EP 8
勝利の代償
1942年10月。
ガダルカナル島(日本名:『旭島(あさひじま)』と改称されていた)奪還の熱狂は、日本全土を覆い尽くしていた。新聞は「米英撃滅」「ソロモンの死闘、皇軍の大勝利」と書き立て、国民は「次」の勝利を信じて疑わなかった。
その熱狂の頂点、大本営政府連絡会議。
陸軍参謀本部、海軍軍令部の将星たちが、戦勝の興奮冷めやらぬまま集結していた。
「(東條)総理! ご決断を!」
陸軍参謀総長の杉山元が、地図を叩く。
「ガダルカナル(旭島)を拠点とし、ニューカレドニア、フィジーを攻略。豪州(オーストラリア)を完全に孤立させる『FS作戦』の実行を、今こそ!」
「海軍も同意である!」軍令部総長の永野修身も続く。「我が機動部隊は健在。敵空母群は壊滅状態。この好機を逃す手はありません!」
彼らにとって、ガダルカナルでの東條(坂上)の指揮は「結果的に」正しかったに過ぎない。彼らは、温存された戦力で「次なる決戦」を渇望していた。
だが、坂上(東條)の反応は、氷そのものだった。
彼は、机に積まれた珈琲飴の包み紙を無感動に眺め、おもむろに立ち上がった。
「諸君は、まだ『勝利の病』が治っておらんようだな」
会議室が静まり返る。
「FS作戦? 豪州攻略? 結構だ。だが、その部隊に送る米と弾丸は、どうやって運ぶ?」
坂上は、赤松秘書官に命じ、もう一つの、誰も見たがらない資料を壁に貼り出させた。
それは、過去3ヶ月間に日本が失った「商船・タンカー」の撃沈トン数を示す、おぞましい右肩上がりのグラフだった。
「見ろ。ガダルカナルで海戦に勝利した、まさにその裏側で、我が国のシーレーンはズタズタに引き裂かれている」
彼は、グラフの一点を指差した。
「敵潜水艦(ガトー級)の活動が、我々の予測を遥かに超えて活発化している。蘭印(インドネシア)から本土に届く石油の量は、先月比で20%減少した」
「そ、それは…海軍の護衛部隊が、全力で対処しておりますが…」永野が狼狽える。
「対処できていない!」
坂上は、東條の甲高い声で一喝した。
「諸君らが『艦隊決戦』の夢を見ている間に、この国の『血管』は、敵の潜水艦に食い破られているのだ! このままでは、1年後、いや半年後には、諸君らが誇る『大和』も『武蔵』も、港に浮かぶ『鉄クズ』と化すぞ!」
21世紀の海上自衛官(いずも艦長)である坂上にとって、対潜哨戒(ASW)の軽視は、自殺行為に等しかった。
「豪州攻略など、論外だ。
これより、我が国の軍事リソースの最優先配分を変更する」
彼は、その場で「総理大臣」として、大本営に対し「命令」を下した。
「第一。戦艦『信濃』(建造中)、及び新型巡洋艦の建造を即時中止」
「なっ…!?」海軍将校が立ち上がる。
「第二。空いた全てのドックと工員を、『護衛空母』『海防艦(カイボウカン)』及び『高性能タンカー』の量産に振り向けよ」
「第三。海軍航空隊の錬成計画を改め、陸上基地からの『対潜哨戒機(PBYカタリナのコピー機等)』パイロットの育成を最優先とする」
「(東條)総理!お待ちください!」
永野が、怒りで顔を震わせた。
「それは…海軍の『決戦』思想そのものを否定するものだ! 連合艦隊は、護衛艦隊の『下請け』ではない!」
「下請けで結構」
坂上は冷たく言い放った。
「石油を運べず、兵士を運べない海軍など、無用の長物だ。これが飲めぬなら、俺は陸軍大臣として、海軍への石油配分を、今この場で停止する」
それは、宣戦布告だった。
陸軍大臣が、海軍の存在意義そのものを否定したのだ。
将校たちは、東條の(彼らにとっての)「狂気」に満ちた合理性に、憎悪と恐怖の目を向けた。
その夜、東京・赤坂の料亭。
公の会議では発言を控えていた、陸海軍の中堅将校たち——ミッドウェーを潰され、豪州攻略の夢を砕かれた強硬派——が、密かに集まっていた。
「聞いたか、今日の会議を。東條は狂った」
「対潜哨戒だと? 護衛空母だと? 卑怯者の戦いだ」
「ガダルカナルで勝てたのも、我ら前線の奮戦のおかげ。それをあの男は『兵站』だの『合理性』だのと…」
「奴は、大東亜の聖戦を汚している。あの目だ…あの冷たい目。まるで、我々を家畜でも見るような…」
「そして、あの西洋菓子(珈琲飴)…奴は米英に魂を売っているのではないか?」
陰謀の空気は、急速に熟成していく。
「このままでは、聖戦は頓挫する。国体が危うい」
「東條を、討たねばならん」
暗殺計画は、この「勝利」の熱狂の裏側で、静かに、だが確実に動き出した。
一方、坂上は官邸で、別の報告に頭を悩ませていた。
仁科博士と、中島飛行機の技師長が、沈痛な面持ちで彼に頭を下げていた。
「(東條)総理…申し訳ありません」
仁科が切り出した。
「ニ号研究(原爆)ですが、遠心分離機に必要な高精度ベアリング…ドイツからのUボートが撃沈され、入手不能となりました。国産化には、最低でもあと3年…」
続いて、技師長が口を開く。
「新型迎撃機(対B-29)も同様です。排気タービン(ターボ)に必須の耐熱合金…ニッケル、クロム、モリブデン…これらレアメタルの輸入が、敵潜水艦により、完全に滞っています」
坂上は、目を閉じた。
(悪循環だ…)
シーレーン(兵站)を守れなければ、継戦能力が失われる。
継戦能力が失われれば、本土防衛用の決戦兵器(迎撃機、原爆)が開発できない。
そして、そのシーレーン防衛を、海軍が「伝統」と「面子」のためにサボタージュしている。
(海軍が動かんのなら…俺が動かすしかない)
彼は、二人の技術者に静かに告げた。
「博士。ベアリングは、海軍の『大和』『武蔵』に使われている世界最高の主砲旋回ベアリングを調べろ。それを流用する設計に切り替えろ」
「技師長。レアメタルは、陸軍が満州で備蓄している『タングステン』で代用する合金を開発しろ。強度は落ちるが、背に腹は代えられん」
常識外れの命令に二人が戸惑う中、坂上は赤松秘書官を呼んだ。
「今すぐ、連合艦隊司令部(トラック諸島)と呉鎮守府に打電」
「内容は?」
「『(東條)総理、近ク海軍ノ対潜戦闘ノ実情ヲ視察ス』。…俺が、直接『いずも』(この時代の護衛空母)に乗る」
坂上真一は、東條英機の体で、再び「海」に出ることを決意した。
それは、海軍の反発を抑え込むための、最大の「賭け」だった。
そして、暗殺者たちにとって、それは千載一遇の「好機」を意味していた。
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