霧谷透真と怪盗ぬらり
七刻眞
『ぬらり』登場!!
第1話 霧谷透真 呼ばれる
晩秋の夜、庭の池に映る月は丸く大きくそこにあった。紅葉がたった一枚落ちただけで、静かな池に大きな波紋が広がり月の真円が歪んだ。
ここ、東京郊外にある旧華族邸屋敷、清野原家の邸宅には、今宵ひときわ豪華な顔ぶれが集まろうとしていた。
洋館である旧邸宅と、瓦屋根の現代和風建築をつなぐ回廊には、橙の灯りの下、警備員が立ち並び、屋敷を訪れる客たちの身分照会、手荷物検査で忙しかった。
広間の奥では、和洋折衷の晩餐会が催されており、長いテーブルに目を奪う豪華な料理が並んでいた。客の談笑が弦楽の演奏と溶け合い、風靡な賑わいを見せている。
「
アナウンスの中、主役が登場する。
今回の宴は、今宵還暦を迎える屋敷の主人、清野原貞邦を祝うものであった。彼は背筋を正し、白い口髭を右手で何度も撫でつけ、かつての威厳を今も見せ続けていた。六十を超え、皺を刻む横顔からは、四十年前、乗馬会で『新生沸き立つ』と持て囃された頃の気骨と鋭さを今も宿していた。
それもそのはず、続いて入場して来たのは、目に入れても痛くない美しい娘の麗香であった。先月、二十四歳を迎え女盛りの彼女は紫のドレスに身を包み、貞邦の隣に坐した。黒髪を上品に結い上げ、胸にはダイヤのブローチが光っている。その姿は清野原貞邦よりも目を引いた。
その晩餐会には、清野原貞邦の旧友である乗馬会の老体はもちろん、彼が乗馬を引退後に実業界で得た賓客も数多く出席していた。
特筆すべきは歳の三十以下と厳選した友人たちの息子たちが同伴していたことである。今宵の貞邦の誕生日、実は娘の婿選びの場と言うことを聞きつけ、客の大半が息子や孫を同伴させたのだった。色々な欲望渦巻くこの催しに策謀を極めるものが多かったのは事実だ。
しかし、貞邦は既に公私共々良く家に尽くす葛西六朗と共に、婿選びの人選を終えていた。
候補は八人。
いずれも家柄や地位は勿論、道義を知る智謀才覚を供えた将来有望な若者だ。
還暦を祝う宴を終え、個性豊かな美男子八人は特別に応接室に集められた。そこには、貞邦と麗香、そして、お見つけ役としての葛西の三人が待っていた。直接、年の上下に関係なく閑談し言葉を交わした。
夜も更け、酒も入ると貞邦と葛西の声色が高まっていく。娘も八人と言葉を交わし、いつになく気さくに対応した。
実は、麗香自身は、父に結婚相手を決められるのは少々気分が悪いと周りに語っていたが、名立たる名士の将来有望な若い男たちに、ちやほやされるのは悪くなかったらしく、終始笑顔で過ごしていた。やがて灯が落とされ、様々な余韻を残したまま宴の第二幕は終わった。
「いい人はおったか?」
父の言葉に、本来勝気である麗香が、思わせぶりな笑顔を浮かべたのだった。
――だが、この宴、大問題があった。
誰もが違和感すら感じることなく、何の不思議も感じずに終えたが、翌日に大騒ぎとなる。
翌朝、葛西六朗は、清野原貞邦が起きて来るのを応接室で待っていた。目を覚ました貞邦は、葛西が来ていると聞き、大急ぎで寝巻姿で現れた。
「なんだ、六朗、朝早くから、何かあったのか」
血相を変え頭を下げる葛西、隣に座る頑丈な出で立ちの男を前に、貞邦は腰を降ろした。
「貞邦、大問題が起きた。まず紹介するが、こちらは昨夜の宴の警備を任した警備長の薪(まき)尼(に)だ。彼から報告したいことがある」
葛西は簡単に難いのいい男を紹介すると、まず問題を簡潔に説明した。
「昨日の八人の選抜した婿候補ですが、本当の招待客は七人だったんだ」
突然に何を言うのかと貞邦は笑い出す。
「ハハハ、馬鹿言うな、八人じゃろ。人選した時も八人、あの場にも八人、それに一緒に全員と閑談したじゃないか」
「それが、直前に仕事の都合がどうしてもつかず一人が欠員していた。私も参加してくれたのかと嬉しく思っていたので、今朝、その彼に、急遽参加頂いた礼を直接伝えようと電話をしたところ、『出席はしていない』と言うのだ。なので、実際は七人が正しい参加人数だったのだ」
貞邦は二人に昏々と説明され、事態の大きさに気づき始めた。
「欠員した人物の顔を失念していた責任は私にあります。ただ、どうも、怪しい。色々確認したのですが、彼と話した人間は、我々以外には、数人しかいないのです」
貞邦は思った。八人目の彼と少し話したのは覚えている。少々酔っていたとはいえ、麗香の夫となるかもしれない男たちとの会話を楽しんでいた自分を思い出す。
表面的な会話は極力行わず、本性をはかり知るように臨んだ。会話に対する反応を楽しんだ。八人目の男は確かに目鼻立ちがはっきりしていない凡庸な顔だちだった気がする。貞邦は思い出そうとするが、顔が出て来ないのだ。
「おかしなものだな。選ばれた人物ではない。それだけはハッキリ分かる」
ここで薪尼が、ここに至る状況を説明した。
「会話をかわした警備担当が言うには、男は『急遽多忙により不参加を連絡いたしましたが、急用が片付きましたので馳せ参じた』と丁寧に頭を下げたそうです。『今更ながら参加したいとは傲慢でしょうか、無理でしたら、このまま帰らせて頂きます』このように話し、玉のような汗をハンカチで拭き、申し訳なさそうな顔をしたといいます」
貞邦は、その謙虚さを現す行動に、うむむ、と唸った。
「それから、一名の辞退を聞いていた警備員は、身元確認に少々てこずったそうです。『御面倒なら結構です。欠席を連絡したのはわたしの方ですから、手続きが漏れていて当然です。それでは、今宵は失礼させていただきます。御縁がなかったと諦めます』そう言って、深く深く頭を下げたそうです。この警備員、大事な客人を招くので阻喪のないようにと、ご主人様から仰せつかっていたのを思い出し、確認が疎かなまま、入場させたというのです」
薪尼は、頭を地面に摺るほどに額を床につけて詫びた。
「有り得ないことだが、そなたらを責めるよりも、問題は、その者が何者かだな。何か屋敷の物が盗まれておらぬか、何かされておらぬか、確認しなければならない。屋敷内を調べさせてくれるか」
「は、その通りに」
貞邦の言葉に葛西は同意した。
侵入者である男は凄く狡猾に違いない。何か通常では想像しえない目的のため、潜り込んだと貞邦はぼんやりと思っていた。
「今一度聞くが、薪尼よ。侵入者が中に入れた理由は分かったが、何処かで誰かがオカシイと気づかなかったのか。元々欠席を伝えていたなら、食事も別間の席も無かったはずではないか」
薪尼は更に状況を説明する。
「侵入者は、裏方に熱心に話しかけ、席を用意させたようです。また、給仕長にも直接挨拶し、『自分の食事はいらない』と、遠慮がちに伝えたそうです。『自分のせいだから』と話したと聞きます。流石にそうはいかないと給仕長は料理長に相談し急遽、一人前の料理の追加準備がされたのでした」
「なんと、抜かりのない奴。なにか異様に嫌な予感がするな、いいか、薪尼、絶対に招待を探し出せ!」
貞邦は机を叩いて、二人を鼓舞した。
しかし、昼過ぎになっても一向に男が誰か分からない。名前も、なぜか顔すら的確に思い出せる者がいないのだ。
数人の裏方に聞けば判明すると思っていたのだが、なぜか、人によって話す風貌が違い、得ている感覚が違うのだ。目が大きいという者もいれば、細い目だというし、頬がこけていたという者がいれば、ふっくらしていたという者もいる。姿が定まらない。
正体不明の侵入者が紛れていたという話を耳にし怯えたのか、麗香も奥の自室から出て来ない。
『昨日の殿方から誰か気になる者はいたか、再びここへ呼んでみてもいいのだぞ』
貞邦はそう、花婿候補の娘の初見を再び聞くつもりだったのだが、とても、そんな状況ではなくなった。
清野原貞邦は心中穏やかでなくなった。
貞邦の富は、彼自身が努力し築き上げた。時には商売でライバル企業を倒産させたり、合併させたり、他人の富を簒奪したこともある。
敵を作ったことも少なからずあった。長い人生の中で、その者たちが自分の大事な物を奪おうとするのではないかと恐怖を覚えた。
そして、自らの屋敷で、自らが選んだ客人の中に、正体不明の男が混じっていたことへの不安だ。しかも誰も疑念を抱かず、当然のように、自分と娘の前に席を与えたのだ。再び、葛西と薪尼が応接室で貞邦に報告した。
「全く正体が分かりません。おそらく、その手の人間かと思われるほどです」
貞邦は頭を掻いて、「困った。困った」と苛立った。
「貞邦さま、それで、屋敷の被害はどうでしたか?」
「ない、ないから余計に気になる。盗みの為に忍び込んだのなら動機は明確だというのに……。だが、そうでないなら、何の為に侵入したというのだ。これでは、目的すら分からないではないか、もうあちこち連絡し調べる為に方々に家の恥すら広めたであろう。あぁ、幻を見た訳でもなく、何者かが屋敷に大手を振って玄関口から入って来たのだぞ。そんな恥を知らしめたのだ。こんな屈辱が今まであったろうか!」
当主の怒りは頂点に達した。
それは、清野原家全体の恐怖を誘い、とうとう、ある男を呼び寄せることになった。
その日の午後、屋敷に一人の男が現れた。茶色の格子模様のインパネススーツを身に纏い、跳ねた髪に長身痩躯の鋭い眼光の男だ。
「探偵に頼る日が来ようとはな……」
清野原は唇を噛んだ。
屋敷の表には、ちりちりとした髪の毛を宿した風変りな男が一人、立っていた。
探偵、霧谷透真である。
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