第3話 小麦粉を追え
宇宙ステーション『ノレダ号』の廊下は、いつもよりも長く感じられた。灰色のパネルに照明が反射して、ずっと先まで続いているように見える。
けれど、その先に人影はない。
ぼくら以外に、生きている人間はいない。
壁に取り付けられた案内板には、英語で『FOOD PRODUCTION』と書かれていた。矢印は、遠く、暗い曲がり角の奥を指している。
「静かだね」
不意に、少女が小声で言った。
「え、いつも静かじゃない?」
「うん。でも……今日は特に」
そう言われて、ぼくも気づく。
空調の音が妙に途切れ途切れだ。ときどき電灯がジジッと瞬き、二人の影が壁を這う。もともと生命の気配がごっそり抜け落ちたステーションだったけど、今はどこか全体が軋んで、崩れかけの廃墟のよう。
「ねえ……」
少女が足を止める。
「これって、もしかして……このステーション、もう長くないんじゃない?」
その言葉に、胸がずしんと重くなる。
気づいていた。けれど、口に出すのは怖かった。
外壁の一部がすでに剥がれ、宇宙にさらされていること。封鎖区画がどんどん増え、生活圏が徐々に狭まっていること。メインコンピュータが何度もリブートを繰り返していること。救命艇や非常用ポッドはすでに発射され、取り残されたぼくらに、このステーションからの脱出は不可能なこと。
「そうかもね。でも……きっと大丈夫だよ」
と、ぼくは言った。
自分でも、白々しいと思った。
けれど、彼女の顔を曇らせたくなかった。
少女は深呼吸をして、それ以上はなにも言わなかった。
◇
なにもない廊下を淡々と進む。ぼくは急に、沈黙が居心地悪くなって、少女に声をかけた。
「ねえ、君って……名前、あったよね?」
「たぶん、あったと思う。でも、もう思い出せない」
「ぼくも。番号は覚えてるけど、それだけ」
宇宙ステーション移住時に、記憶を操作されている。だから、記憶は断片的にしかない。特に“名前”に関する記憶は徹底的に消去されていた。家族や友人も、顔は思い出せても、名前だけはどうしても思い出せない。
なぜ、名前を奪う必要があったのだろう。
その答えも、大人になったら、分かるんだろうか。
少女は少し笑って、言った。
「じゃあさ。うどんが完成したら、お互いに名前つけようよ」
「それ、いいね……とびっきりの名前、考えておくよ」
ぼくらは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
◇
やがて辿り着いた食料生産区画は、巨大なガラスドームに覆われた空間だった。中は湿った土と、水耕栽培の装置が整然と並ぶ農場。照明はちらつき、いくつかのプラントは枯れ果てていた。
けれど。
「見て!」
少女が走り出す。
ドームの奥、まだかろうじて稼働している培養槽。そこに、黄金色の穂が静かに揺れていた。
まるで、僕らを持っていたかのように。
「……あった」
ぼくの声は自分でも驚くほどかすれていた。
少女は穂を両手で包み込むようにして、顔を寄せた。
「やった! これがあれば作れそうじゃん、うどん!」
その笑顔を見ていると、ほんの一瞬、滅びの気配を忘れそうになる。彼女の笑顔が、ぼくの中の“生きる理由”みたいに思えた。
◇
──湯気が、ふわりと立ちのぼる。
白くて、やわらかくて、少しだけコシのある麺。
出汁の香りが、空気の薄い居住区画に、やさしく広がっていく。
箸を伸ばすと、彼女が笑う。
『ちょっと待って、薬味まだ入れてないよ』
ぼくは笑い返す。
『じゃあ、君が入れて』
彼女は、そっとネギを散らす。湯気が、またふわりと揺れる。
◇
──それが、ぼくの思い描いた“完成形”だった。
まだ、現実には存在しない。
でも、きっと作れる。作りたい。彼女と一緒に。
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