第8話 沈黙の引継ぎ

わしの名は久我山タケ、78歳。


白鷺町で最も古い家系、久我山家の当主。


そして——


この町の「影を縫う者」の、最後の一人。


---


2025年11月10日、夜。


わしは白鷺透を、自宅に呼んだ。


「白鷺、そろそろ潮時じゃ」


「何がですか」


「影を縫う者の、引継ぎだ」


透は戸惑った顔をした。


「引継ぎ……ですか」


「そうじゃ。わしも年じゃ。

そろそろ、次の者に託さねばならん」


---


わしは透を書斎に通した。


古い巻物を取り出す。


「これは?」


「この町の、真実じゃ」


---


【巻物の記録】


巻物には、古い文字で記されていた。


江戸時代から続く、白鷺町の記録。


透は、それを読み始めた。


---


「白鷺村の掟


一、罪は分け合うべし

一、記録は縫い合わせるべし

一、影を縫う者、一代にて終えるべし」


---


「影を縫う……とは?」


透が聞いた。


わしは答えた。


「記録の矛盾を、管理する者じゃ」


「記録の矛盾?」


「そうじゃ。

人を記録から消せば、必ず矛盾が生まれる。

家系図の空白、人口統計の齟齬、証言の食い違い——

それらを、縫い合わせて整合性を保つのが、

影を縫う者の役目じゃ」


---


透は黙って聞いていた。


わしは続けた。


「白鷺、お前はすでに影を縫う者じゃ」


「……え?」


「10年前、お前はいくみという少女を、

記録から消した。

戸籍、地図、写真——

すべてを、矛盾なく処理した」


「それは……命令されて……」


「命令?」


わしは笑った。


「命令したのは誰じゃ?」


透は答えられなかった。


---


「誰も、明確には命令しておらん」


わしは言った。


「ただ、『そうすべきだ』という空気があった。

そして、お前は自らそれを実行した」


「でも——」


「白鷺、お前は優秀じゃった。

記録を消す技術も、整合性を保つ手腕も。

まるで、生まれながらの影を縫う者のようじゃった」


---


透は、震える声で聞いた。


「では、久我山さんは……?」


「わしか?」


わしは頷いた。


「わしは、50年前に同じことをした」


---


【50年前の記録】


わしは、透に語った。


1975年、この町で一人の男が消えた。


町の有力者の不正を知った、若い教師じゃった。


---


「教師は、役場の不正経理を知った。

それを告発しようとした」


「それで?」


「町の人間が集まり、話し合った。

『この男を黙らせねばならん』と」


---


「どうやって?」


透が聞いた。


わしは答えた。


「事故に見せかけて、殺した」


---


透の顔が青ざめた。


「殺人……ですか」


「そうじゃ。

そして、わしが記録を消した。

戸籍、住民票、学校の記録——

彼は『最初からいなかった』ことになった」


---


「なぜ、そんなことを」


「町を守るため、と言われた」


わしは窓の外を見た。


「だが——

本当は、わし自身を守るためじゃった」


---


透は何も言えなかった。


わしは続けた。


「白鷺、お前も同じじゃ。

いくみという少女を消したのは、

町のためか?

それとも、お前自身のためか?」


---


透は、長い間黙っていた。


そして——


「……分かりません」


「正直でよろしい」


---


【罪の分配システム】


わしは、透に説明した。


この町の「罪の分配」について。


---


「白鷺、この町では、

罪は一人で背負わん」


「どういう意味ですか」


「一人が殺せば、それは殺人じゃ。

だが、町全体で殺せば——

それは『必要な処置』になる」


---


透は理解できない顔をした。


わしは続けた。


「50年前、教師を殺したのは誰か。

直接手を下した者か?

見張りをした者か?

死体を運んだ者か?

記録を消した者か?

それとも——

何も見なかったことにした者たちか?」


---


「全員……ですか」


「そうじゃ。

全員が、少しずつ罪を分け合った。

だから、誰も裁けん」


---


「でも——」


透は言った。


「それは、おかしい」


「おかしい?」


「罪は、消えません。

分け合っても、罪は罪です」


---


わしは、透の目を見た。


「白鷺、お前は気づき始めておるな」


「何に?」


「罪の分配は、幻想じゃということに」


---


【システムの崩壊】


わしは、透に真実を語った。


---


「罪を分け合えば、罪は消える——

これは、嘘じゃ」


「嘘……」


「罪は消えん。

むしろ、増える」


---


わしは自分の手を見た。


皺だらけの、老いた手。


「わしは50年間、あの教師の顔を忘れたことがない。

夜ごと、夢に出る。

『なぜ俺を消した』と問いかけてくる」


---


透は、わしの顔を見た。


「久我山さん……」


「白鷺、お前も同じじゃ。

いくみという少女の顔を、

お前は一生忘れられん」


---


わしは立ち上がった。


「だから、わしはもう、やめる」


「やめる?」


「影を縫うことを、じゃ」


---


透は驚いた。


「でも、引継ぎを……」


「引き継がせん」


わしは言った。


「このシステムは、終わらせる」


---


【システムの起源】


わしは、透にさらに古い記録を見せた。


江戸時代の古文書。


---


「この町のシステムは、

300年前に始まった」


「300年前?」


「そうじゃ。

当時、この村で大きな不正があった。

庄屋が年貢を誤魔化し、私腹を肥やしていた」


---


「それが発覚し、村人たちが庄屋を殺した。

だが——

領主に知られれば、村全体が罰せられる」


「それで?」


「村人たちは、庄屋を『消す』ことにした。

記録から消し、誰も覚えていないことにした」


---


「それが……始まり?」


「そうじゃ。

そして、それが『成功』したため、

システムとして定着した」


---


わしは続けた。


「以来、この町では、

都合の悪い人間を『消す』ことが、

伝統になった」


---


透は震えていた。


「300年も……」


「そうじゃ。

わしで、何代目かも分からん」


---


【影を縫う者の苦しみ】


わしは、透に語った。


影を縫う者の、真の苦しみを。


---


「白鷺、影を縫う者は、

全てを覚えておかねばならん」


「覚える?」


「そうじゃ。

消された者の名前、顔、記録——

すべてを、記憶しておかねばならん」


---


「なぜですか」


「矛盾を管理するためじゃ」


わしは説明した。


「人を消せば、必ず記録に穴が開く。

その穴を、他の記録と整合させるには、

消された者の『元の情報』を知っておかねばならん」


---


「つまり……」


透は気づいた。


「影を縫う者だけが、

消された者を覚え続けている……」


「そうじゃ」


---


わしは言った。


「町の人間は忘れる。

祭儀によって、集団催眠によって、忘れる。


だが——


影を縫う者だけは、忘れてはならん。

忘れれば、システムが崩壊する」


---


「それは……」


透の声が震えた。


「地獄じゃないですか」


「地獄じゃ」


わしは頷いた。


---


「わしは50年間、

消された者たちの記憶を背負ってきた。


教師の名前。

顔。

声。

遺族の涙。


すべてを、覚えている」


---


透は立ち上がった。


「なら、なぜ今まで続けてきたんですか」


「続けねば、町が壊れると思っていた」


「でも——」


「だが、気づいたんじゃ」


---


わしは透を見た。


「町は、すでに壊れておる」


---


【決断】


わしは、巻物を手に取った。


そして——


暖炉の火に、投げ入れた。


「久我山さん!」


透が叫んだ。


---


巻物は、燃えていった。


300年の記録が、灰になる。


「これで、終わりじゃ」


わしは言った。


「影を縫うシステムは、今夜で終わる」


---


「でも——」


「白鷺」


わしは透の肩に手を置いた。


「お前は、これから選べ」


「選ぶ?」


「記録を公開するか、隠し続けるか」


---


透は何も答えられなかった。


わしは続けた。


「わしは、隠し続けることを選んだ。

そして、50年間苦しんだ。


だが、お前は違う道を選べる」


---


「どんな道ですか」


「真実を、語る道じゃ」


---


透は、わしの顔を見た。


「久我山さんは……それを望むんですか」


「わしの望みなど、どうでもいい」


わしは言った。


「大切なのは、お前の選択じゃ」


---


【別れ】


透が帰る前、わしは言った。


「白鷺、一つだけ覚えておけ」


「何ですか」


「罪は、分け合えん。

罪は、一人一人が背負うものじゃ」


---


透は頷いた。


「はい」


「そして——

背負い続けることが、唯一の贖罪じゃ」


---


透は、何も言わずに頭を下げた。


そして、去っていった。


---


【最期】


透が去った後。


わしは一人、暖炉の前に座った。


燃え尽きた巻物の灰を見つめる。


---


これで、わしの役目は終わった。


影を縫う者は、もういない。


---


だが——


消された者たちの記憶は、

わしの中に残っている。


50年分の、名前と顔。


---


わしは、もう長くない。


医者には、余命半年と言われた。


だが——


死ぬまでに、やるべきことがある。


---


わしは机に向かい、

筆を取った。


そして——


書き始めた。


消された者たちの、名前を。


---


「教師、田中太郎、享年28歳」


「農夫、佐藤健一、享年35歳」


「少女、白月いくみ、享年14歳」


---


わしが覚えている、すべての名前。


これを、残す。


わしが死んだ後、

誰かがこれを見つけるかもしれん。


あるいは——


誰も見つけないかもしれん。


---


だが——


それでいい。


記録することが、

わしにできる最後のことじゃ。


---


わしは、夜通し書き続けた。


消された者たちの、記録を。

```


---


## 【記録者補遺】

```

【記録者補遺】


久我山タケは言った。


「影を縫う者は、一代で終えねばならない」


だが——


わしは、すでに次の影を縫う者になっていた。


わしがいくみを消した瞬間から。


タケさんは、システムを終わらせると言った。

巻物を燃やした。


だが——


記憶は消えない。

罪も消えない。


タケさんは、最後に全ての名前を書き残した。

それは、贖罪なのか。

それとも——


新たな罪なのか。


わしには、まだ分からない。

```


---


翌日、白鷺町に、

一人の研究者が再び訪れた。


民俗学者・三島圭介。


彼は町の異常な人口動態を追っていた。


そして——


久我山家を訪ねた。


だが、久我山タケは、すでに息を引き取っていた。


三島は、タケの書斎で、

消された者たちの名簿を発見する。


「これは……」


三島は震えた。


この町には、300年分の秘密が埋まっている。


だが——


彼がそれを知った瞬間、

町のシステムが動き始めた。


第九話:鍵のない家

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