EP 9

狼の海へ

1943年(昭和18年)1月。

呉軍港は、異様な緊張感に包まれていた。

一国の総理大臣であり、陸軍大臣である東條英機が、トラック諸島へ向かう「ヒ船団」(重要物資輸送船団)に、護衛空母「冲鷹(ちゅうよう)」で「同乗視察」するという前代未聞の事態。

海軍上層部は激怒した。「陸軍のトップが、海軍の、それも最も危険な最前線の護衛任務に口を出すなど、統帥権の干犯である」と。

だが、坂上(東條)は一蹴した。

「統帥権を振りかざしてシーレーンを守れぬ海軍に、陸軍の兵士と物資を任せることはできん。俺の目で、現実を見るまでだ」

「冲鷹」は、もともと新田丸という客船を改造した、低速の護衛空母だった。坂上が夢見た「いずも」とは比較にもならない、間に合わせの艦(フネ)。

その狭い艦橋に、東條英機の軍服を着た坂上が立った時、彼は21世紀の記憶とのギャップに眩暈すら覚えた。

「(東條)総理。本艦は戦闘用ではありません。万が一の際は、直ちに…」

艦長が、不満と侮蔑を隠さずに説明する。

「分かっている。艦長は、通常任務を続行せよ。俺は『視察官』だ」

坂上は、赤松秘書官だけを伴い、艦橋の隅で双眼鏡を構えた。

船団は呉を出港し、豊後水道を抜けていく。

(レーダー(電探)は旧式の21号。ソナー(水中聴音機)の精度も劣悪。護衛の海防艦は数隻のみ…これでは、米潜水艦の『ウルフパック(群狼作戦)』に遭えば、ひとたまりもない)

坂上は、この時代の海軍がいかに「対潜戦闘」を軽視しているか、その現実を肌で感じ取り、静かな怒りを覚えていた。

出港して3日目の夜。フィリピン沖。

月はなく、海は墨を流したように暗い。

艦橋は、計器類の微かな光だけが灯る「夜間戦闘配置」が敷かれていた。

坂上は、いつものように珈琲飴を口に入れ、思考を研ぎ澄ませていた。

(敵が出るとすれば、この海域だ)

その時だった。

艦橋の後方、海図室へ続く通路で見張りに立っていた赤松秘書官が、微かな物音に気づいた。

「誰だ!」

暗闇から、二人の男が飛び出してきた。海軍の士官と、整備兵の格好をした下士官。彼らの手には、消火用の斧とスパナが握られていた。

「東條! 国賊め! 貴様のせいで聖戦が汚された!」

「死ね!」

暗殺者だった。陸海軍の強硬派が送り込んだ、狂信者たちだ。

彼らは、東條の「合理主義」を「米英への内通」と信じていた。

「総理、お下がりください!」

赤松が拳銃を抜こうとするが、狭い艦橋で二人の男が斧を振り上げる方が早い。

(ここまでか…!)

東條の貧弱な肉体では、避けきれない。坂上がそう覚悟した瞬間。

キィィィィィィン!!

艦内全域に、耳をつんざくような警報音が鳴り響いた。

電探室からの絶叫が、スピーカーを突き破る。

「敵潜! 敵潜です! 距離8000、右舷前方!」

暗殺者たちの動きが、一瞬止まった。

その一瞬を、坂上は見逃さなかった。彼は東條の肉体ではなく、45歳の「いずも」艦長として反応していた。

彼は、振り下ろされる斧の柄を、体当たりするように潜り抜け、艦長が握っていた艦内通話(インターコム)のマイクをひったくった。

「(東條)総理!? なにを!」

「全艦、取舵(とりかじ)一杯! 船団、散開! 『冲鷹』は風上に立て、哨戒機(九七艦攻)を上げろ!」

それは、東條英機の甲高い声ではなかった。

艦橋の全てを支配する、低く、鋭く、絶対的な指揮官の声だった。

「何をぼんやりしている、艦長! ジグザグ運動最大!」

「て、敵潜は一隻では…」

「一隻だと思うか! 狼(ウルフパック)だ! 囮(おとり)だ!」

坂上は、敵潜水艦長の思考を読んでいた。

(この距離でわざと電探に映った。確実に仕留めるため、別の潜水艦が船団の予想進路に潜んでいる!)

暗殺者たちは、自分たちの「獲物」が、まるで神が乗り移ったかのように艦隊を指揮する姿に、斧を握ったまま立ち尽くしていた。

「哨戒機は、磁気探知機(MAD)を起動! 深度設定150!」

「ば、爆雷投射! パターンA!」(艦長が慌てて命令する)

「違う!」坂上が怒鳴り返す。「パターンA(深深度)では間に合わん! 敵はすでに魚雷を発射し、急速潜航に移っている! 深度設定50! 艦首パターンで撒け!」

「そ、そんな戦術は…」

「やれ! さもなくば、そこのタンカーが沈む!」

「右舷! 雷跡見ゆ!」

見張りの声と、坂上の命令はほぼ同時だった。

「ドォォン! ドゴォォン!」

護衛の海防艦が投下した爆雷が、坂上の指示通りの浅い深度で炸裂した。

数秒の静寂。

そして、夜の海面に、巨大な火柱と重油の塊が浮かび上がった。

「て、敵潜、撃沈…!?」

「まだだ!」坂上はマイクを離さない。「二匹目(セカンド)が来る! 予想進路上の『囮』がやられたのを見て、本命が船団の真下から来るぞ!」

「全艦、水中聴音機(ソナー)最大感度! 『無音潜航』に備えろ!」

艦橋にいた全員が、東條英機という男を、信じられないものを見る目で見ていた。

彼は、まるで海図の底に潜む敵の動きが、すべて「見えている」かのようだった。

「…いた! 艦底直下、微弱音!」

「今だ! 全爆雷、投下!」

激しい水柱が上がり、船団は間一髪で死地を脱した。

夜が明け、海面には二隻分の重油が広がっていた。

米潜水艦のウルフパックを、護衛空母1隻と旧式海防艦数隻で、ほぼ無傷で返り討ちにするという「奇跡」。

艦橋は静まり返っていた。

坂上は、荒い息をつきながらマイクを戻し、いつもの珈琲飴を口に入れようとして、手が震えていることに気づいた。

暗殺者たちは、いつの間にか斧を落とし、その場にへたり込んでいた。

赤松秘書官が、彼らに拳銃を向けたまま、呆然と坂上を見ている。

「…総理」

「冲鷹」の艦長が、震える声で言った。

「あなたは…一体…」

坂上(東條)は、彼らに背を向けたまま、水平線を見つめた。

「…これが、俺が海軍にやれと言っている『対潜戦闘』だ。できていないから、俺がやるしかなかった。それだけだ」

彼の正体への「疑念」と、彼の指揮能力への「畏怖」。

それは、暗殺者たちの「殺意」すらも麻痺させる、異様な空気を生み出していた。

東條英機は、もはや「狂った合理主義者」ではなく、誰にも理解できない「何か」として、味方であるはずの日本軍から恐れられる存在になり始めていた。

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