3.骸の声

 江島清志を捕まえてから、二か月が過ぎていた。


 空気はすっかり夏に変わり、昼のアスファルトは焼けた鉄板みたいな匂いを吐き出していた。夜になっても熱は抜けきらず、署の窓ガラスはわずかに汗をかいている。


 輪島聖司は、第一課の隅にいた。  席はある。けど、居場所じゃない。そんなポジションだ。


 表向きの仕事は「資料整理」。現場にはまだ正式には戻っていない。上は“メンタルの安定観察”とか“再発防止のための制限付き”とか言っているが、要するにこういうことだ――手柄は欲しいが、暴れられると困る。だったら檻の中で使えるだけ使う。そういう扱い。


 輪島は別にそれを不満そうには見せない。むしろ、紙と写真だけあれば十分だと言わんばかりだった。背を丸めてファイルをめくり、人の顔写真に指先で影をなぞり、傷の位置を目で追う。音もなく、呼吸も乱さず、ただ「見ている」。


 真木燈子は、その様子を正面から見たことがある刑事のうちの一人だ。  最初は不気味だと思った。今は、不気味だと思いつつ、それ以上の言葉を探している。


 その朝、無線が入ったのは午前五時過ぎだった。  「県北の廃モーテルに異臭あり。死体の可能性」  そして十分後には、続報が入る。

 「状況が通常じゃない。応援要請」


 真木はコーヒーの紙コップを置いたまま立ち上がった。

 「課長、私が行きます」  

 藤森課長は灰皿にタバコを押しつけ、目も合わせずに言った。

 「第一報とるのはお前だ、真木。……ああ、それと」  

 そこで、わずかに視線を動かし、部屋の隅を見る。  「こいつは置いてけ」


 輪島は、黙っていた。  真木は返事をした。

「了解しました」


 ほんの一拍だけ、視線が交差する。  何も言わないのに、そこに小さな約束みたいなものが生まれるのが、彼女にはわかってしまった。


 ――あんたには、後で全部話すから。


 車を出した。




 現場は県北。県道からさらに外れて、舗装も割れかけた旧道を二キロほど進んだ先、杉林の奥。  そこに、かつて「ホリデー・ハウス」と名乗っていたモーテル跡がある。観光地が死んだあとに残る典型的な廃墟。今は取り壊し予定のまま放り出されていて、夜になると地元の若い連中が肝試しに使っている場所だという。


 真木が到着したころには、入口はもう警戒線で封鎖されていた。制服警官が二人、青い顔で立っている。腐臭が風にのって漏れ出してきていた。


 「第一課、真木です。状況は?」

 「……中、見たほうが早いです」  

 その声は震えていた。新人ではない。震えるくらいに、おかしいということだ。


 廊下のカーペットは湿気でぐずぐずに膨れて、足を踏みしめるたびに嫌な音を立てた。壁紙は剥がれ、天井板は露出した配線をぶら下げている。窓際から落ちる朝の光は白く濁って、空気そのものが黄ばんで見えた。


 問題の部屋は二階の角だ。  ドアは無理やりこじ開けられたように歪み、その隙間からすでに腐った肉と薬品が混ざったような匂いが溢れている。


 真木はマスクを一枚余分に重ね、入った。


 ――息が詰まる。


 部屋の中央のベッドの上に、白いシートがかけられていた。  そこに人影がある。横たわっている。けれど、妙に整っている。妙、というのは、「死体らしさ」がないという意味だ。


 真木は手袋を確認し、そっとシートをめくった。


 「……」


 一瞬、思考が固まる。


 横たわっているのは、ひとりの裸体のように見えた。  だから最初の印象は「綺麗だった」。凄惨さより先に、妙な整い方が目についたのだ。


 だが、おかしいのはそこからだ。  肌の色が、部位ごとにわずかに違う。太ももと下腹部の色味が合っていない。肩のラインに縫合線が走っている。右腕の手の甲だけが、明らかに血管の浮き方も、皮膚の厚さも違う。


 顔も同じだった。  形は端正に整えられていたが、片頬の輪郭がわずかに合っていない。耳たぶだけピアス穴が複数空いている。唇の縁には薄い縫合痕があった。


 別々の人間から切り取られた部位が、縫い合わされて“ひとり”にされている。


 「……これ、誰だよ」


 近くにいた若手刑事が、素で吐き出すように言った。呼吸が荒い。汗がこめかみを流れている。  「ひとり分に見えるけど、バラバラなんです。複数の……人間から」


 真木は震えるまぶたを押さえて、頭を冷やすように一度だけ目を閉じた。  そして、もう一度遺体を見た。


 切り口は乱暴ではない。むしろ丁寧すぎるくらいだった。  皮膚の縫い合わせは、細かい、均一な間隔。素人の“つぎはぎ”ではない。  ただのバラバラ死体ではなかった。これは――


 「作ってる……」


 口の中で、思わず言葉が漏れた。

 「誰かが“理想の身体”を組み立てようとした。そういう形」


 「臓器売買の連中とかじゃないんですか?」

 「違う。売るなら外す。これは繋いでる」


 ベッドの脇の壁には、赤いマーカーのようなものが乱暴に塗られていた。  五芒星のような、魔術の陣のような。だが歪んでいる。線が最後まで閉じられていない。描きかけのまま、途中で止めたようだった。


 それは完成を拒む赤い印に見えた。  あるいは、完成させる勇気がなかった印。


 真木は写真を撮り、吐き気を飲み込んだ。

 「身元確認を急いで。……あと、縫合痕、法医に回して」


 「主任、身元なんですが。顔写真で捜査データ照合したんですけど、ヒットしなくて」

 「そりゃそうでしょ。顔、“ひとつ”じゃないもの」


 言ってから、自分の喉が乾いていることに気づいた。




 昼過ぎ、県警本部・第一課資料室。


 蛍光灯の音だけが響く小さな部屋に、真木は現場写真と経過報告の紙束を抱えて戻ってきた。背中には、現場の匂いがまだ張りついているような気がして、上着を廊下で脱いでから入った。


 部屋の隅には輪島がいる。  机には何も置かず、膝の上でファイルを開いたままページをめくっている。読み方が独特だ。文章を追うというより、写真から文字、文字から日付、日付から傷、というふうに、点から点へ飛ぶ。線で理解していない。匂いのするところだけ嗅いでいく、という感じ。


 「帰りました」と言う代わりに、真木は机に写真を並べた。


 輪島は顔を上げないまま、手だけ伸ばす。

 「見せて」


 真木は一瞬だけためらった。堕落じゃない。これはルール違反だ。現場禁止の人間に現場写真をそのまま見せるのは本来アウトだ。


 でも、あの死体は、普通の事件じゃない。


 写真が一枚、輪島の手に渡る。  それは、首から下の縫合部のクローズアップだった。


 輪島は一拍、無言で見つめた後、低く言った。


 「医者だな」


 真木は少しだけ息を飲んだ。

 「まさか、もうそこまで――」


 「縫い方が綺麗すぎる」  

 輪島は写真の一部を指先で軽く叩いた。まるで画面越しに触れるように。  

「これ、真皮縫合。皮膚の表面じゃなくて、皮膚の内側の層どうしを合わせるやり方だ。表に跡が残りにくい」


 「……整形のときとかにやるやつ」

 「ああ。傷を目立たせたくないときの縫い方」


 「つまり犯人は、医療の知識がある」


 「“知識がある”ね」  

 輪島は鼻で小さく笑った。

 「主任、それは優しい言い回しだよ。これは、毎日縫ってた手だ。慣れてないとここまで等間隔に針、打てない」


 「毎日縫ってた?」

 「たとえば、美容外科とか。整形。傷跡をなるべく消して、『最初からこうだったみたいに』見せる商売」


 真木は一瞬、黙った。  その説明があまりにも冷静で、あまりにも真っ直ぐだったからだ。嫌悪や憤りが挟まない。そこにあるのは分析だけ。分析なのに、触れたことがあるみたいに滑らかだ。


 「……あなた、本当に見ただけでそこまでわかるの?」

 「死体は嘘つかないからね」


 輪島は淡々と続ける。

 「それと、この縫い方。片手でテンションかけて、もう片方で刺してるんじゃなくて、片手の引き具合だけで揃えてる。力のかかる方向が全部一定だ。癖がある。たぶん、どっちかの手に制限がある奴だな」


 「利き手に怪我とか、麻痺とか?」

 「右腕の感覚が鈍い左利き。あるいは、触覚が戻りきってない手術歴。そんなところ」


 ここで真木は、ほんの少しだけ笑った。  疲れきっているときしか出ない、乾いた笑いだった。  「ねぇあんた、医師免許持ってる?」

「持ってないよ」

 「ならその口ぶりは違法」


 輪島は肩をすくめる。 

 「俺、違法得意なんだよ」


 からかうような言い方なのに、目線はぜんぜん遊んでいない。  そのギャップが、この男の危うさだと真木は思う。


 「被害者の身元は?」  

 輪島が問う。


 「そこも厄介で。顔での照合ができない。パーツごとに別人の可能性がある。とりあえず、胴体の腹部の古い手術痕を照会かけてる。帝王切開痕があったら母親の医療記録に繋がるし、整形跡があれば特定のクリニックに繋がるかもしれない」


 輪島は「ふうん」とだけ言い、別の写真を手に取った。それは壁に描かれた赤い印だった。  不完全な五芒星。歪んだ中心。閉じられていない線。


 「これ、なんだと思う?」  

 真木が訊く。


 輪島は少しだけ口角を上げた。

 「“完成させられなかったサイン”だろ」


 「は?」


 「犯人、途中でやめてるよな。最後の線、描き切ってない」

 「うん」

 「途中でやめるってのは、やめたんじゃなくて、“止められた”側の感覚だ」


 真木は眉を寄せる。

 「意味がわからないんだけど」

 「自分が神様のつもりの人間ってさ、基本は最後までやるんだよ。完璧でいたいから。線も閉じる。形にする。それが“支配”だから」  

 輪島は写真を軽く振った。  「でもこの印は未完成だ。途中でビビった、ってより……『まだ終わってない』って宣言に近い」


 「つまり?」

 「次がある」


 その言い方は静かだった。落ち着いているのに、どこか当たり前のようで、冷たい。


 真木は、軽く喉を鳴らした。

 「……二件目が、出るってこと?」


 「“二件目”って考え方は、主任、甘い」  

 輪島は目だけでこっちを見た。

 「たぶん、もう何件もやってる。俺たちが初めて見つけただけだよ」


 その瞬間、真木の背中に冷たいものが走った。


 ◇


 検視の報告が上がったのは夕方だ。


 胴体の縫合部から採取した皮膚サンプルが、県内某クリニックでの施術記録の一部と一致した。  整容外科。一応の診療科目は形成・美容。  院長は三十代後半の男。名前は――


 「一ノ瀬 黎(いちのせ・れい)」


 資料を読み上げながら、真木は無意識に眉間を押さえた。

 「元・大学病院形成外科医。四年前、手術中のトラブルで右腕の神経を損傷。リハビリ後に退職。のち、個人クリニックで開業。『自然な仕上がり』ってネットレビューは高いわね。患者からの評判も、悪くない」


 「右腕を傷めた左利きの外科医か」  

 輪島が静かに言う。

 「ずいぶん親切なプロファイル通りだな」


 だが、そこで止まらなかった。  真木は画面をスクロールし、そのまま一息、黙る。


 「……待って」


 輪島が横顔を見た。

 「どうした」


 「このクリニック、失踪者と接点がある」  

 真木は、紙をめくった。

 「ここ一年で行方不明になっている女性が二名。どっちも、同じクリニックに通ってた。“プチ整形”っていう名目で」


 「名前」


 「橘 美沙(二十三)。モデル志望。スカウト会社の登録有り。もう一人は山岸凛(仮名扱いで活動してたレースクイーン)。どっちも、最後にSNSに上がった“セルフィー”の輪郭が変わってる。“修正アプリ”っぽいけど――たぶん本当にいじってる」


 輪島はその二人の顔写真を並べ、しばらく黙って見た。  一枚の顔と、もう一枚の顔を交互に。まるで比べるんじゃなく、重ねるように。


 「……この医者、楽しんでるな」


 真木は目を細めた。

 「楽しんでる?」


 「『可愛くなるよ』『きれいになるよ』ってさ、言葉にして渡せる力って、中毒性あるだろ」  

 輪島は指先で机を二度軽く叩く。

 「人を『もっと綺麗にしてやる』って約束した人間は、その相手のこと、もう所有した気になってる。あとは“好きにいじってもいい”って、自分の中で勝手に許可が出るんだよ」


 その言い方が、妙に具体的だった。現実の、手触りがある。


 「人を“作り直す”っていう建前があると、壊すことに罪悪感が鈍る。これは、そういう種類のやつだ」


 真木は、無意識に息を止めていた。  その分析は理屈として筋が通っていた。でもそれ以上に――わかりすぎている。わかりたくないところまでわかってしまっている。


 「……あなた、まるで犯人の味方みたいな喋り方するのね」  

 軽く言ったつもりだった。が、少しだけ刺があった。


 輪島はそれを正面から受けて、少し肩で笑った。  「時々じゃなくて、しょっちゅうだろ?」


 真木はそれ以上、言い返せなかった。  なぜなら本当に、そう聞こえたからだ。  彼が“わかる”とき、それはいつも被害者ではなく、加害者側の呼吸の方なのだ。




 捜査は、意外なところで止まった。


 真木は一ノ瀬のクリニックに対して内偵を入れ、行動確認をとった。受付、診療時間外の出入り、裏口の搬入。しかし、露骨なものは出ない。


 家宅捜索の令状を取ろうとしても、課長は渋った。

 「現時点で何が出る。患者情報のカルテの押収だけじゃ世間が騒ぐ。マスコミに“美容整形と猟奇事件”なんて書かれたら、上がうるせぇんだよ」


 「でも、このまま放置したら、次の被害者が出ます」  

 真木は食い下がった。


 「“出る”って根拠は?」  

 課長は冷たかった。

 「お前の勘か。あいつの勘か。……どっちにしても、勘じゃ令状は降りねぇよ」


 真木は歯を食いしばり、部屋を出た。拳を握りすぎて爪が手のひらに食い込んでいることに、あとで気づいた。


 廊下の端、非常灯の下。輪島は壁にもたれ、ポケットに手を入れて立っていた。

 「通らなかったか」


 「あなたの言うとおりよ。証拠不十分」  

 真木は苛立ちを隠さず吐き出した。

「失踪者はいる。遺体はある。医療用の縫合痕は出てる。なのに“状況証拠だけでは足りない”って」


 「足りないよ」  

 輪島は即答した。


 真木は一瞬、睨んだ。

 「あなた、今どっちの味方してるの?」


 輪島は少しだけ息を吐き、声を落とした。

 「怒るなよ。足りないなら、足すしかないってだけだ」


 「どうやって」


 「現行犯」  

 輪島は、あっさり言った。

 「こいつは一回で満足するタイプじゃない。続ける。もう“作品”の途中なんだろ。だったら仕上げに来る場所があるはずだ。そこを押さえる」


 真木は少しだけ眉を動かした。

 「あなた、まるでわかってるみたいに言うわね。その犯人の次の動き」


 「だいたいわかるよ」  

 輪島は目を伏せて笑った。


 その笑い方は優しくも見えるし、悲しくも見えた。  どちらに聞こえるかは、聞く側の問題なんだろうな、と真木は思う。




 その夜。ひとりの女がいなくなった。


 信号工事会社で事務をしている二十代半ばの女性。終業後、友人とメッセージのやり取りをしていたが、二十二時を最後に反応が途絶えた。  監視カメラには、彼女が小さなトートバッグを抱えてクリニック近くの路地に入っていく姿が映っている。そこから先は死角だ。


 「間に合わなかった……」  

 映像を確認しながら、真木は低く言った。


 輪島はその横で、画面を覗き込みながら、ぽつりと言う。

 「いや、間に合ってるよ」


 「どういう意味」


 「まだ“仕上げてない”」


 その直後だ。  別部署経由の通報が入った。  「産業道路沿いの閉院した整形外科ビルに、不審な明かりがある。人影も動いてる」


 場所を告げられた瞬間、真木と輪島の目が同時に動いた。  ほぼ反射で。


 「行くぞ」  

 真木が先に走り出した。


 「いいのか、主任」

 「課長は“休め”って言ったわ。ありがたいことに」            

 「それ、サボりって言うやつだろ」

 「そういうの、あんた得意でしょ」

 「まぁな」


 会話は軽い。だが空気は軽くない。  二人とも、これが“間に合うか間に合わないかの境目”だと分かっていた。




 問題の建物は、国道沿いの二階建ての古い診療所だった。  看板だけが残されたままの「一ノ瀬形成外科」。今は表向き「移転済み」となっている建物だ。


 ガラス戸はシャッターが半分だけ下りた状態。鍵はかかっていない。正面の明かりは切れているが、奥の廊下だけが細く白く灯っている。非常灯にしては明るすぎる。


 真木は腰のホルダーに手をかけ、視線だけで輪島に合図した。  輪島は工具も何も出さない。ただ、シャッターの隙間に指をかけ、音を立てずに引き上げる。動きに無駄がない。最初からこういうことを何度もやってきた人間の手つきだった。


 ふたりは中に滑り込む。


 1階は受付と待合。  だが受付カウンターの仕切りが壊され、奥に無理やり作られた通路が養生シートで隠してある。  奥からは、金属のこすれる音。水が滴る音。低いハミングのようなものまで聞こえる。


 真木は喉の奥の緊張を押し殺しながら、囁いた。    「今ならまだ引き返せるわよ」


 輪島は小さく笑った。

 「俺はまだ入ってすらいないってのに」


 「そういう意味じゃない」


 その言葉に、輪島は一瞬だけ目を細めた。  真木は小さく首を振る。それ以上は、言わないという合図でもあった。


 奥のドアを開ける。


 冷たい空気が、いきなり肌にまとわりついた。  ――薬品と鉄と、血。生きている人間には本来ついていない匂い。


 処置室だったはずの部屋は、もう病院ではなかった。  明らかに家庭用ではない冷凍ストッカー。ステンレスのトレイがずらりと並んだ棚。そこに置かれているのは、包帯で巻かれた“何か”。  壁のフックには透明の型がぶら下がっている。顔のシリコン型。鼻から顎のラインまでが滑らかに抜かれていて、一つひとつ微妙に違う。


 手術台には、若い女が固定されていた。  意識はある。口に詰め物をされていて声にならない。目は涙でいっぱいに濡れて、必死にこちらを見ている。


 そのすぐそばに、白衣の男がいた。  眼鏡。整った顔。  右腕をややかばうような持ち方。左手に持っているのは医療用の縫合器具と鉗子。


 「はじめまして」  

 真木が声をかけた。

 「県警捜査一課、真木燈子。あなたが一ノ瀬黎先生で間違いないですね」


 男は振り向き、少しだけ眉を上げた。  驚き、というより興味の光だった。

 「……もう少しで完成だったんですが。困りますね」


 「完成?」  真木は低く繰り返した。

 「何を、完成させるつもりだったんですか」


 「彼女を」  

 一ノ瀬は穏やかな声のまま言った。

 「彼女はずっと、自分の顔を嫌っていたんですよ。“私なんて”“どうせ”って。醜いっていう言葉は、傷なんです。だから私は直してあげる。もっといい目、もっといい口、もっと滑らかな首筋。美しくしてあげる。欠陥をなくしてあげる。それは医療でしょう?」


 輪島が口を開いた。

 「医療っていうには、だいぶ手癖が悪いな、先生」


 一ノ瀬は、輪島を見た。  そして、瞳の色がほんの少し変わる。認識した、という色だ。


 「あなた、面白い目をしてますね」

 「よく言われる」

 「普通じゃない」

 「そっちもな」


 真木がわずかに輪島を制するように左手を上げる。  輪島はそれを見て、少しだけ肩をすくめる。黙る気はないらしい。


 「先生さ」  

 輪島は、一ノ瀬から視線をそらさずに続けた。  「“直してあげる”って言葉、便利だよな」


 「当然でしょう。患者さんは皆、治りたがってる」

 「いや」  

 輪島は首を横に振った。

 「それ言った瞬間から、そいつはもう『自分の所有物』だろ。お前の中ではさ」


 ほとんど会話のテンポは穏やかだ。  でも、ことばは真っすぐ刺さっていく。


 「だから手を入れるのに罪悪感がない。『俺が直してやってるんだから』って理由を先に置いちまえば、あとは何しても自分の中で正しい。違うか?」


 一ノ瀬の口元から、笑みが消える。


 「あんた何者だ」  低い声だった。


 「俺? 」  

 輪島は目を細め、少しだけ肩で笑った。

 「壊れた側。長くやってんの」


 真木は横目で輪島を見る。  それは嘘ではない気がした。けど、何を指して“壊れた”と言ってるのか、彼女はまだ知らない。


 一ノ瀬はわずかに息を吐き、そして首を振った。  「わからない人間ですね。……でもどのみち、邪魔です」


 次の瞬間、彼は左手だけで縫合器具を投げた。  反射的に真木が身を引く。器具が壁に当たって跳ねる。その隙に、一ノ瀬は処置台の脇に隠していた細身のメスを拾い、距離を詰める。


 速い。利き手じゃないはずなのに、迷いがない。


 狙いは真木だと判断した瞬間、輪島はもう動いていた。


 踏み込みは低く、最短距離。手首を狙わず、肩口を掴む。相手のバランスをわざと崩し、自分の体重ごと壁に叩きつける。音が鈍く響く。メスが床を転がる。


 一ノ瀬の背中から息が漏れた。  輪島は逃さず、肘で関節をロックし、体重をかける。


 「やめとけ、先生」  

 声は低い。怒鳴らない。


 「やめろ、離せ、君に何が――」

 「何がわかる、だろ?」  

 輪島は淡い笑い方をした。

 「わかんねぇよ。俺たちは神様じゃない。だから“直す”なんて言葉、軽々しく使っちゃいけねぇんだよ」


 一ノ瀬の表情が、初めて揺らいだ。  それは怒りじゃない。混乱だった。

 「俺は、治してやってるんだ。彼女たちを。壊すつもりなんかない」


 「そう思ってんのは、お前だけだよ」  

 輪島は、押さえつけながら静かに囁いた。

 「お前が満足した瞬間、相手は壊れるんだ。そこがわかんねぇなら、もう医者じゃない」


 一ノ瀬の体から力が抜けた。


 その瞬間、真木が女性被害者の口の詰め物を外した。女はしゃくりあげながら息を吸い、喉を震わせた。生きている。




 取り調べ室。  強い光の下で、一ノ瀬黎はしばらく口を開かなかった。手錠のかかった手はテーブルの上で落ち着きなく震えている。


 やがて、彼はぽつりぽつりと話し始めた。

 「最初は、ほんの少しだったんです。目の下のクマを取るとか、鼻筋を通すとか。それだけで、みんな笑うんですよ。“生まれ変わったみたい”“先生は魔法使いだ”って」


 「それが、嬉しかった?」  

 真木が問いかける。


 「嬉しいなんてもんじゃない。支配できる。あの子たちの人生を、俺が変えてやれる。神様みたいに」


 「だから次は、もっといじりたくなった」  

 輪島の声は淡々としている。  あくまで事実の確認だというふうに。


 「……そうだ。だってみんな、まだ歪んでるんだ。生まれつきの素材なんて不公平だ。醜いまま死ぬなんて、かわいそうじゃないか。だから俺が直す。神がやり損ねたところを、俺が仕上げる。それは、善意だ」


 彼はそこで初めて、首をひねるようにこちらを見た。  

「なのに、なんで俺が責められる?」


 真木は言葉を探した。  喉の奥まで上がってこない。怒りや呆れや嫌悪より先に、虚しさのほうが勝って、言葉にならない。


 代わりに輪島が口を開く。

 「善意ってのはな、便利なんだよ。なんでも包むから」


 一ノ瀬が睨む。

 「君に何がわかる」


 輪島は少しだけ肩をすくめて、笑った。

 「わかんねぇよ。俺は医者じゃない。ただ――」


 そこで言葉を切る。  いつもよりほんの少しだけ柔らかい声で、続ける。


 「人間ってのはさ。『直してやる』って言葉で、いちばん簡単に壊れるんだよ」


 一ノ瀬の視線が崩れた。  そのまま、彼は項垂れた。




 深夜。  捜査一課のフロアには、もうほとんど人が残っていなかった。


 課長室では今も怒号が飛んでいるはずだ。令状なしで建物に入った件、危険な接触、勝手な同行。  そのどれも、明日には対外的に言い訳をつけて処理されるだろう。なぜなら、被害者は確実に救助されたし、犯人は確保され、自白も得た。マスコミに出す“正義の物語”はもうできている。


 真木はデスクに腰をおろし、深く息を吐いた。  目の奥がまだ熱い。現場の匂いが鼻の奥から抜けない。


 「疲れた?」  

 声がした。


 顔を上げると、輪島が隣のデスクに座っていた。  足を投げ出すでもなく、ふざけるでもなく、ただそこにいる。妙に自然に。


 「当然でしょ」

 と真木は言った。

「こっちは違法スレスレの現場踏んできたのよ。あなたのせいで」


 「俺のせい?」

 「あなたが焚きつけたんだから」

 「焚きつけてないよ。方向を示しただけ」

 「それを焚きつけるって言うの」


 輪島は口の端だけで笑い、視線を落とした。  しばらく黙ったあと、ぽつりと口を開く。


 「真木」


 はじめて、名前で呼ばれた。  敬称も役職もつかない。違和感よりも、少しだけ距離が近づいた実感が、不意に胸に触れた。


 「ん」  

 真木もそれに合わせるように短く返す。


 輪島は、机の上の書類をぱらぱらとめくりながら言った。

 「お前、今日の現場で、あの医者の目を見たとき。少しだけ固まったろ」


 「……そうね」  否定はしなかった。


 「あれ、多分な。お前、自分のこと一瞬疑ったんだよ」


 「は?」  反射的に睨む。


 輪島は、少しだけ肩を揺らして笑った。

 「お前、あいつの『助けてやってるだけだ』って言い訳を、本気で信じそうになったろ。ほんの一瞬」


 「……」


 「信じかけて、ゾッとして、止まった。違うか?」


 真木はしばらく黙っていた。  答えたくなかった。けど、嘘をつく気にもなれなかった。


 「……そうね」  小さな声で言った。

 「たしかに一瞬、“彼はただ、助けたいだけなんじゃないか”って思った。あの人なりの、歪んだやり方で。だから、怖くなった」


 輪島は、ゆっくりと頷いた。

 「それでいいよ」


 「よくないわよ」


 「いいんだよ。それが、お前が刑事でいられる証拠だから」


 真木は瞬きをした。

「どういう意味」


 輪島は椅子からゆっくり立ち上がり、背を向けかけてから言った。


 「なぁ。誰だって、壊すときに『これは直してるだけだ』って言い訳するんだよ。あの医者もそうだし……俺もそうだ」


 真木は息を止めた。


 輪島は続けた。

「でもお前は、それを“怖い”ってちゃんと感じる。そこで止まれる。そこで戻れる」


 「……あなたは?」  喉の奥から勝手に出た質問だった。


 輪島は振り返らなかった。  少しだけ笑った声だけが返ってきた。


 「俺はさ。止まる前に、もう一歩踏んじまうタイプなんだよ」


 真木は何も言えなかった。


 輪島は片手を軽く上げ、歩き出す。

 「今日はもう休め。明日からはまた真面目な顔で『偶然通りかかったんです』って言えばいい」


 「それ、あなたの台詞でしょ」  

 自分でも驚くくらい、口調が軽くなっていた。


 輪島はそこで初めて、彼女のほうへ視線を返した。  目が細い。少し笑っているのに、どこか寂しそうでもある。光の届かない深いところに、何か沈んでいる。


 「真木」  「なに」


 「お前が止めないと、俺はそのうち戻れなくなる」


 真木の喉がきゅっと鳴った。  言葉が出てくるより早く、輪島は背を向け、そのまま廊下の奥へ消えた。


 静寂だけが残る。  蛍光灯の下の紙の白さが、やけに冷たかった。


 真木は独り言のように、机に向かって呟いた。


 「……あんたは、壊す側なのに、どうしてそんな顔してるのよ」


 返事は、もちろんなかった。

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