽佐間は、窓の外を見る。


零階図書室で、本が燃えていた。


「……私のせいで?」


九条は答えない。


佐古田が叫ぶ。


「どうすればいいんですか!?」


九条は、羽佐間を見つめる。


「羽佐間さん。あなたは、選ばなければなりません」


「選ぶ……?」


「生きるか、死ぬか」


羽佐間は、震える。


「私が——死ねば、止まるんですか?」


九条は、静かに頷く。


「あなたが、自らの矛盾を解消すれば——世界は、元に戻ります」


---


## VIII. 選択


羽佐間は、長い沈黙の後、言った。


「……私は、生きたい」


九条は、目を閉じる。


「そうですか」


羽佐間は続ける。


「でも——私が生きることで、世界が壊れるなら……」


羽佐間は、自分の手を見つめる。


「……私は、何のために生きているんでしょう」


佐古田が、羽佐間の肩を掴む。


「羽佐間さん……!」


羽佐間は、佐古田を見る。


「佐古田さん。私は——あなたを、知っていますか?」


佐古田は、涙を浮かべる。


「……知ってますよ。俺たち、同僚じゃないですか」


羽佐間は、微笑む。


「そうですか。なら——」


羽佐間は、病室の外を見る。


「——私が消えても、覚えていてください」


---


## IX. 消失


羽佐間は、ベッドに横たわった。


「九条さん」


「何ですか」


「私が——最初に守ろうとしたのは、誰だったんでしょう」


九条は、答えない。


羽佐間は、目を閉じる。


「……思い出せません。でも——」


羽佐間の声が、小さくなる。


「——大切な人だった気がします」


心電図の音が、遅くなる。


佐古田は、羽佐間の手を握る。


「羽佐間さん……!」


羽佐間は、最後に微笑んだ。


「……さようなら」


心電図が、フラットになる。


羽佐間の身体が——光に包まれる。


そして——


消えた。


---


## X. 修正


零階の揺れが、止まった。


崩れた本棚が、元に戻る。


燃えた本が、再生される。


亀裂が入った壁が、修復される。


すべてが、元通りになった。


佐古田は、空になったベッドを見つめる。


「……羽佐間さん」


九条は、静かに言う。


「世界は、修正されました」


「でも……羽佐間さんは……」


「彼は、もう存在しません。死んだ羽佐間さんも、生きていた羽佐間さんも——両方とも、消えました」


佐古田は、膝をつく。


「そんな……」


九条は、病室を出る。


佐古田は、九条を追う。


「待ってください!これでいいんですか!?」


九条は、振り返らない。


「良くはありません。しかし——必要でした」


---


## XI. 記録


九条は、零階図書室に戻った。


椿が、そこにいた。


「九条さん……大丈夫でしたか?」


九条は、頷く。


「ええ。世界は、元に戻りました」


椿は、本棚を見る。


「……羽佐間さんの本は?」


九条は、棚を探す。


《2026年6月29日:羽佐間健吾 死亡報告書》


本は、まだそこにあった。


だが——ページを開くと、文字が消えていた。


真っ白なページ。


「……記録が、消えています」


椿が驚く。


「消えた?」


「ええ。羽佐間さんは——世界から、完全に消去されました」


九条は、本を閉じる。


「存在しなかったことに、なりました」


椿は、悲しそうに言う。


「……それが、矛盾の代償」


九条は、頷く。


「ええ」


---


## XII. 残響


佐古田は、零階電話局に戻った。


相変わらず、電話は鳴り続けている。


佐古田は、自分の電話ボックスの前に座る。


「……羽佐間さん」


佐古田は、記憶を辿る。


羽佐間の顔。羽佐間の声。


だが——どこか曖昧だ。


「……あれ?」


佐古田は、混乱する。


羽佐間は、本当に存在したのか?


それとも——


「俺の、記憶……?」


佐古田の記憶から、羽佐間が薄れていく。


---


## XIII. 終幕


零階図書室。


九条は、新しい本が追加されたことに気づく。


《2026年8月1日:零階崩壊予測報告書》


九条は、本を手に取る。


だが——開かない。


「……まだ、続くのか」


椿が、九条の隣に立つ。


「どうしたんですか?」


九条は、本を棚に戻す。


「……何でもありません」


だが、九条の表情は——不安に満ちていた。


零階は、まだ安定していない。


矛盾は、また起こる。


そして——次は、もっと大きな崩壊が来る。


九条は、それを感じていた。


---


零階病院。


そこは、矛盾を生み出した者が、消える場所。


存在することと、存在しないこと。


その境界が——今、揺らぎ始めている。


---


第5話 終


---


## 次回予告【最終話】


《零階は誰が記録しているのか》


「——やっと、来てくれたんですね」


零階の最深部に、一人の少女がいた。


「私は、世界で最初に"未来を見た人間"です」


すべての謎が、明らかになる。


そして——三人は、選択を迫られる。


零階を壊すか。守るか。それとも——


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