2.復帰
雨上がりの朝。
県警本部の玄関に、濡れた靴音が響く。
「……嘘だろ、輪島じゃねぇか。」
「飛び降りたって聞いたぞ。」
「死に損ないが。」
囁きが背後から追ってくる。
輪島聖司は振り返らない。
手に持った復職届の封筒を軽く指で弾きながら、無言で廊下を進む。
光沢のない廊下。
壁に貼られた表彰状。
記憶にあるはずの景色だが――何ひとつ、懐かしさはなかった。
---
「課長、輪島が……。」
捜査第一課のドアを開けると、室内が一瞬静まった。
古い蛍光灯の光の下、誰もが動きを止める。
「……おいおい、まじで来たのかよ。」
「こえぇ……死人が歩いてる。」
輪島はその中を無言で進み、机の上に書類を置いた。
「復職届けです。」
課長の藤森が、煙草を押し潰しながら顔を上げた。
「よく戻って来れたな。誰が許可した?」
「医師です。」
「笑えねぇ冗談だな。」
藤森は手を組み、冷たく言い放つ。
「お前のせいで、一人の人生が狂ったんだぞ。
“誤認逮捕”って言葉、もう忘れたか?」
輪島は静かに答えた。
「忘れました。」
空気が止まる。
藤森の眉間に皺が寄る。
「……開き直るつもりか。」
「記憶喪失の後遺症、というやつかもしれません。」
課長は鼻で笑った。
「“勤務”はしても“捜査”はさせん。お前が関わると死人が増える。」
室内の空気が一段冷える。
若い刑事が、わざと聞こえるように笑った。
「お帰りなさい、“飛び降り刑事”さん。」室内に乾いた笑いが起きた。
輪島は、聞こえなかったふりをした。
他人の記憶に興味はない。
この身体が何をし、誰を傷つけたのか――それは“前の住人”の話だ。
---
「おい真木。」
課長が声を上げた。
部屋の奥から、若い女刑事が立ち上がる。
「今日からこの輪島の監督はお前に任せる。」
「了解しました。」
真木はまっすぐ輪島の方を見た。
黒髪を後ろで束ね、瞳だけが妙に強い。
「初めまして。……主任の真木燈子です。」
「上司、ということですか。」
「そういうことになります。」
輪島はわずかに口角を動かす。
「主任が女とは、時代が変わりましたね。」
「“女”だから主任になれたと思うなら、時代遅れです。」
課内にわずかなざわめきが走る。
真木の口調には棘がない。
ただ、空気を真っ直ぐ切り裂くような冷静さだけがあった。
藤森が手を振った。
「真木、こいつは現場禁止だ。
机仕事だけさせとけ。余計な真似をさせるな。」
「了解です。」
輪島は淡々と一礼した。
「命令には従います。」
だが、その声に「従う意志」はなかった。
---
翌日。
庁舎内にアナウンスが流れる。
『県南区のワンルームで女性死亡。強盗致死の疑い。』
「真木、初動行け!」
「了解!」
真木は数名の刑事を引き連れ、すぐに庁舎を出た。
輪島はその様子をデスクから静かに見送る。
──事件は、想定よりも重かった。
被害者は二十代後半の女性。
人気動画配信者“白川 美咲”。
室内は荒らされ、財布が消え、玄関には争った形跡。
真木は現場を見渡し、腕を組む。
「……強盗にしては、荒らし方が雑すぎる。」
同行していた刑事が答える。
「最近、闇バイトが流行ってるだろ?
下手な素人なら、こんなもんだ。」
「でも、これは……誰かを見せしめにしてる。」
「おい真木、余計なこと言うな。現場を濁らせる。」
真木は応えず、しゃがみ込む。
被害者の顔に視線を落とし、カメラのシャッターを切った。
「……目が潰されてる。」
「殴打の痕だろ。」
「違う。押し込まれてる。
“自分を見た目”を消したかったんでしょう。犯人の方が。」
---
数日後。
事件は一向に進展しなかった。
県警は依然として「強盗致死」として処理を進めている。
夜、資料室。
真木が事件記録を整理していると、背後から声がした。
「主任。少し、いいですか。」
輪島だった。
彼は机に手を置き、淡々とした声で続けた。
「例の強盗致死、少し気になりまして。」
「課長の命令、覚えてますよね。あなたは現場禁止。」
「ええ。ただ、話を聞くだけです。異動したばかりの主任なら、
色のついていない意見が聞けると思いまして。」
真木は椅子から身を乗り出した。
「色のついていない、ね。
つまり、あなたの周りの連中は全員“濁ってる”と?」
「事実です。……ここの連中は手柄欲しさに盲目的だ。」
「なるほど。何が知りたいんです?」
「遺体の損傷、あの様子で強盗は無理がある。
主任は本当に強盗だと思いますか?」
真木は一瞬、言葉を止めた。
「現場にいなかったはずなのに、ずいぶん具体的ですね。」
「報告書は誰でも見られます。」
短い沈黙。
輪島は視線を外さないまま、声を低くした。
「これは“強盗”じゃない。
感情が入ってる。……犯人は、被害者を知ってる人間です。」
真木の目が鋭くなる。
「あなた、誤認逮捕の噂とは随分違う観察眼ね。」
輪島は肩をすくめ、淡々と答えた。
「ただの強盗がここまでする訳が無い。」
「そうね、それは私も同意見よ。」
「間違いなく感情が絡んでる。」
真木は息を整え、資料を閉じた。
「……いいでしょう。あなたの“想像力”、しばらく観察してみます。」
「それは光栄だ。主任。」
輪島は軽く頭を下げ、背を向ける。
ドアの前で立ち止まり、ぼそりと呟いた。
「主任、被害者の周囲を洗ってください。
ファン、支援者、配信仲間。
アーカイブの中に、“足跡”があるはずです。」
真木の手が止まる。
振り向いたときには、輪島の姿はもうなかった。
被害者・美咲の部屋に残されたノートPCは、事件翌日にはサイバー犯罪対策課に送られた。
報告が上がるまでの数日、真木は一人で別の線を追っていた。
――輪島の言葉を、確かめるために。
---
深夜の署内。
モニターの光が真木の横顔を青く染めている。
アーカイブ映像の一覧を開き、彼女は再生ボタンを押した。
“晩酌雑談”“眠れない夜に”“工場あるある配信”。
どれも取り留めのない内容だが、コメント欄の一角に異様な存在があった。
〈Seiji_w〉
名前は毎回トップに表示され、額も桁違いだった。
一度の配信で五十万円。
総額――三百万円を超えるスパチャ履歴。
「……個人でこの額?」
真木は眉を寄せた。
コメントはやたら丁寧で、感情が重い。
『今日もおつかれ』『笑っててくれてよかった』
『他の男のコメントには返さないでほしい』
『俺は本気で守りたいだけだ』
そして事件のあった翌日――このアカウントは完全に削除されていた。
---
翌朝、真木は被害者のマネージャーを訪ねた。
雑居ビルの一室、配信グッズの箱が山積みになっている。
「“Seiji_w”という名前に心当たりは?」
「ええ……。本人が少し話してました。“職場の人かもしれない”って。」
「職場?」
「ええ、機械部品の工場です。県内の。辞めたのは今年の春ごろ。」
真木はメモを取る。
「辞めた理由は?」
「セクハラと、陰口。あと、夜勤明けに配信してるのをバカにされたとか……。
それに、“一人、しつこい人がいる”って。」
「名前は?」
「聞いてません。でも、“私の配信全部見てる”って言ってました。」
---
夕方。
資料室に残っていた真木のデスクに、輪島が無言で立っていた。
「主任、顔つきが変わりましたね。……何か見つけた?」
真木は数枚の資料を差し出した。
「被害者のスパチャ履歴。“Seiji_w”――あの名前、やっぱり職場関係者でした。」
輪島が手を止める。
「やはり、被害者の知人ですか。」
「ええ。勤務先は県内の『渡良機工』。機械部品の製造工場です。
彼女は春に退職していて……しかもその工場、ここ二か月で二人が“事故死”してます。
どちらも夜勤中のプレスライン作業員。」
輪島の視線が、わずかに鋭くなった。
「二か月で二人。偶然とは言い難いですね。」
「表向きは“機械の誤作動”。でも、どうも腑に落ちません。」
真木は言葉を選ぶように続けた。
「亡くなった二人、どちらも同じ班で働いていたそうです。」
輪島が静かに頷いた。
「……なるほど。線が、一本繋がったな。」
「けど、これだけじゃまだ仮説にすぎません。」
「仮説でも、動く価値はあります。主任。」
真木は目を細めた。
「あなた、最初からこの方向を読んでたのね。」
「勘です。人間の“歪み”は、案外単純な構造をしている。」
その言葉に、真木は一瞬だけ息を飲んだ。
輪島の声は淡々としていたが、そこには妙な熱があった。
「……なら、確かめてみます。実際に。」
「お願いします。主任の“現場勘”を、見せてください。」
真木は軽く頷き、資料を抱えて立ち上がった。
彼の視線を背に受けながら、心の奥で小さなざわめきが生まれる。
――この男の“勘”が当たっているとしたら。
何か、取り返しのつかないものが見える気がした。
翌日。
真木は単独で「渡良機工」を訪れた。
地方の幹線道路沿い、煙を吐く灰色の建屋。
工場長は頭を下げたが、どこか腑に落ちない笑顔をしていた。
「事故については、警察にも報告済みです。
あくまで機械の誤作動で……」
「二か月で二人死んでるんですよ。
“誤作動”で済ませるには多すぎます。」
真木は声を落とした。
「亡くなった二人の共通点を教えてください。」
「どちらも夜勤のライン作業員で……、ええと……確か、同じ班に――」
工場長の言葉が止まる。
「誰と?」
「……江島という者がいまして。」
「江島?」
「ええ、まだ二十代前半の若い子です。
内気で、口数が少ない。被害者たちとはあまり馴染んでなかったようで。」
「事故当日の勤務は?」
「夜勤でした。ですが、現場は別棟で……。」
「つまり、完全なアリバイではない。」
「い、いえ……記録上は夜勤に入っていたと……。」
真木は軽く頷いた。
「ありがとうございました。」
工場を出ると、風の匂いに油と鉄の味が混じっていた。
遠くでプレス機の音が響く。
――それが、誰かの息遣いに聞こえた。
---
夜。
署に戻った真木は、輪島のデスクに報告書を置いた。
「該当者がいました。江島清志(えじま・きよし)。
二十四歳、ライン作業員。被害者と同じ班。
性格は内向的で、職場でも孤立していたそうです。」
輪島は資料をめくりながら、静かに言う。
「……繋がったな。
まるで、俺の頭の中を具現化したような人間だ。」
「何?」
「卑屈で、内向的で、誰にも認められず。
それでも“自分だけが正しい”と思っているタイプ。
――一度、何かを壊したときの快感を知れば、戻れない。」
輪島は笑みを消し、短く言った。
「主任。夜、同行してください。」
「夜?」
「工場は二十四時間稼働している。
今夜も彼は夜勤だ。
そいつが人を殺せる人間か確かめる必要がある。」
真木は一瞬だけ迷った。
本来なら上に通すべきだ。
だが、輪島の目を見た瞬間、胸の奥にざらついた違和感が広がった。
冷たいのに、どこか熱を帯びた瞳。
それは、“ただの刑事”のものではなかった。
あの目は、事件を追う者の目じゃない。
――人を“見抜く”目だ。
いや、“見抜いて、壊す”目。
警察官としての理性が警鐘を鳴らしている。
この男を野放しにしてはいけない。
だけど、もう一つの声が囁く。
――見てみたい。
彼が、何を見ているのか。
「……わかった。ただし、私の指示に従うこと。」
「もちろん。」
輪島の声は静かだった。
だが、その静けさの奥で、かすかに何かが笑った。
真木は輪島が立ち去った後もしばらく動けずにいた。
手元の資料の活字が、ぼやけて見える。
“誤認逮捕”“飛び降り”“記憶喪失”。
そのどれもが、今の彼には当てはまらない気がした。
――何者なの、この人。
彼と関わることで、事件が進む。
でも同時に、自分の中の“何か”も壊れていく気がする。
その夜、真木は初めて仕事机に手をついたまま、
自分の鼓動の速さを意識した。
夜十時過ぎ。
渡良機工の敷地は、昼間よりも息苦しかった。
雨上がりの湿気と鉄の匂いが混じり、地面には細かい油の膜が光っている。
工場の外壁は無機質な灰色。
どこからともなく聞こえるプレス機の衝撃音が、心臓の鼓動と重なる。
真木は、ゲート前で防犯灯に照らされながら輪島を振り返った。
「……無断で入るのは違反です。
あなたが“勤務中の刑事”である以上、記録に残りますよ。」
輪島は無言のまま、煙草を咥え、火を点ける。
オレンジ色の火が、瞳の奥を一瞬だけ照らした。
「俺は“復職”しただけで、“現場復帰”はしていません。
つまり――“職務外の見学者”です。」
「屁理屈ね。」
「主任、屁理屈でしか真実に近づけない時もあります。」
輪島は煙を吐き、灰を指先で落とす。
その仕草が妙に丁寧で、逆に不気味だった。
「で、江島清志。勤務は二十二時から翌六時。
担当ラインは第3棟のプレス機前。
……主任、もし彼が“本物”なら、ここで何かが起きます。」
「本物?」
「“殺せる人間”かどうかって意味です。」
真木は眉を寄せた。
「あなた、何をしに来たの?」
「観察です。」
「誰を。」
「彼を。そして――俺自身を。」
その言葉の意味を、真木はすぐには掴めなかった。
けれど、輪島の横顔には“覚悟”ではなく“興味”があった。
まるで実験を前にした科学者のような、淡い高揚。
「主任。」
「何。」
「もし、俺が間違っていたら……今夜は何も起こりません。
でも、もし正しかったら――“人間の境界”を見せてあげます。」
真木は答えなかった。
冷たい風が吹き、制服の裾がはためく。
工場の門が開く音が、どこか遠くで響いた。
鉄の匂いが濃くなる。
夜が、静かに口を開けた。
夜十時過ぎ。
渡良機工の敷地は、昼間よりも息苦しかった。
雨上がりの湿気と鉄の匂いが混じり、地面には細かい油の膜が光っている。
工場の外壁は無機質な灰色。
どこからともなく聞こえるプレス機の衝撃音が、心臓の鼓動と重なる。
真木は、ゲート前で防犯灯に照らされながら輪島を振り返った。
「……無断で入るのは違反です。
あなたが“勤務中の刑事”である以上、記録に残りますよ。」
輪島は無言のまま、煙草を咥え、火を点ける。
オレンジ色の火が、瞳の奥を一瞬だけ照らした。
「俺は“復職”しただけで、“現場復帰”はしていません。
つまり――“職務外の見学者”です。」
「屁理屈ね。」
「主任、屁理屈でしか真実に近づけない時もあります。」
輪島は煙を吐き、灰を指先で落とす。
その仕草が妙に丁寧で、逆に不気味だった。
「で、江島清志。勤務は二十二時から翌六時。
担当ラインは第3棟のプレス機前。
……主任、もし彼が“本物”なら、ここで何かが起きます。」
「本物?」
「“殺せる人間”かどうかって意味です。」
真木は眉を寄せた。
「あなた、何をしに来たの?」
「観察です。」
「誰を。」
「彼を。そして――俺自身を。」
その言葉の意味を、真木はすぐには掴めなかった。
けれど、輪島の横顔には“覚悟”ではなく“興味”があった。
まるで実験を前にした科学者のような、淡い高揚。
「主任。」
「何。」
「もし、俺が間違っていたら……今夜は何も起こりません。
でも、もし正しかったら――“人間の境界”を見せてあげます。」
真木は答えなかった。
冷たい風が吹き、制服の裾がはためく。
工場の門が開く音が、どこか遠くで響いた。
鉄の匂いが濃くなる。
夜が、静かに口を開けた。
---
第三棟へ続く渡り廊下は、照明の半分が切れていた。
油の染みついたコンクリートを踏むたびに、靴底がぬるりと滑る。
機械の駆動音が一定のリズムで鳴り響き、時折、金属がぶつかる高音が混じる。
まるで、巨大な心臓の鼓動の中に入り込んだようだった。
真木は手帳を開きながら、低く言った。
「江島清志――二十四歳。夜勤歴一年半。事故死した二人と同じライン。
勤務態度は真面目。トラブルもなし。……ただ、休憩時間になると誰とも話さない。」
「孤立している人間ほど、“何か”を抱えている。」
輪島が短く返す。
その声は静かだが、どこか甘い響きを帯びていた。
「主任。あなたは“静かに狂っていく人間”を見たことがありますか。」
真木は目を向ける。
「どういう意味?」
「最初は小さな不満です。
理不尽に怒鳴られ、馬鹿にされ、笑われる。
でも、心のどこかで“自分の方が上だ”と信じ続ける。
そしていつか、証明したくなるんです。
――“自分は間違ってなかった”って。」
輪島の横顔は、まるで祈りを捧げているように穏やかだった。
その穏やかさが、真木には恐ろしく見えた。
---
第三棟の扉を開くと、熱と油の臭気が顔にぶつかった。
中では数人の作業員が黙々とラインを見守っている。
蛍光灯のちらつく光の下で、プレス機が重い音を立て続けていた。
「主任、あそこです。」
輪島が顎で示した。
ラインの端、黙々と機械に手を入れている男――江島清志。
細身で、背中がやけに丸い。
顔の下半分をマスクで覆い、視線を常に足元に落としている。
だがその仕草には、どこか“他人の存在を排除する癖”があった。
真木はゆっくりと歩み寄り、声をかける。
「江島清志さんですね。県警の真木です。
少しお話、いいですか。」
江島は一瞬だけ手を止めた。
マスク越しにかすれた声が返る。
「……何の用ですか。」
「美咲さん――以前、同じ班で働いていた女性のことで。」
その名前が出た瞬間、江島の肩がわずかに跳ねた。
だが、すぐに無表情に戻る。
「仕事中なんで。話なら明日、会社を通してください。」
「これは明日に回せない話です。」
真木が一歩踏み出す。
しかし輪島が、その肩を軽く押さえた。
「主任、少し私に任せても?」
真木は短く頷く。
輪島はゆっくりと江島の前に立ち、笑みを浮かべた。
「なあ江島、夜勤ってさ、楽だろ? 人いねぇし、監視もゆるい。
誰にも見られねぇから、いろんなことできる。……なあ?」
江島の肩がわずかに震える。
真木は後ろで息を止めた。輪島の声には、**理屈じゃなく“喧嘩の勘”**があった。
「でもお前、ムカついてんだろ? あの女に。
自分をバカにして、笑って、他の男と“お疲れ様~”とか言ってよ。
あの顔、頭に焼きついてんじゃねぇの?」
江島が小さく呻く。
輪島はさらに一歩踏み出し、靴先で落ちていたナットを蹴り飛ばす。
金属音が響き、全員がびくりとした。
「俺だったら、ムカついて眠れねぇな。
金出して、笑われて、それで“いい人”扱いされるんだぜ? 舐められてんだよ、お前。」
「やめろ……」
「やめねぇよ。だってお前、ずっとそれ言われたかったろ?
“お前、かわいそうだな”って。
でも本当は、“見返してぇ”だけなんだろ。」
江島の呼吸が荒くなる。
輪島の声が低く、笑いを含む。
「なぁ江島。“事故”って言葉、便利だよな。」
「黙れッ!!」
怒号が弾ける。
空気が、止まった。
江島の喉が、ごくりと鳴る。
真木が息を呑んで一歩踏み出した、その瞬間――
ライン奥の機械が突然、異音を立てて停止した。
ブザーが鳴り響き、赤い警告灯が回る。
油の臭いが、焦げた金属臭に変わる。
「……主任、危ない。」
輪島が腕を伸ばし、真木の肩を引き寄せる。
プレス機のすぐ横で、鉄板が滑り落ちた。
その下に、江島の工具が転がっている。
真木は息を荒げながら、輪島の胸を押しのけるように離れた。
「今の……!」
「試したんですよ。」
輪島は静かに答えた。
「彼が“次に誰を狙うか”。――そして、“どこまで我慢できるか”。」
真木の胸に、言葉にならない嫌悪が広がる。
だが同時に、理解もあった。
――輪島は、“嘘”を吐いていない。
江島は、確実に反応した。
目の奥に、確かな“殺意”があった。
---
輪島はゆっくりと江島に歩み寄る。
「もうやめよう、江島くん。君は十分に証明した。」
「何を……?」
「君が“殺せる人間”だということを。」
江島の表情がひび割れる。
次の瞬間、彼は工具を掴み、振りかぶった。
真木の悲鳴が空気を裂く。
輪島の身体が一歩、わずかに沈む。
そのまま手を伸ばし、江島の腕を絡め取った。
力を流す。崩す。倒す。
床に響く金属音とともに、江島の体が倒れた。
真木はすぐに手錠を抜き、江島の両手を押さえつける。
抵抗はない。ただ、涙のような汗がマスクの下から滴り落ちていた。
「……俺は、悪くない。俺は、守りたかっただけだ。」
「誰を?」輪島が問う。
「ミサミサを。あいつ、俺を笑った……。俺が送った金で笑ってたくせに……。」
江島の言葉は次第に濁り、嗚咽に変わる。
その姿を見つめる輪島の瞳は、どこまでも無表情だった。
「主任。」
「何。」
「人は、壊れた瞬間にしか“自分”を晒せない。」
真木は答えなかった。
彼女の胸には、冷たい恐怖と、抑えきれない理解が同時に生まれていた。
輪島のやり方は倫理を踏み越えている。
けれど――結果として、彼は真実を引きずり出した。
遠くで警報が止まり、機械の音が再び戻る。
夜勤のリズムが、何事もなかったように再開された。
輪島は煙草を取り出し、火をつける。
炎の色が、赤い警告灯の残光と混ざって揺れた。
「主任。これでわかりましたね。」
「……何が。」
「人は、殺す準備を整えた時だけ、目が変わる。」
真木は静かに輪島を見つめた。
その横顔は、まるで“狩りを終えた獣”のように静かで、満ちていた。
夜が、ゆっくりと閉じていく。
そして、輪島という人間の中で、何かが確実に目を覚ましていた。
翌朝。
渡良機工での事件は、正式に「殺人事件」として立件された。
容疑者・江島清志は取調べで全面自供。
被害者・美咲を恨み、二人の同僚を“事故”に見せかけて殺害していたことを認めた。
だが――署内は静かではなかった。
「おい、マジであの方法で自白取ったのか?」
「監視映像、見たか? あれは“尋問”ってレベルじゃねえぞ。」
ざわめく捜査一課の中で、輪島は一人、机の上で報告書を整えていた。
まるで自分には関係がないという風に。
課長の藤森が怒鳴る。
「お前、またやらかしたな。録音に全部残ってんだぞ。“やってみろ”“証明してみろ”だと?
あれは脅しだ! 下手すりゃ冤罪扱いになるんだぞ!」
輪島は書類を閉じ、落ち着いた声で答えた。
「事実を引き出しただけです。
彼は、話したがっていましたから。」
「屁理屈言うな!」
藤森が机を叩く音が響く。
その中で、輪島はわずかに口の端を上げた。
「じゃあ課長、どうすればよかったんです?
“優しく話を聞く”だけで、犯人は罪を認めますか。」
その瞬間――空気が凍る。
輪島の声には怒気も興奮もない。
ただ、妙に人を見下ろすような冷たさだけがあった。
「お前みたいなやつがいるから、警察の信用が落ちるんだ!」
藤森の怒鳴り声が響いたが、その言葉には力がなかった。
そこへ真木が入ってくる。
「課長。彼の取調べには、私も立ち会っていました。
威圧や暴力は一切ありません。供述は任意です。」
「真木、お前まで庇うのか。」
「庇っていません。……ただ、事実を述べているだけです。」
藤森は舌打ちし、頭を掻いた。
「……もういい。報告は俺がまとめる。だが、輪島――二度はねぇぞ。」
輪島は軽く頭を下げた。
「心得ています。」
---
夜。
署の屋上。
雨上がりの風が冷たい。
輪島はフェンスにもたれ、煙草をくゆらせていた。
真木がやってくる。
「……あなた、まるで予想してたみたいだったわね。江島が襲ってくること。」
輪島は笑う。
「何事も一度やった奴は、二度目も簡単にやる。
“殺す”って行為も、踏み切っちまえば後は惰性ですよ。」
「……そんな簡単な話じゃないと思うけど。」
真木は静かに言った。
「あなた、人の中身を“試す”ようなところがある。
壊れる瞬間を、見たいみたいに。」
輪島は視線を遠くに投げた。
「人は、壊れて初めて本音を話します。」
「……それを“信念”だと思ってるの?」
「いいえ。習慣ですよ。」
短い沈黙。
風がフェンスの網を鳴らす。
輪島は煙草を指先で弾き、灰を落とす。
「主任。あなた、優しいですね。」
「あなたほどじゃないわ。」
軽い言葉の応酬。だが真木の胸の奥には、わずかなざらつきが残った。
“正しいはずの刑事”なのに、どこかで倫理の線を笑って踏み越えている――
そんな感覚。
輪島は立ち去る。
その背中を見送りながら、真木はぼそりと呟いた。
「……なんなの、あの人。」
冷たい風が吹き抜けた。
空の端に、夜明け前の薄い光がにじみ始めていた。
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