第4話 水の在処

 うどんには水がいる。

 材料の中で、一番ありふれていて、一番確実にあると思っていたもの。でも、実際にはそうでもなかった。


 麦は、ステーションの古い粉砕機でなんとか小麦粉にできた。次の問題は水で、これが色んな意味で深刻だった。


「……出ない」


 蛇口をひねっても、か細い水の線がしばらく流れるだけで、すぐに止まる。重力のあるはずの床に、ぽたぽたと水滴が落ちる音だけが響く。


「まずいな。リサイクルが、壊れてきてるんだ」


 ぼくの言葉に、少女が顔をしかめた。


「飲み水はまだ少し備蓄があるけど……料理用なんて、贅沢かも」


 贅沢。


 レーションで生きながらえているぼくらが、あえて水を“料理”に使おうとしている。それがどれほど無茶なことか、頭では分かっている。


 それでも。


「せっかくだから……“最後”にうどん、食べてみたいよね?」


 ぼくがそう言うと、少女は一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに笑顔を作って「うん、そうだね!」と言った。


 ◇


 水貯蔵タンクは、居住区から数百メートルほど離れた補給区画にある。

 その途中、廊下の照明は何度も瞬き、低い唸りが壁の内側から伝わってきた。時折、足元がかすかに揺れる。ステーション全体が、少しずつ軋んでいる。


「揺れたね」


 少女が声を潜める。


「うん」


 ぼくの返事は、あえて軽くした。けれど胸の奥は冷たく重い。


 ◇


 タンクの前に立ったとき、ぼくらは息をのんだ。

 巨大なシリンダーの表面に、蜘蛛の巣のようなひび割れが走っていた。そこから水がじわじわと滲み出し、床に黒い染みをつくっている。


「……間に合うかな」


 少女が呟く。ぼくは思わず訊ねた。


「うどんが?」


「うどんが」


 自然と笑みが浮かんだ。だって、普通じゃない。

 この状況で最初に気にするのが“水不足”じゃなくて“うどんが作れるかどうか”なのが、おかしかった。でも、“ぼくら”らしい。そう思った。


 ◇


 工具を探して、バルブを回そうとした。

 だが、びくともしない。


「固まってる……」


 ぼくは渾身の力でバルブに手をかけるが、金属は冷たく、まるで凍りついているようだった。


「ちょっと待ってて」


 少女は走り去り、しばらくして古びたヒーターを抱えて戻ってきた。


「これで温めたら、少しは動くかも」


 ぼくらは交代でバルブを温め、再び力を込めた。

 金属の軋む音が響き、古い機構が悲鳴を上げた。

 ぼくらは思わず顔をしかめた。そのとき、透明な水がチューブを伝って流れ出した。少女が小さくガッツポーズをした。


「これで……また一歩、前進だね」


 その声が、ほんの少し震えていた。

 まるで、“前進”の先にあるものが、怖いように。


 ◇


 透明な水に両手を差し出すと、ひんやりとした感触が掌を濡らす。


「きれい……」


 少女が覗き込み、指先で水を弾いた。


 飛び散った滴が光を反射し、宙で一瞬だけ星みたいに輝いた。ぼくはその中に、今はもう存在しない故郷の“地球”を見た気がした。


 ぼくらは顔を見合わせ、思わず笑った。

 こんなときでも、笑えるんだ。


 けれど、その笑い声の背後で、ステーションのどこかがまた低く軋む。

 ゆっくりと、確実に。

 この巨大な方舟は、沈み始めている。


 沈む前にせめて──そう思わずには、いられなかった。

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