2.復帰

雨上がりの朝。

 県警本部の玄関に、濡れた靴音が響く。


 「……嘘だろ、輪島じゃねぇか。」

 「飛び降りたって聞いたぞ。」

 「死に損ないが。」


 囁きが背後から追ってくる。

 輪島聖司は振り返らない。

 手に持った復職届の封筒を軽く指で弾きながら、無言で廊下を進む。


 光沢のない廊下。

 壁に貼られた表彰状。

 記憶にあるはずの景色だが――何ひとつ、懐かしさはなかった。



---


 「課長、輪島が……。」


 捜査第一課のドアを開けると、室内が一瞬静まった。

 古い蛍光灯の光の下、誰もが動きを止める。


 「……おいおい、まじで来たのかよ。」

 「こえぇ……死人が歩いてる。」


 輪島はその中を無言で進み、机の上に書類を置いた。

 「復職届けです。」


 課長の藤森が、煙草を押し潰しながら顔を上げた。

 「よく戻って来れたな。誰が許可した?」


 「医師です。」

 「笑えねぇ冗談だな。」


 藤森は手を組み、冷たく言い放つ。

 「お前のせいで、一人の人生が狂ったんだぞ。

  “誤認逮捕”って言葉、もう忘れたか?」


 輪島は静かに答えた。

 「忘れました。」


 空気が止まる。

 藤森の眉間に皺が寄る。

 「……開き直るつもりか。」

 「記憶喪失の後遺症、というやつかもしれません。」


 課長は鼻で笑った。

 「“勤務”はしても“捜査”はさせん。お前が関わると死人が増える。」


 室内の空気が一段冷える。

 若い刑事が、わざと聞こえるように笑った。

 「お帰りなさい、“飛び降り刑事”さん。」室内に乾いた笑いが起きた。


 輪島は、聞こえなかったふりをした。

 他人の記憶に興味はない。

 この身体が何をし、誰を傷つけたのか――それは“前の住人”の話だ。



---


 「おい真木。」

 課長が声を上げた。

 部屋の奥から、若い女刑事が立ち上がる。


 「今日からこの輪島の監督はお前に任せる。」

 「了解しました。」


 真木はまっすぐ輪島の方を見た。

 黒髪を後ろで束ね、瞳だけが妙に強い。


 「初めまして。……主任の真木燈子です。」

 「上司、ということですか。」

 「そういうことになります。」


 輪島はわずかに口角を動かす。

 「主任が女とは、時代が変わりましたね。」

 「“女”だから主任になれたと思うなら、時代遅れです。」


 課内にわずかなざわめきが走る。

 真木の口調には棘がない。

 ただ、空気を真っ直ぐ切り裂くような冷静さだけがあった。


 藤森が手を振った。

 「真木、こいつは現場禁止だ。

  机仕事だけさせとけ。余計な真似をさせるな。」

 「了解です。」


 輪島は淡々と一礼した。

 「命令には従います。」


 だが、その声に「従う意志」はなかった。



---


 翌日。

 庁舎内にアナウンスが流れる。


 『県南区のワンルームで女性死亡。強盗致死の疑い。』


 「真木、初動行け!」

 「了解!」


 真木は数名の刑事を引き連れ、すぐに庁舎を出た。

 輪島はその様子をデスクから静かに見送る。





 ──事件は、想定よりも重かった。


 被害者は二十代後半の女性。

 人気動画配信者“白川 美咲”。

 室内は荒らされ、財布が消え、玄関には争った形跡。


 真木は現場を見渡し、腕を組む。

 「……強盗にしては、荒らし方が雑すぎる。」


 同行していた刑事が答える。

 「最近、闇バイトが流行ってるだろ?

  下手な素人なら、こんなもんだ。」


 「でも、これは……誰かを見せしめにしてる。」


「おい真木、余計なこと言うな。現場を濁らせる。」


真木は応えず、しゃがみ込む。

被害者の顔に視線を落とし、カメラのシャッターを切った。


「……目が潰されてる。」


「殴打の痕だろ。」

「違う。押し込まれてる。

 “自分を見た目”を消したかったんでしょう。犯人の方が。」



---


 数日後。

 事件は一向に進展しなかった。

 県警は依然として「強盗致死」として処理を進めている。


 夜、資料室。

 真木が事件記録を整理していると、背後から声がした。


 「主任。少し、いいですか。」


 輪島だった。

 彼は机に手を置き、淡々とした声で続けた。


 「例の強盗致死、少し気になりまして。」

 「課長の命令、覚えてますよね。あなたは現場禁止。」

 「ええ。ただ、話を聞くだけです。異動したばかりの主任なら、

  色のついていない意見が聞けると思いまして。」


 真木は椅子から身を乗り出した。

 「色のついていない、ね。

  つまり、あなたの周りの連中は全員“濁ってる”と?」

 「事実です。……ここの連中は手柄欲しさに盲目的だ。」


 「なるほど。何が知りたいんです?」

 「遺体の損傷、あの様子で強盗は無理がある。

主任は本当に強盗だと思いますか?」


 真木は一瞬、言葉を止めた。

 「現場にいなかったはずなのに、ずいぶん具体的ですね。」

 「報告書は誰でも見られます。」


 短い沈黙。

 輪島は視線を外さないまま、声を低くした。


 「これは“強盗”じゃない。

  感情が入ってる。……犯人は、被害者を知ってる人間です。」


 真木の目が鋭くなる。

 「あなた、誤認逮捕の噂とは随分違う観察眼ね。」


 輪島は肩をすくめ、淡々と答えた。

 「ただの強盗がここまでする訳が無い。」


 「そうね、それは私も同意見よ。」

 「間違いなく感情が絡んでる。」


 真木は息を整え、資料を閉じた。

 「……いいでしょう。あなたの“想像力”、しばらく観察してみます。」


 「それは光栄だ。主任。」


 輪島は軽く頭を下げ、背を向ける。

 ドアの前で立ち止まり、ぼそりと呟いた。


 「主任、被害者の周囲を洗ってください。

  ファン、支援者、配信仲間。

  アーカイブの中に、“足跡”があるはずです。」


 真木の手が止まる。

 振り向いたときには、輪島の姿はもうなかった。

被害者・美咲の部屋に残されたノートPCは、事件翌日にはサイバー犯罪対策課に送られた。

 報告が上がるまでの数日、真木は一人で別の線を追っていた。


 ――輪島の言葉を、確かめるために。



---


 深夜の署内。

 モニターの光が真木の横顔を青く染めている。

 アーカイブ映像の一覧を開き、彼女は再生ボタンを押した。


 “晩酌雑談”“眠れない夜に”“工場あるある配信”。

 どれも取り留めのない内容だが、コメント欄の一角に異様な存在があった。


 〈Seiji_w〉


 名前は毎回トップに表示され、額も桁違いだった。

 一度の配信で五十万円。

 総額――三百万円を超えるスパチャ履歴。


 「……個人でこの額?」

 真木は眉を寄せた。


 コメントはやたら丁寧で、感情が重い。

 『今日もおつかれ』『笑っててくれてよかった』

 『他の男のコメントには返さないでほしい』

 『俺は本気で守りたいだけだ』


 そして事件のあった翌日――このアカウントは完全に削除されていた。



---


 翌朝、真木は被害者のマネージャーを訪ねた。

 雑居ビルの一室、配信グッズの箱が山積みになっている。


 「“Seiji_w”という名前に心当たりは?」

 「ええ……。本人が少し話してました。“職場の人かもしれない”って。」


 「職場?」

 「ええ、機械部品の工場です。県内の。辞めたのは今年の春ごろ。」


 真木はメモを取る。

 「辞めた理由は?」

 「セクハラと、陰口。あと、夜勤明けに配信してるのをバカにされたとか……。

  それに、“一人、しつこい人がいる”って。」


 「名前は?」

 「聞いてません。でも、“私の配信全部見てる”って言ってました。」



---


 夕方。

 資料室に残っていた真木のデスクに、輪島が無言で立っていた。


 「主任、顔つきが変わりましたね。……何か見つけた?」


 真木は数枚の資料を差し出した。

 「被害者のスパチャ履歴。“Seiji_w”――あの名前、やっぱり職場関係者でした。」


 輪島が手を止める。

 「やはり、被害者の知人ですか。」


 「ええ。勤務先は県内の『渡良機工』。機械部品の製造工場です。

  彼女は春に退職していて……しかもその工場、ここ二か月で二人が“事故死”してます。

  どちらも夜勤中のプレスライン作業員。」


 輪島の視線が、わずかに鋭くなった。

 「二か月で二人。偶然とは言い難いですね。」


 「表向きは“機械の誤作動”。でも、どうも腑に落ちません。」

 真木は言葉を選ぶように続けた。

 「亡くなった二人、どちらも同じ班で働いていたそうです。」


 輪島が静かに頷いた。

 「……なるほど。線が、一本繋がったな。」


 「けど、これだけじゃまだ仮説にすぎません。」

 「仮説でも、動く価値はあります。主任。」


 真木は目を細めた。

 「あなた、最初からこの方向を読んでたのね。」


 「勘です。人間の“歪み”は、案外単純な構造をしている。」


 その言葉に、真木は一瞬だけ息を飲んだ。

 輪島の声は淡々としていたが、そこには妙な熱があった。


 「……なら、確かめてみます。実際に。」


 「お願いします。主任の“現場勘”を、見せてください。」


 真木は軽く頷き、資料を抱えて立ち上がった。

 彼の視線を背に受けながら、心の奥で小さなざわめきが生まれる。


 ――この男の“勘”が当たっているとしたら。

 何か、取り返しのつかないものが見える気がした。


 翌日。

 真木は単独で「渡良機工」を訪れた。

 地方の幹線道路沿い、煙を吐く灰色の建屋。

 工場長は頭を下げたが、どこか腑に落ちない笑顔をしていた。


 「事故については、警察にも報告済みです。

  あくまで機械の誤作動で……」


 「二か月で二人死んでるんですよ。

  “誤作動”で済ませるには多すぎます。」


 真木は声を落とした。

 「亡くなった二人の共通点を教えてください。」

 「どちらも夜勤のライン作業員で……、ええと……確か、同じ班に――」


 工場長の言葉が止まる。

 「誰と?」

 「……江島という者がいまして。」


 「江島?」

 「ええ、まだ二十代前半の若い子です。

  内気で、口数が少ない。被害者たちとはあまり馴染んでなかったようで。」


 「事故当日の勤務は?」

 「夜勤でした。ですが、現場は別棟で……。」


 「つまり、完全なアリバイではない。」

 「い、いえ……記録上は夜勤に入っていたと……。」


 真木は軽く頷いた。

 「ありがとうございました。」


 工場を出ると、風の匂いに油と鉄の味が混じっていた。

 遠くでプレス機の音が響く。

 ――それが、誰かの息遣いに聞こえた。



---


 夜。

 署に戻った真木は、輪島のデスクに報告書を置いた。


 「該当者がいました。江島清志(えじま・きよし)。

  二十四歳、ライン作業員。被害者と同じ班。

  性格は内向的で、職場でも孤立していたそうです。」


 輪島は資料をめくりながら、静かに言う。

 「……繋がったな。

まるで、俺の頭の中を具現化したような人間だ。」


 「何?」

 「卑屈で、内向的で、誰にも認められず。

  それでも“自分だけが正しい”と思っているタイプ。

  ――一度、何かを壊したときの快感を知れば、戻れない。」


 輪島は笑みを消し、短く言った。

 「主任。夜、同行してください。」

 「夜?」

 「工場は二十四時間稼働している。

  今夜も彼は夜勤だ。

  そいつが人を殺せる人間か確かめる必要がある。」


 真木は一瞬だけ迷った。

 本来なら上に通すべきだ。

 だが、輪島の目を見た瞬間、胸の奥にざらついた違和感が広がった。

 冷たいのに、どこか熱を帯びた瞳。

 それは、“ただの刑事”のものではなかった。


 あの目は、事件を追う者の目じゃない。

 ――人を“見抜く”目だ。

 いや、“見抜いて、壊す”目。


 警察官としての理性が警鐘を鳴らしている。

 この男を野放しにしてはいけない。

 だけど、もう一つの声が囁く。

 ――見てみたい。

 彼が、何を見ているのか。


 「……わかった。ただし、私の指示に従うこと。」

 「もちろん。」


 輪島の声は静かだった。

 だが、その静けさの奥で、かすかに何かが笑った。


 真木は輪島が立ち去った後もしばらく動けずにいた。

 手元の資料の活字が、ぼやけて見える。

 “誤認逮捕”“飛び降り”“記憶喪失”。

 そのどれもが、今の彼には当てはまらない気がした。


 ――何者なの、この人。


 彼と関わることで、事件が進む。

 でも同時に、自分の中の“何か”も壊れていく気がする。


 その夜、真木は初めて仕事机に手をついたまま、

 自分の鼓動の速さを意識した。

夜十時過ぎ。

 渡良機工の敷地は、昼間よりも息苦しかった。

 雨上がりの湿気と鉄の匂いが混じり、地面には細かい油の膜が光っている。

 工場の外壁は無機質な灰色。

 どこからともなく聞こえるプレス機の衝撃音が、心臓の鼓動と重なる。


 真木は、ゲート前で防犯灯に照らされながら輪島を振り返った。

 「……無断で入るのは違反です。

  あなたが“勤務中の刑事”である以上、記録に残りますよ。」


 輪島は無言のまま、煙草を咥え、火を点ける。

 オレンジ色の火が、瞳の奥を一瞬だけ照らした。

 「俺は“復職”しただけで、“現場復帰”はしていません。

  つまり――“職務外の見学者”です。」


 「屁理屈ね。」

 「主任、屁理屈でしか真実に近づけない時もあります。」


 輪島は煙を吐き、灰を指先で落とす。

 その仕草が妙に丁寧で、逆に不気味だった。


 「で、江島清志。勤務は二十二時から翌六時。

  担当ラインは第3棟のプレス機前。

  ……主任、もし彼が“本物”なら、ここで何かが起きます。」


 「本物?」

 「“殺せる人間”かどうかって意味です。」


 真木は眉を寄せた。

 「あなた、何をしに来たの?」

 「観察です。」

 「誰を。」

 「彼を。そして――俺自身を。」


 その言葉の意味を、真木はすぐには掴めなかった。

 けれど、輪島の横顔には“覚悟”ではなく“興味”があった。

 まるで実験を前にした科学者のような、淡い高揚。


 「主任。」

 「何。」

 「もし、俺が間違っていたら……今夜は何も起こりません。

  でも、もし正しかったら――“人間の境界”を見せてあげます。」


 真木は答えなかった。

 冷たい風が吹き、制服の裾がはためく。

 工場の門が開く音が、どこか遠くで響いた。


 鉄の匂いが濃くなる。

 夜が、静かに口を開けた。

夜十時過ぎ。

 渡良機工の敷地は、昼間よりも息苦しかった。

 雨上がりの湿気と鉄の匂いが混じり、地面には細かい油の膜が光っている。

 工場の外壁は無機質な灰色。

 どこからともなく聞こえるプレス機の衝撃音が、心臓の鼓動と重なる。


 真木は、ゲート前で防犯灯に照らされながら輪島を振り返った。

 「……無断で入るのは違反です。

  あなたが“勤務中の刑事”である以上、記録に残りますよ。」


 輪島は無言のまま、煙草を咥え、火を点ける。

 オレンジ色の火が、瞳の奥を一瞬だけ照らした。

 「俺は“復職”しただけで、“現場復帰”はしていません。

  つまり――“職務外の見学者”です。」


 「屁理屈ね。」

 「主任、屁理屈でしか真実に近づけない時もあります。」


 輪島は煙を吐き、灰を指先で落とす。

 その仕草が妙に丁寧で、逆に不気味だった。


 「で、江島清志。勤務は二十二時から翌六時。

  担当ラインは第3棟のプレス機前。

  ……主任、もし彼が“本物”なら、ここで何かが起きます。」


 「本物?」

 「“殺せる人間”かどうかって意味です。」


 真木は眉を寄せた。

 「あなた、何をしに来たの?」

 「観察です。」

 「誰を。」

 「彼を。そして――俺自身を。」


 その言葉の意味を、真木はすぐには掴めなかった。

 けれど、輪島の横顔には“覚悟”ではなく“興味”があった。

 まるで実験を前にした科学者のような、淡い高揚。


 「主任。」

 「何。」

「もし、俺が間違っていたら……今夜は何も起こりません。

  でも、もし正しかったら――“人間の境界”を見せてあげます。」


 真木は答えなかった。

 冷たい風が吹き、制服の裾がはためく。

 工場の門が開く音が、どこか遠くで響いた。


 鉄の匂いが濃くなる。

 夜が、静かに口を開けた。



---


 第三棟へ続く渡り廊下は、照明の半分が切れていた。

 油の染みついたコンクリートを踏むたびに、靴底がぬるりと滑る。

 機械の駆動音が一定のリズムで鳴り響き、時折、金属がぶつかる高音が混じる。

 まるで、巨大な心臓の鼓動の中に入り込んだようだった。


 真木は手帳を開きながら、低く言った。

 「江島清志――二十四歳。夜勤歴一年半。事故死した二人と同じライン。

  勤務態度は真面目。トラブルもなし。……ただ、休憩時間になると誰とも話さない。」


 「孤立している人間ほど、“何か”を抱えている。」

 輪島が短く返す。

 その声は静かだが、どこか甘い響きを帯びていた。


 「主任。あなたは“静かに狂っていく人間”を見たことがありますか。」


 真木は目を向ける。

 「どういう意味?」


 「最初は小さな不満です。

  理不尽に怒鳴られ、馬鹿にされ、笑われる。

  でも、心のどこかで“自分の方が上だ”と信じ続ける。

  そしていつか、証明したくなるんです。

  ――“自分は間違ってなかった”って。」


 輪島の横顔は、まるで祈りを捧げているように穏やかだった。

 その穏やかさが、真木には恐ろしく見えた。



---


 第三棟の扉を開くと、熱と油の臭気が顔にぶつかった。

 中では数人の作業員が黙々とラインを見守っている。

 蛍光灯のちらつく光の下で、プレス機が重い音を立て続けていた。


 「主任、あそこです。」

 輪島が顎で示した。

 ラインの端、黙々と機械に手を入れている男――江島清志。


 細身で、背中がやけに丸い。

 顔の下半分をマスクで覆い、視線を常に足元に落としている。

 だがその仕草には、どこか“他人の存在を排除する癖”があった。


 真木はゆっくりと歩み寄り、声をかける。

 「江島清志さんですね。県警の真木です。

  少しお話、いいですか。」


 江島は一瞬だけ手を止めた。

 マスク越しにかすれた声が返る。

 「……何の用ですか。」


 「美咲さん――以前、同じ班で働いていた女性のことで。」

 その名前が出た瞬間、江島の肩がわずかに跳ねた。

 だが、すぐに無表情に戻る。


 「仕事中なんで。話なら明日、会社を通してください。」


 「これは明日に回せない話です。」

 真木が一歩踏み出す。

 しかし輪島が、その肩を軽く押さえた。


 「主任、少し私に任せても?」


 真木は短く頷く。

 輪島はゆっくりと江島の前に立ち、笑みを浮かべた。


 「なあ江島、夜勤ってさ、楽だろ? 人いねぇし、監視もゆるい。

  誰にも見られねぇから、いろんなことできる。……なあ?」


 江島の肩がわずかに震える。

 真木は後ろで息を止めた。輪島の声には、**理屈じゃなく“喧嘩の勘”**があった。


 「でもお前、ムカついてんだろ? あの女に。

  自分をバカにして、笑って、他の男と“お疲れ様~”とか言ってよ。

  あの顔、頭に焼きついてんじゃねぇの?」


 江島が小さく呻く。

 輪島はさらに一歩踏み出し、靴先で落ちていたナットを蹴り飛ばす。

 金属音が響き、全員がびくりとした。


 「俺だったら、ムカついて眠れねぇな。

  金出して、笑われて、それで“いい人”扱いされるんだぜ? 舐められてんだよ、お前。」


 「やめろ……」

 「やめねぇよ。だってお前、ずっとそれ言われたかったろ?

  “お前、かわいそうだな”って。

  でも本当は、“見返してぇ”だけなんだろ。」


 江島の呼吸が荒くなる。

 輪島の声が低く、笑いを含む。


 「なぁ江島。“事故”って言葉、便利だよな。」


 「黙れッ!!」

 怒号が弾ける。


 空気が、止まった。

 江島の喉が、ごくりと鳴る。

 真木が息を呑んで一歩踏み出した、その瞬間――


 ライン奥の機械が突然、異音を立てて停止した。

 ブザーが鳴り響き、赤い警告灯が回る。

 油の臭いが、焦げた金属臭に変わる。


 「……主任、危ない。」

 輪島が腕を伸ばし、真木の肩を引き寄せる。

 プレス機のすぐ横で、鉄板が滑り落ちた。

 その下に、江島の工具が転がっている。


 真木は息を荒げながら、輪島の胸を押しのけるように離れた。

 「今の……!」

 「試したんですよ。」

 輪島は静かに答えた。

 「彼が“次に誰を狙うか”。――そして、“どこまで我慢できるか”。」


 真木の胸に、言葉にならない嫌悪が広がる。

 だが同時に、理解もあった。

 ――輪島は、“嘘”を吐いていない。


 江島は、確実に反応した。

 目の奥に、確かな“殺意”があった。



---


 輪島はゆっくりと江島に歩み寄る。

 「もうやめよう、江島くん。君は十分に証明した。」


 「何を……?」

 「君が“殺せる人間”だということを。」


 江島の表情がひび割れる。

 次の瞬間、彼は工具を掴み、振りかぶった。

 真木の悲鳴が空気を裂く。


 輪島の身体が一歩、わずかに沈む。

 そのまま手を伸ばし、江島の腕を絡め取った。

 力を流す。崩す。倒す。

 床に響く金属音とともに、江島の体が倒れた。


 真木はすぐに手錠を抜き、江島の両手を押さえつける。

 抵抗はない。ただ、涙のような汗がマスクの下から滴り落ちていた。


 「……俺は、悪くない。俺は、守りたかっただけだ。」


 「誰を?」輪島が問う。

 「ミサミサを。あいつ、俺を笑った……。俺が送った金で笑ってたくせに……。」


 江島の言葉は次第に濁り、嗚咽に変わる。

 その姿を見つめる輪島の瞳は、どこまでも無表情だった。


 「主任。」

 「何。」

 「人は、壊れた瞬間にしか“自分”を晒せない。」


 真木は答えなかった。

 彼女の胸には、冷たい恐怖と、抑えきれない理解が同時に生まれていた。

 輪島のやり方は倫理を踏み越えている。

 けれど――結果として、彼は真実を引きずり出した。


 遠くで警報が止まり、機械の音が再び戻る。

 夜勤のリズムが、何事もなかったように再開された。


 輪島は煙草を取り出し、火をつける。

 炎の色が、赤い警告灯の残光と混ざって揺れた。


 「主任。これでわかりましたね。」

 「……何が。」

 「人は、殺す準備を整えた時だけ、目が変わる。」


 真木は静かに輪島を見つめた。

 その横顔は、まるで“狩りを終えた獣”のように静かで、満ちていた。


 夜が、ゆっくりと閉じていく。

 そして、輪島という人間の中で、何かが確実に目を覚ましていた。

翌朝。

 渡良機工での事件は、正式に「殺人事件」として立件された。

 容疑者・江島清志は取調べで全面自供。

 被害者・美咲を恨み、二人の同僚を“事故”に見せかけて殺害していたことを認めた。


 だが――署内は静かではなかった。


 「おい、マジであの方法で自白取ったのか?」

 「監視映像、見たか? あれは“尋問”ってレベルじゃねえぞ。」


 ざわめく捜査一課の中で、輪島は一人、机の上で報告書を整えていた。

 まるで自分には関係がないという風に。


 課長の藤森が怒鳴る。

 「お前、またやらかしたな。録音に全部残ってんだぞ。“やってみろ”“証明してみろ”だと?

  あれは脅しだ! 下手すりゃ冤罪扱いになるんだぞ!」


 輪島は書類を閉じ、落ち着いた声で答えた。

 「事実を引き出しただけです。

  彼は、話したがっていましたから。」


 「屁理屈言うな!」

 藤森が机を叩く音が響く。

 その中で、輪島はわずかに口の端を上げた。


 「じゃあ課長、どうすればよかったんです?

  “優しく話を聞く”だけで、犯人は罪を認めますか。」


 その瞬間――空気が凍る。

 輪島の声には怒気も興奮もない。

 ただ、妙に人を見下ろすような冷たさだけがあった。


 「お前みたいなやつがいるから、警察の信用が落ちるんだ!」

 藤森の怒鳴り声が響いたが、その言葉には力がなかった。


 そこへ真木が入ってくる。

 「課長。彼の取調べには、私も立ち会っていました。

  威圧や暴力は一切ありません。供述は任意です。」


 「真木、お前まで庇うのか。」

 「庇っていません。……ただ、事実を述べているだけです。」


 藤森は舌打ちし、頭を掻いた。

 「……もういい。報告は俺がまとめる。だが、輪島――二度はねぇぞ。」


 輪島は軽く頭を下げた。

 「心得ています。」



---


 夜。

 署の屋上。

 雨上がりの風が冷たい。

 輪島はフェンスにもたれ、煙草をくゆらせていた。


 真木がやってくる。

 「……あなた、まるで予想してたみたいだったわね。江島が襲ってくること。」


 輪島は笑う。

 「何事も一度やった奴は、二度目も簡単にやる。

 “殺す”って行為も、踏み切っちまえば後は惰性ですよ。」


 「……そんな簡単な話じゃないと思うけど。」

 真木は静かに言った。

 「あなた、人の中身を“試す”ようなところがある。

  壊れる瞬間を、見たいみたいに。」


 輪島は視線を遠くに投げた。

 「人は、壊れて初めて本音を話します。」


 「……それを“信念”だと思ってるの?」

 「いいえ。習慣ですよ。」


 短い沈黙。

 風がフェンスの網を鳴らす。

 輪島は煙草を指先で弾き、灰を落とす。


 「主任。あなた、優しいですね。」

 「あなたほどじゃないわ。」


 軽い言葉の応酬。だが真木の胸の奥には、わずかなざらつきが残った。

 “正しいはずの刑事”なのに、どこかで倫理の線を笑って踏み越えている――

 そんな感覚。


 輪島は立ち去る。

 その背中を見送りながら、真木はぼそりと呟いた。


 「……なんなの、あの人。」


 冷たい風が吹き抜けた。

 空の端に、夜明け前の薄い光がにじみ始めていた。



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