第3話 教室の窓に立つ誰か

私の名前は森下美咲、29歳。

白鷺町立白鷺小学校の教師をしている。


担当は3年2組。

児童数は24人。


今日は2025年10月20日、月曜日。

朝の会が始まる前、教室に異変が起きた。


---


「先生、窓に誰かいる」


最初に言ったのは、前列に座る女の子、

田中さくらだった。


「窓?」


私は窓の方を見た。

2階の教室。窓の外には何もない。


「誰もいないわよ」


「いる」


さくらは断言した。


「あそこ、立ってる」


彼女が指差す場所を見る。

やはり、何もない。


「さくらちゃん、朝ご飯ちゃんと食べた?」


私は優しく聞いた。

低血糖で幻覚を見ることもある。


だが——


「先生、僕も見える」


今度は別の子、佐藤健太が手を上げた。


「え?」


「女の子が立ってる。あそこ」


健太が指差す場所は、さくらとまったく同じ位置だった。


---


その後、次々と子どもたちが手を上げた。


「私も見える」

「僕も」

「あそこにいる」


最終的に、24人中18人が「見える」と答えた。


全員が、窓の外の同じ位置を指差している。


私には何も見えなかった。


---


「じゃあ、その子がどんな子か教えて」


私は黒板にチョークを持った。


子どもたちが口々に答える。


「女の子」

「黒い髪」

「白い服を着てる」

「本を持ってる」

「じっとこっちを見てる」


私は黒板にメモを取った。


「その子の顔は?」


教室が、一瞬静まった。


そして——


「……わかんない」


さくらが言った。


「顔、見えない」


「ぼんやりしてる」


「白くて、よく見えない」


全員が、同じことを言った。


---


休み時間、私は校長室へ向かった。


「子どもたちが集団で幻覚を見ています」


校長は60代の男性、この町の出身だ。


「窓の外に誰かが立っている、と」


私が報告すると、校長の表情が変わった。


「……それは、どこの窓ですか」


「3年2組の、北側の窓です」


校長は立ち上がり、窓の外を見た。


「森下先生」


校長は振り返らずに言った。


「それは気のせいです。子どもたちにそう伝えてください」


「しかし、18人もが同じことを——」


「気のせいです」


校長の声が、硬かった。


「これ以上、騒がないでください」


---


午後の図工の時間。


私は子どもたちに提案した。


「今日は自由に絵を描いてください」


特にテーマは指定しなかった。


だが——


子どもたちが描いた絵は、ほとんど同じだった。


窓。

そして、窓の外に立つ人影。


24人中、16人が同じ構図の絵を描いた。


しかも——


全員が、人影の顔の部分を、白く塗っていた。


クレヨンで、何度も何度も、白を重ねて。


---


放課後、私は図書館へ向かった。


司書の白鷺透さんに相談しようと思った。

彼はこの町の歴史に詳しい。


「子どもたちが、窓の外に誰かが見えると言うんです」


私が事情を話すと、透さんは資料を整理する手を止めた。


「……それは、いつからですか」


「今日の朝からです」


「北側の窓、ですか」


「はい。どうしてご存知なんですか?」


透さんは答えなかった。


ただ、カウンターの奥から、一冊のノートを取り出した。


「これを」


「何ですか?」


「10年前の、学校日誌です」


---


ノートには、几帳面な文字で記録が残されていた。


2015年10月の欄。


「3年生の児童が、窓の外に人影を見たと報告。

集団ヒステリーと判断。

保護者会を開催し、沈静化を図る」


私は透さんを見た。


「10年前にも、同じことが?」


「ええ」


「でも、原因は?」


透さんは長い間、黙っていた。


そして——


「森下先生は、この町の出身ではありませんね」


「はい、大学から戻ってきたのは3年前です」


「では、10年前のことはご存知ない」


「何があったんですか?」


透さんは、私の目をまっすぐ見た。


「一人の少女が、この町から消えました」


---


その夜。


私は学校に戻った。


監視カメラの映像を確認したかった。


校長には内緒だ。


警備室のパソコンで、朝のカメラ映像を再生する。


3年2組の教室を映すカメラ。


午前8時15分。

子どもたちが「見える」と言い出した時刻。


映像を見る。


窓の外——


確かに、誰かが映っていた。


---


しかし。


子どもたちが指差していた位置ではなかった。


映像に映っているのは、窓の左側。

子どもたちが指差したのは、右側。


矛盾している。


私は映像を一時停止した。


窓の外に立つ人影。

黒い髪、白い服。

手に本を持っている。


だが——


顔の部分が、映像の中でブレている。


ノイズのように、白く歪んでいる。


---


私は映像を拡大しようとした。


だが、その瞬間——


画面が暗転した。


再起動しても、映像は消えていた。


10月20日の午前中の記録だけが、

データから削除されていた。


誰が。

いつ。


私は警備室を出た。


---


翌朝、10月21日。


教室へ向かうと、黒板に文字が書かれていた。


誰が書いたのか分からない。


チョークで、几帳面な文字。


「わすれないで」


私はその文字を見つめた。


忘れないで?

何を?


そして——


黒板の下、教卓の上に、

一枚の絵が置かれていた。


誰かの子どもが描いた絵。


窓の外に立つ少女。

顔の部分は、白く塗りつぶされている。


だが、絵の隅に、小さな文字があった。


「しらつきいくみ」


---


子どもたちが登校してきた。


私は絵を見せた。


「これ、誰が描いたの?」


全員が首を横に振った。


「知らない」

「僕じゃない」

「見たことない」


しかし——


さくらが、絵を指差した。


「これ、窓の子だよ」


「窓の子?」


「うん。昨日、窓にいた子」


他の子どもたちも頷いた。


「そうそう」

「この子だ」

「名前、なんて読むの?」


「しらつき、いくみ」


私が読むと、子どもたちは不思議そうな顔をした。


「知らない名前」

「この学校にいる?」

「転校生?」


誰も、その名前を知らなかった。


---


休み時間。


私は再び図書館へ行った。


「白月いくみ、という名前をご存知ですか?」


透さんは、私の顔を見た。


「……どこでその名前を?」


「子どもたちの絵に、書いてあったんです」


透さんは深く息を吐いた。


「森下先生、お願いです」


「何ですか?」


「その名前を、子どもたちの前で口にしないでください」


「なぜですか?」


「それは……」


透さんは言葉を選んでいた。


「名前を呼ぶと、思い出してしまうから」


「思い出す?」


「忘れられたものを、思い出してしまう」


私には意味が分からなかった。


---


その夜、私は自宅で、

白月いくみという名前を検索した。


インターネット。

SNS。

新聞記事データベース。


何も出てこなかった。


まるで、最初から存在しなかったかのように。


だが——


Googleの画像検索で、一枚だけ、

奇妙な写真が引っかかった。


10年前の、白鷺町の文化祭の記録写真。


集合写真の中、一人だけ、

顔の部分が白くブレている人物がいた。


名札には「白月」と書かれていた。


---


翌日、10月22日。


子どもたちは、もう窓の外を見なかった。


「先生、昨日のあれ、夢だったのかな」


さくらが言った。


「夢?」


「窓にいた子。今日はいない」


他の子どもたちも、同じことを言った。


「いなくなった」

「もう見えない」

「本当にいたのかな」


忘れ始めている。


24人の子どもたちが、一斉に。


---


私は教室の窓に近づいた。


外を見る。


何もない。


ただの、秋の空。


しかし——


窓ガラスに、小さな手形が残っていた。


子どもの手形。


窓の外側に。


2階の窓の、外側に。


誰の手だろう。


---


放課後、私は再び透さんのもとへ向かった。


「子どもたちが、忘れ始めています」


「……それでいいんです」


透さんは言った。


「忘れた方が、安全です」


「何から安全なんですか?」


透さんは答えなかった。


ただ、こう言った。


「森下先生。あなたも、忘れてください」


「忘れる?」


「白月いくみという名前を」


「でも——」


「お願いです」


透さんの声が、震えていた。


「あなたまで、消されたくない」


---


その夜。


私は自宅で、今日のことをノートに記録した。


教師として、記録を残すべきだと思った。


窓に見えた少女のこと。

子どもたちの絵のこと。

白月いくみという名前のこと。


すべてを書いた。


そして——


ノートを閉じた瞬間、

ページが白紙になっていた。


書いたはずの文字が、消えていた。


インクが消えたのではない。

ページそのものが、入れ替わっていた。


私は震えた。


これは、何なのか。


誰が、やっているのか。


---


翌朝、目が覚めると、

私は奇妙な感覚に襲われた。


何かを忘れている。


大切な何かを。


昨日、何があったか。


教室で、子どもたちが何かを見たような——


いや、違う。

何も起きなかった。


普通の一日だった。


そう思った。


だが——


手のひらに、白いチョークの粉が残っていた。


黒板に、何かを書いた記憶。


でも、何を書いたか、思い出せない。


---


その日、学校へ向かう途中、

図書館の前を通りかかった。


司書の白鷺透さんが、窓から私を見ていた。


彼は、何か言いたそうな顔をしていた。


だが、私は会釈だけして通り過ぎた。


---


教室に着くと、黒板にメッセージが残っていた。


誰が書いたのか分からない。


「わすれないで」


忘れないで?


何を?


私は首を傾げた。


そして——


そのメッセージを、消した。

```


---


## 【記録者補遺】

```

【記録者補遺】


子どもは嘘をつかない、とよく言われる。

だが私は知っている。

子どもは嘘をつかない代わりに、忘れる。

大人より早く、大人より完全に。


いくみは、子どもたちに何を見せたのだろうか。

そして、なぜ大人には見えないのか。


森下先生もまた、忘れ始めている。

私は彼女に警告した。

「忘れた方が安全だ」と。


だが——


忘れることは、共犯になることだ。


森下先生は今、選択の瀬戸際にいる。

記憶を保つか。

それとも、町の一員になるか。


私は、彼女がどちらを選ぶか、まだ知らない。

```



その夜、白鷺町の郷土資料館で、

奇妙な現象が報告された。


閉館後、展示物の配置が勝手に変わっている、と。


特に——


10年前の町の記録を展示するコーナーで、

ある一冊のアルバムだけが、

毎晩、開かれた状態で発見される。


そのページには、集合写真。


だが、一人分の顔だけが、

白く塗りつぶされていた。


資料館の管理人は言った。


「誰も知らないことは、存在しない」


しかし——


その管理人こそが、

すべてを知る男だった。


第四話:記録係(アーカイヴ)の男



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