第2話 消えた肖像画の女
私の名は草壁聡、48歳。
白鷺町で絵を描いて生きている。
正確には「生きてきた」と言うべきか。
10年前のあの夜から、私は本当の意味で絵を描けなくなった。
描けないわけではない。
手は動く。筆も走る。
だが、描きたいものが描けない。
いや——
描きたいものを、思い出せない。
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10年前、2015年の秋。
私は町の文化祭に向けて、一枚の肖像画を描いていた。
モデルは、白月いくみという少女だった。
彼女は図書館で本を読んでいるところを、
私が声をかけて、モデルを依頼した。
「絵のモデルになってくれないか」
少女は本から顔を上げ、私を見た。
その目は、14歳にしては不思議なほど落ち着いていた。
「いいですよ。でも、私の顔は面白くないと思います」
私は笑った。
「君の顔が面白いかどうかじゃない。君の『何か』を描きたいんだ」
「私の何か?」
「そう。まだ分からない。でも、描けば分かる」
---
アトリエでの制作は、3回に分けて行われた。
1回目、彼女は緊張していた。
椅子に座り、じっと前を見つめている。
「リラックスして。君の自然な姿を描きたいから」
「自然な姿……」
彼女は少し考えて、鞄から本を取り出した。
『星の王子さま』。
「読んでいてもいいですか?」
「もちろん」
彼女が本を読み始めると、表情が変わった。
緊張が解け、どこか遠くを見るような目になる。
それが、私が描きたかった「何か」だった。
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2回目、彼女は私に質問をした。
「草壁さんは、何のために絵を描くんですか?」
私は筆を止めた。
「何のため……難しい質問だな」
「図書館の透さんは、『記録のため』って言いました。
でも絵は、記録じゃないですよね」
「記録か……そうだな、絵も記録かもしれない」
彼女は首を傾げた。
「でも写真の方が正確じゃないですか」
「正確さが全てじゃない。絵は、見えないものも描ける」
「見えないもの?」
「その人の『気配』とか、『存在の仕方』とか」
彼女はしばらく黙っていた。
「私の存在の仕方って、どんな感じですか?」
私は彼女の顔を見た。
「まだ分からない。でも、描き終わる頃には分かると思う」
---
3回目。
最後のセッションだった。
肖像画はほぼ完成していた。
あとは細部の調整だけ。
「できたよ」
私は彼女にキャンバスを見せた。
彼女は長い間、黙って絵を見つめていた。
「……これ、私ですか?」
「そうだ」
「でも、こんなに……」
彼女は言葉を探しているようだった。
「こんなに、はっきりしてない」
私は笑った。
「君はまだ14歳だ。はっきりしている方がおかしい」
彼女も微笑んだ。
「ありがとうございます。私、この絵好きです」
それが、私が彼女と交わした最後の会話だった。
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2015年10月20日。
文化祭の前夜。
私はアトリエで、展示する絵の最終チェックをしていた。
白月いくみの肖像画も、そこにあった。
夜10時、私は一度帰宅した。
翌朝、絵を運ぶ予定だった。
だが——
翌朝、アトリエに戻ると、
肖像画の顔の部分が、真っ白に塗りつぶされていた。
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最初は悪戯だと思った。
誰かが侵入して、絵を汚した。
しかし、他の絵には何の被害もない。
いくみの肖像画だけが、顔の部分だけが、白く塗られていた。
しかも——
塗りつぶし方が、奇妙に丁寧だった。
乱暴に塗られたのではない。
慎重に、何度も重ねて、完全に覆い隠すように。
まるで、消さなければならないものを消すように。
私はすぐに警察に連絡しようとした。
だが、電話をかける前に、
一人の男が訪ねてきた。
町の有力者の一人、久我山家の使いだった。
「草壁さん、その絵のことで」
「ご存知なんですか?」
「ええ。あの絵は、展示しないでいただきたい」
「なぜですか?」
男は答えなかった。
ただ、封筒を差し出した。
中には、相当な額の現金が入っていた。
「これは?」
「お気持ちです。絵の制作費と、口止め料です」
私は封筒を突き返した。
「冗談じゃない。これは私の作品だ」
「草壁さん」
男の声が、低くなった。
「あの少女のことは、忘れてください。
あなたのためです」
---
その後、何が起きたのか。
私は正確には覚えていない。
いや——
覚えているが、言葉にできない。
気づけば、私は文化祭に別の絵を出していた。
いくみの肖像画は、アトリエの奥にしまわれた。
そして数日後——
「白月いくみさんは転居した」
町でそう聞かされた。
私は図書館へ行き、司書の透に尋ねた。
「いくみさんは、本当に転居したんですか?」
透は、資料を整理しながら答えた。
「ええ。急な転居だったようです」
「どこへ?」
「……分かりません」
透は私を見なかった。
その時、私は気づくべきだった。
透の手が、微かに震えていたことに。
---
それから10年。
私はいくみの肖像画を、何度も描き直そうとした。
彼女の顔を思い出そうとする。
だが——
輪郭は覚えている。
髪型も、服装も。
でも、顔の中心部分が、ぼやける。
目の形は?
鼻の高さは?
唇の形は?
思い出せない。
最初は、時間が経ったせいだと思った。
10年も経てば、記憶は曖昧になる。
だが——
あるとき、私は気づいた。
スマホに残っていた彼女の写真。
制作中に参考用に撮ったものだ。
その写真の、顔の部分だけが、
不自然にブレていた。
他の部分は鮮明なのに。
顔だけが、白くぼやけている。
---
2025年10月17日。
図書館の司書、白鷺透が私を訪ねてきた。
10年ぶりだった。
「草壁さん、お久しぶりです」
「透さん……何の用ですか」
透は、私の顔をじっと見た。
「10年前の、あの肖像画のことで」
私の背筋が凍った。
「……あの絵が、どうかしましたか」
「まだ、お持ちですか?」
「ええ、アトリエの奥に」
透は深く息を吐いた。
「見せていただけますか」
---
私たちはアトリエへ向かった。
奥の棚から、いくみの肖像画を取り出す。
顔の部分は、まだ白く塗りつぶされたままだった。
透はキャンバスの前で、長い間立ち尽くしていた。
「……これです」
透の声が震えていた。
「これが、彼女の最後の記録です」
「記録?」
「ええ。私は記録を消しました。
戸籍も、住民票も、写真も、すべて。
でも——」
透は私を見た。
「あなたの絵だけは、消せなかった」
私は理解した。
いくみは、転居などしていない。
彼女は、記録から消されたのだ。
「なぜですか」
「それは……」
透は答えなかった。
ただ、こう言った。
「草壁さん、この絵を誰にも見せないでください。
あなた自身のために」
---
透が帰った後。
私は再び、いくみの肖像画と向き合った。
白く塗りつぶされた顔。
私はそっと、その上から絵具を削り取ってみた。
下から、元の絵が現れるかもしれない。
だが——
白い絵具の下には、何もなかった。
顔の部分だけ、キャンバス地が剥がされていた。
物理的に、削り取られていた。
誰が。
いつ。
なぜ。
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その夜、私は奇妙な夢を見た。
アトリエで絵を描いている。
モデルは、誰かの少女。
だが、描いても描いても、顔の部分が白くなる。
筆を動かすたびに、色が消えていく。
夢の中で、私は叫んだ。
「なぜ描けない!」
すると、キャンバスの中の少女が答えた。
「描かれてしまったら、消されてしまうから」
---
【翌朝】
目が覚めると、アトリエの床に、
白い布が落ちていた。
誰が置いたのか、分からない。
その布には、小さな文字で何かが縫い込まれていた。
よく見ると——
「白月いくみ」
彼女の名前が、糸で縫われていた。
私はその布を、そっと肖像画の上にかけた。
それ以来、私はその絵を見ていない。
見ることができない。
なぜなら——
描くことは、記録すること。
記録することは、証拠を残すこと。
そして、証拠を残すことは——
誰かにとって、脅威になるから。
---
今でも時々、考える。
あの肖像画の下に、本当に彼女の顔はあったのか。
それとも——
最初から、描けていなかったのか。
記憶が消されたのか。
それとも、記憶が書き換えられたのか。
私には、もう分からない。
ただ一つ言えるのは——
絵は、記録だった。
そして記録は、消される。
```
---
## 【記録者補遺】
```
【記録者補遺】
肖像画が白く塗りつぶされたと聞いて、私は図書館の書庫へ行った。
いくみが写っている古い新聞記事を探した。
見つけた。
だが、顔の部分だけ、インクが滲んでいた。
私がやったわけではない。
私は紙の記録を改竄した。
だが、印刷されたインクまでは触っていない。
では誰が?
記録を消すことと、絵を消すこと。
どちらが罪深いのだろうか。
草壁さんは、10年間あの絵を隠し持っている。
それは勇気なのか。
それとも——
彼もまた、共犯者なのか。
```
---
その夜、草壁のスマホに通知が届いた。
メールではない。
SNSのメッセージだった。
送り主は「白月いくみ」。
本文は一行だけ。
「草壁さん、私の顔、覚えていますか?」
草壁は震える指で、返信しようとした。
だが、文字を打つ前に、アカウントは削除された。
画面には、こう表示された。
「このユーザーは存在しません」
---
翌朝、白鷺町の小学校で、
奇妙な出来事が報告される。
子どもたちが一斉に、
「教室の窓に女の子が立っている」
と言い出したのだ。
第三話:教室の窓に立つ誰か
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