第15話「最後の対峙、そして訣別」

 私たちの結婚式を間近に控えた、ある日のことだった。

 魔王領の境界付近で、一人の男が発見されたという報告がヴォルフから届いた。

 その男は武器も持たず、ただひたすらに魔王城の方向に向かって歩き続けていたという。ボロボロの衣服をまとい、その顔には深い疲労と尋常ではない覚悟が刻まれていた。

 その男の名は、アレス。


「通しなさい」


 私は、静かにそう命じた。

 ノワールは少し不満げな顔をしたが、私の意思を尊重してくれた。


「……最後のけじめ、というわけか」


「ええ。これで、本当に全てを終わらせるために」


 玉座の間に、アレスは一人で現れた。

 数ヶ月ぶりに見る彼は、まるで別人のようにやつれていた。しかし、その瞳にはかつての虚無とは違う、静かで、しかし揺るぎない光が宿っていた。

 彼は、玉座に座るノワールと、その隣に立つ私をまっすぐに見据えると、その場で深々と膝をつき、頭を垂れた。


「魔王様。そして……エラーラ」


 彼は、もう私を「聖女様」とは呼ばなかった。ただ、一人の個人として私の名を呼んだ。


「お時間をいただき、感謝する。俺は……謝罪に来たのではない。許しを乞いに来たのでもない」


 彼はゆっくりと顔を上げた。


「ただ、伝えに来た。俺が、どれほど愚かだったか。そして、どれほど……君を傷つけたかを、ようやく理解した、と」


 彼は、この数ヶ月、瓦礫の街で自分がしたことの意味を考え続けていたのだという。

 民衆に流され、リナの嘘に乗り、自分の嫉妬心と独占欲から、私という一人の人間を全く見ていなかったこと。私の献身や優しさを、聖女の義務だと当たり前に思い込み、感謝すらしなかったこと。その全てが、彼の傲慢さから来ていたのだと。


「俺は、君を愛してはいなかった。ただ、『聖女である君』を自分のものにしたかっただけだ。それは、愛じゃない。ただの所有欲だ。その醜い感情のせいで、俺は君の人生を滅茶苦茶にした」


 彼の言葉は、懺悔だった。誰に聞かせるでもない、彼自身の魂からの。


「君が俺を憎むのは、当然だ。君の復讐も、当然の報いだ。俺は、この先一生、この罪を背負って生きていく。それが、俺にできる唯一の償いだと思っている」


 彼は、全てを言い終えると、再び深く頭を下げた。


「言いたいことは、それだけだ。……どうか、幸せになってくれ、エラーラ。君には、その資格がある」


 その言葉に、嘘はなかった。嫉妬も、未練も、もはやない。ただ、かつて自分が傷つけた相手の幸福を、心から願う純粋な想いだけがそこにあった。


 私は、玉座の階段をゆっくりと下り、彼の前に立った。


「アレス」


 私の声は、穏やかだった。


「あなたの言いたいことは分かったわ。そして、あなたの覚悟も」


 私は、そっと右手を彼の頭上に掲げた。アレスは、罰を受けるのだと覚悟したのか、身じろぎもせず静かに目を閉じた。

 私の指先から、柔らかな闇の光が溢れ出す。それは、彼にかけられた『呪い』――私への憎悪の念を媒介に彼を蝕んでいた呪縛――を、霧のように解き放っていった。

 アレスの身体から、ふっと重たい何かが抜け落ちるのが見えた。


「え……?」


 驚いて顔を上げたアレスに、私は静かに告げた。


「もう、いいのよ。あなたの罪は、あなたが一番よく分かっている。なら、もう罰は必要ないわ」


「しかし……!」


「これは、許しではないわ。同情でもない。ただの、訣別よ」


 私は、きっぱりと言い放った。


「私は、あなたとの過去を、完全に捨てる。憎しみも、憐れみも、もうあなたには何も感じない。あなたは、私の物語から、完全に退場するの。だから、あなたも、私への罪悪感から解放されなさい。そして、あなた自身の人生を、ゼロから生きなさい」


 もう、私たちは交わらない。完全に別の世界の住人なのだと、そう宣言したのだ。

 アレスは、私の言葉の意味を理解し、その瞳から一筋の涙をこぼした。それは、安堵か、あるいは最後の寂しさか。


「……ありがとう、エラーラ」


 彼は、それだけ言うと立ち上がり、一度だけ深くお辞儀をして、静かに玉座の間を去っていった。

 その背中は、もう敗残兵のものではなかった。過去と決別し、未来へ向かって歩き出す、一人の男の背中だった。


 彼が去った後、ノワールが私の隣に来て、優しく抱きしめてくれた。


「……甘いな、お前は」


「そうかしら?」


「ああ。だが、そういうところも、我は愛している」


 私たちは、どちらからともなく微笑み合った。

 これで、本当に全てが終わった。

 私の心には、もう何のわだかまりも残っていない。

 過去は、清算された。

 目の前には、愛する人と共に歩む、光り輝く(たとえそれが闇の色だとしても)未来だけが広がっている。

 さようなら、私の惨めだった過去。

 さようなら、私を裏切った全ての人々。

 私は、ここで、世界で一番幸せになる。

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