第4話「零階劇場で上演されるのは誰の物語か」



## I. 回想


これは、九条透がまだ"人間"だった頃の話。


七年前。


九条透、二十六歳。当時、彼は国立図書館の一般職員に過ぎなかった。


そして——彼には、恋人がいた。


椿。


本名は、如月椿。二十四歳。小学校教師。優しく、誰からも愛される女性だった。


二人は、図書館で出会った。


椿が子供たちのために絵本を探しているとき、九条が手伝ったのがきっかけだった。


「ありがとうございます」


椿の笑顔を見た瞬間、九条は恋に落ちた。


それから二年。二人は、結婚を考え始めていた。


だが——


すべては、あの日から変わった。


---


## II. 死体


五月十五日。


九条は、初めて零階に降りた。


上司からの命令だった。


「九条、地下に不審な空間がある。調査してくれ」


九条は、何の疑問も持たずに階段を降りた。


そして——零階図書室を発見した。


当時、零階はまだ組織的に管理されていなかった。九条が、最初の調査員だった。


九条は、本棚の間を歩いた。


無数の本。すべてに、未来の日付が記されている。


「……これは、何だ?」


九条が一冊の本を手に取ろうとした時——


床に、それがあった。


白いシーツに覆われた、人の形。


九条は、シーツをめくった。


そして——息を呑んだ。


「……椿?」


そこに横たわっていたのは、椿だった。


顔色は青白い。呼吸はない。だが、腐敗もない。


九条は、椿の頬に触れる。冷たい。


「なんで……椿が、ここに……!?」


九条は混乱する。だが、椿は今朝、普通に出勤したはずだ。


携帯電話を取り出す。椿に電話をかける。


数回のコール音の後——


『もしもし?透くん?』


椿の声だった。


「椿……!?お前、今どこにいる!?」


『え?学校だけど……どうしたの?』


九条は、目の前の死体を見る。


確かに、椿だ。


だが——椿は、生きている。


「……何も。ごめん、間違いだった」


九条は電話を切る。


そして——死体の横に置かれた本に気づく。


《2019年5月18日:如月椿 死亡報告書》


九条の手が、震えた。


---


## III. 劇場


九条は、三日間、眠れなかった。


椿の死体が、頭から離れない。


五月十八日——あと三日後。


椿は、死ぬ。


九条は、何度も自分に問いかけた。


「あれは、本当に椿なのか?」


「未来の、椿?」


「なら——俺は、何をすればいい?」


五月十七日。


九条は、再び零階に降りた。


椿の死体は、まだそこにあった。


九条は、死体の横の本を手に取る。


《2019年5月18日:如月椿 死亡報告書》


開こうとする——が、躊躇する。


「……読めば、未来がわかる」


だが——読めば、何が起こる?


九条が迷っている時、背後から声がした。


「——読まないほうがいい」


九条は振り返る。


そこには、白髪の老人が立っていた。後に九条の師となる、前任の管理官だった。


「あなたは……?」


「私は、ここの管理人だ。そして——君に忠告する」


老人は、本を指差す。


「その本を読めば、未来を知る。だが、知ることは——確定することだ」


「確定……?」


「未来は、観測されることで定まる。読まなければ、まだ変わる可能性がある」


九条は、本を握りしめる。


「でも——このまま何もしなければ、椿は死ぬ!」


老人は、静かに首を横に振る。


「君が介入すれば、もっと悪いことが起こる」


「なぜわかる!?」


「——私も、同じことをしたからだ」


老人は、零階の奥を指差す。


「ついて来なさい」


---


## IV. 舞台


老人に導かれ、九条は零階の最奥へと進んだ。


そこには——劇場があった。


赤いカーテン。客席。そして、舞台。


「これは……」


「零階劇場。ここでは、未来の出来事が"演劇"として上演される」


老人は、舞台を指差す。


「見なさい」


舞台の上で、照明が点く。


そして——演劇が始まった。


舞台の上には、椿がいた。


彼女は、横断歩道を渡っている。


笑顔で、子供たちに手を振っている。


その時——


トラックが、猛スピードで突っ込んできた。


椿は、子供を庇って押し出す。


子供は助かる。


だが——椿は、轢かれる。


舞台が、暗転する。


そして——再び、同じ場面が始まる。


椿が横断歩道を渡る。トラックが突っ込む。子供を庇う。轢かれる。


暗転。


また、始まる。


何度も、何度も。


九条は、舞台を見つめることしかできなかった。


「やめろ……!」


九条は叫ぶ。


だが、演劇は止まらない。


椿の死が、繰り返される。


老人が、静かに言う。


「これが、彼女の未来だ」


九条は、膝をつく。


「……俺は、どうすればいい」


老人は答えない。


ただ、舞台を見つめている。


---


## V. 決意


九条は、零階図書室に戻った。


椿の死亡報告書を、開く。


ページをめくる。そこには、詳細な死因が記されていた。


《如月椿は、2019年5月18日午後3時27分、市内の横断歩道で交通事故に遭い死亡。


運転手は、居眠り運転。


椿は、横断中の児童を庇い、自らが犠牲となった》


九条は、本を閉じる。


「……居眠り運転」


なら——運転手を止めればいい。


事故を、起こさせなければいい。


九条は、本に記された運転手の名前を確認する。


田中浩二。四十三歳。運送会社勤務。


九条は、運送会社の住所を調べる。


「——俺は、椿を救う」


老人の警告を、無視した。


---


## VI. 介入


五月十八日、午後二時。


九条は、運送会社の駐車場にいた。


トラックが、出発しようとしている。


運転手は、田中浩二。


九条は、トラックの前に立ちはだかる。


「待ってください!」


田中は、窓を開ける。


「何だ?邪魔だぞ」


「あなたは——今日、居眠り運転をします」


田中は、眉をひそめる。


「は?何言ってんだ?」


「お願いです。今日は、運転しないでください」


田中は、九条を無視して発進しようとする。


九条は、トラックのタイヤの前に倒れこむ。


「轢いてください!俺を轢かずには、進めないようにします!」


田中は、慌ててブレーキを踏む。


「おい!何してんだ!?」


九条は、必死に訴える。


「お願いです……!今日、運転しないでください……!」


田中は、九条の狂気じみた表情を見て、恐怖を感じた。


「わ、わかった……!今日は運転しない……!」


九条は、安堵の息をつく。


「ありがとうございます……」


そして——午後三時二十七分。


椿が横断歩道を渡る時間。


九条は、その場所にいた。


だが——トラックは来ない。


椿は、無事に横断歩道を渡り切った。


九条は、涙を流した。


「……助かった」


---


## VII. 代償


九条が自宅に戻ると、携帯電話が鳴った。


警察からだった。


「九条透さんですか?」


「はい」


「……お父様とお母様が、交通事故に遭われました」


九条の思考が、停止した。


「……え?」


「申し訳ございません。お二人とも、即死でした」


九条は、携帯を落とす。


「……嘘だ」


九条は、病院へ駆けつける。


両親の遺体が、そこにあった。


事故の詳細を聞く。


運転手は——居眠り運転だった。


「運転手の名前は……?」


警察官が答える。


「田中浩二です」


九条は、崩れ落ちる。


「……そんな」


田中は、トラックを運転しなかった。


だが——代わりに、自家用車を運転した。


そして——居眠りをした。


「……俺が、殺した」


九条は、両手で顔を覆う。


---


## VIII. 零階のルール


九条は、零階に戻った。


老人が、そこにいた。


「……言ったはずだ」


老人は、悲しそうに言う。


「介入すれば、もっと悪いことが起こる、と」


九条は、老人を睨む。


「なぜ、こんなことに……!」


「零階のルールだ」


老人は、説明する。


「記録された死は、世界の均衡を保つために必要だ。一つの死を消せば——別の死が生まれる」


「そんな……!」


「君の恋人は救われた。だが、代償は——君の家族だった」


九条は、膝をつく。


「……俺は、何をしたんだ」


老人は、九条の肩に手を置く。


「これが、零階に関わる者の宿命だ」


---


## IX. 椿


葬儀の日。


椿が、九条のもとに来た。


「透くん……」


椿の目は、泣き腫らしていた。


「私のせいで……」


九条は、椿を見る。


「……お前のせいじゃない」


「でも……!」


椿は、泣き崩れる。


「なんで……救わなくてよかったのに……!」


九条は、何も言えなかった。


椿は、続ける。


「私、死ねばよかった……!そうすれば、おじさまたちは……!」


九条は、椿を抱きしめる。


「……お前は、悪くない」


「透くん……」


「悪いのは、俺だ」


九条は、椿を離す。


「……もう、会えない」


「え……?」


「俺は、零階の管理官になる。もう、普通の人間じゃない」


椿は、九条の手を握る。


「待って……!一緒にいさせて……!」


九条は、静かに首を横に振る。


「お前は、生きろ。俺が救った命だ。無駄にするな」


九条は、椿の手を振りほどく。


「……さようなら」


九条は、背を向ける。


椿の泣き声が、背中に突き刺さる。


だが——九条は、振り返らなかった。


---


## X. 変化


それから七年。


九条透は、零階の管理官として生きてきた。


感情を殺し、ただ記録を守る者として。


二度と、介入しない。


二度と、救わない。


それが——九条の、贖罪だった。


---


現在。


九条は、零階図書室にいた。


新しい死体が、また現れた。


九条は、淡々と記録を取る。


その時——


「九条さん」


声がした。振り返る。


そこには——


椿が立っていた。


七年ぶりの、再会。


椿は、微笑んでいた。


「……久しぶりですね」


九条は、表情を変えない。


「……なぜ、ここに」


椿は、静かに答える。


「私も——零階の職員になりました」


九条は、息を呑む。


「お前……何を……」


椿は、九条に歩み寄る。


「あなたが救ってくれた命。無駄にしないって、約束したでしょう?」


椿は、九条の手を取る。


「だから——一緒に、ここで働きます」


九条は、初めて——感情を露わにした。


「……馬鹿だ」


椿は、笑う。


「ええ。馬鹿ですよ」


九条は、椿を抱きしめる。


「……ありがとう」


椿は、九条の背中を撫でる。


「こちらこそ」


---


## XI. 舞台の終わり


零階劇場。


舞台の上では、椿の死の場面が——もう上演されていなかった。


代わりに、別の場面が上演されている。


九条と椿が、並んで立っている。


二人は、微笑んでいる。


そして——幕が下りる。


劇場は、静寂に包まれる。


---


零階劇場。


そこは、選ばれた未来を上演する場所。


救済は、常に代償を伴う。


だが——それでも、人は選ぶ。


愛する者を、救うことを。


---


第4話 終


---


## 次回予告


《零階病院で目覚める患者は誰だ》


「羽佐間……さん?」


死んだはずの男が、ベッドで眠っている。


「——やはり、始まりましたか」


零階のルールが、崩壊し始める。


世界は、矛盾を抱え始めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る