第二話『さよならを待つ駅』

世界が自らの終わりを悟ったとき、その一部である存在もまた、終わりを悟るのだろうか。

そして、その終わりへの歩みは、果たして誰の意思によるものなのだろう。


春――

錆の匂いが混じる温かい風が、無人駅のホームを吹き抜けていく。

線路脇の大きな桜が満開の花びらを散らし、古びたアスファルトに淡い影を落としていた。

次の電車がいつ来るのか、それを知らせる電子音もここにはない。

ただ、緩やかな時間だけが満ちている。


その景色を背に、ホームに置かれた白いベンチの端に、女性がひとり静かに腰掛けていた。

隣に誰かがいつでも座れるように、その場所を無意識に空けているようにも見える。膝の上に置かれた手に、一台のスマートフォンが握られている。何かを熱心に読むでもなく、誰かとメッセージを交わすでもなく、ただ時折、慈しむようにその滑らかな表面を指でなぞるだけ。

時折、線路の向こうから風が吹いてきて、女性の髪を優しく揺らす。目を細めて、その風の行方を追う。


「お母さーんっ」

その声に、女性はゆっくりとスマートフォンから顔を上げる。声のした方──ホームの端にある改札の向こうに、見慣れた姿があった。まだ少し着慣れない様子の、真新しいリクルートスーツに身を包んでいる。それでも普段と変わらず、大きく手を振りながら、弾むような足取りでこちらへ駆けてくる。結い上げた髪が楽しげに揺れ、その満面の笑みは春の陽光を浴びて眩しいほどだった。

女性の口元が、知らず知らずのうちに綻んでいく。女性は優しい眼差しで迎えつつ駆け寄る娘の足元を少し心配そうに眺めている。

あっという間に距離を詰めた娘は、その勢いを緩めることなくベンチの後ろへ回り込んだ。

次の瞬間、少女が女性の背中にふわりと抱き付いた。

「なーにしてるの!ぼーっとしちゃって」

「あなたのこと、考えてたのよ」

ストレートな言葉に、娘は一瞬きょとんとした後、「えへへ、ほんと?しょうがないなあ」と照れくさそうにはにかんだ。

娘は満足そうに笑うと、ようやく腕をほどき、当たり前のように母親の隣にどさっと腰を下ろした。

「ふぅ」

ベンチがかすかに軋む。

二人の間に、心地よい沈黙が流れた。

風が桜の枝を揺らし、花びらが二人の間をゆっくりと横切っていく。

娘はその一枚を掌で受け止めようとして、すり抜けていくのを見て、子供のように笑った。娘の髪の乱れに気づいた女性は、思わず微笑んだ。

「さくら、ちょっと後ろ向きなさい」

言われるまま、くるりと振り向くさくらの後ろ姿。女性は指先で、風に散らされた髪をゆっくりと整えていく。娘は優しく髪をなでる母の手に、身をゆだねるように目を閉じた。

「もう、駅まで走ってきたんでしょう?」

「分かる?」

「この髪を見ればね」

その言葉に、さくらはいたずらっぽく笑った。まるで何度も繰り返してきた、春の日の会話のように――。

女性の指先が、さくらの頭頂部を撫でる。ふわりと広がるシャンプーの香りに、朝の支度を思い出す。

女性は娘の姿をもう一度見つめる。真新しいスーツに、少し大きめの肩回り。慣れないヒールに足を取られそうになりながらも、背筋だけはまっすぐに伸びている。精一杯、大人になろうとするその姿が、どこか頼りなくも微笑ましく映った。

「櫛は持ってるの?せっかくのスーツなのに、ボサボサのままだと格好がつかないわよ」

母親らしい心配の言葉に、さくらは「もう」と言いたげに、少しだけ口を尖らせる。

「いらないよ、大丈夫。これくらい、手で直せるし」

さくらはそう言うと、ぱっぱっと手櫛で快活に前髪を整えてみせた。その自信満々な様子に、女性は小さく苦笑する。

「はいはい。じゃあ、髪はいいとして……ティッシュとハンカチは持ったんでしょうね?」

まるで決まり文句のように続く問いかけに、さくらは一瞬ぽかんと目を瞬かせたあと、にやりといたずらっぽく笑った。

「持ってるよ。もう子どもじゃないんだから。……ほらっ」

そう言って、小さなバッグから一枚のハンカチを取り出す。

淡い水色に白い縁取りのあるそのハンカチは、布の端がほんの少し擦り切れ、ところどころに薄く色あせた部分がある。

けれど、角はきちんと揃えられ、糸のほつれも丁寧に繕われていた。それは、明らかに長く、そして大切に使われてきたものだった。

「あなた、まだそのハンカチ使ってるの?新しいのにすればいいのに……」

女性が少し呆れたように目を細めると、さくらはふふっと笑った。

「いいのっ。お気に入りなんだから。お母さんがくれたやつだし」

女性の瞳が、わずかに揺れた。

何かを言いかけて、そっと首を横に振り微笑んだ。

「……そう。なら、大事に使ってね」

さくらは満足そうにうなずくと、またハンカチを丁寧に畳んでバッグにしまった。

女性は、ふと思いついたように口を開く。

「そういえば、初任給が入ったら、何を買うの?」

「えっ、うーん……まずはね、お母さんに何かプレゼントでもしようかなーって!」

「まあ、それは楽しみ。でも無理しなくていいのよ?」

「ううん、無理してでもする。だって、社会人になったら親に恩返しって、よく言うじゃん」

「ずいぶん殊勝なこと言うのね」

「言うだけならタダだから」

二人して小さく笑い合う。

軽口を交わすたびに、さくらの笑い声が高くなる。どこかはしゃいだその姿は、社会人という肩書きを持ったとは思えないほど、少女の面影をそのまま残していた。

笑い声の余韻が消えて、風の音だけがしばらく続いた。


ベンチの間に、ふと訪れる静けさ。

さくらは顔を伏せ、言葉を探すように指先を動かしていた。

「入社式が終わったら、私も本格的に社会人だよね…」

その声は、さっきまでよりも少し小さくて、少しだけ震えていた。女性はそっと目を向ける。さくらは、いつの間にか両手を膝の上で組み、うつむいたまま言葉を続けた。

「……ねえ、お母さん……わたし、ちゃんとやれるかな」

ぽつりとこぼれたその声は、風よりも小さく、けれど母の胸にははっきりと届いた。

隣に座るさくらの肩が、わずかにすくんでいた。

「……昨日までと、何も変わってない気がするんだよね。なのに、急に社会人とか責任とかって言われてさ。なんか、自分だけ背伸びしてるみたいな……うまく言えないけど」

その言葉に、女性はすぐには答えなかった。春の風が、ふたりの髪をそっと撫でていく。

しばらくして、女性は手のひらを差し出し、さくらの手の上にやさしく重ねた。

「無理に変わらなくても、大丈夫よ」

「でも、変わらなきゃって思うの。じゃないと、みんなに置いていかれそうで」

「置いていかれたりなんてしない。あなたは、あなたのままでいいの。それに……ちゃんと不安になれるって、それだけ頑張れるってことだと思うの」

さくらは小さく瞬きをして、女性を見つめた。

「そっか」

さくらは、ふっと息を吐いて、笑った。さっきまでの不安が、少しだけ和らいだような、その笑みだった。

「じゃあ、ちょっとだけ頑張ってくるね」

「うん、でも本当に無理だと思ったら、ちゃんと言ってね」


そのとき――

遠くの方で、レールを軋ませる音がゆっくりと近づいてくる。一両編成の電車が、ホームへと滑り込んできた。

「わ、来ちゃった」

さくらは立ち上がり、スカートの裾をぱんぱんと軽く払う。

「じゃあね、お母さん」

「ええ。いってらっしゃい」

さくらは笑顔で手を振り、電車へと歩いていく。

電車の中で、窓際に立つさくら。

車両が動き出す。明るい笑顔をくずさず、手を振るさくらの姿が、窓の向こうでだんだんと小さくなっていく。

女性は、微笑みを湛えたまま、しばらくその姿を見送り続けていた。

風が強く吹いて、桜の花びらが舞い上がる。それはまるで、さくらの笑い声が形を変えて、空に昇っていくようだった。


「……本当に、元気な子」

ぽつりと、誰に向けるでもない言葉をこぼす。

再びベンチに腰を下ろすと、女性は膝の上に置いたスマートフォンを見つめた。その画面に触れることはなく、ただ、光の揺らめきを目に映したまま――春の風が、またひとひら、桜の花びらを運んでいった。


夏――

昼下がりの陽射しは、春よりも強く、どこか鋭さを帯びていた。

駅舎の古びた屋根が、じりじりと照り返す熱に軋むように軋んでいる。ホームのコンクリートにはうっすらと陽炎が立ち、遠くの線路もどこか揺れて見えた。

桜の木はすっかり葉を茂らせ、あの淡い花びらはどこにも見当たらなかった。その代わり、濃い緑が枝いっぱいに広がり、時折吹き抜ける風にざわりと揺れている。

蝉が木にしがみつき、命の限りを絞り出すように鳴いていた。


そんな喧騒の中で、ひとり、ベンチに座る女性の姿があった。日傘も帽子もなく、直射日光にさらされながらも、彼女はどこか涼しげだった。

視線は膝の上のスマートフォンに向けられ、指先がゆっくりと画面をなぞっている。その動きは、何かを選んでいるようで、けれど同時に、何かを見送っているようでもあった。


「こんにちはー!」

その明るい声に、女性は顔を上げる。

ホームの向こう、改札のあたりから、高校生くらいの少女が大きく手を振っている。夏らしい開襟シャツに、紺のスカート。日焼けした腕と元気な声が、季節の真ん中にぴたりとはまっていた。

女性の目が、やわらかく細められる。その笑顔は、まるで――懐かしい人に再会したときのような、穏やかな喜びに満ちていた。

少女はそのまま小走りにホームへと入りかけたが、途中でふと自販機の前に立ち止まる。しばらく迷うように、ボタンを見上げたまま考え込んでいる。

「何か飲みますかー?」

背中越しに軽やかに問いかける声。少女は振り返らないまま、人差し指で商品のボタンをなぞっている。炭酸、お茶、スポーツドリンク――迷う姿が、妙に愛おしい。

女性はすこしだけ驚いたように目を瞬かせたあと、笑顔で首を横に振った。

「私はいいわ。ありがとうね」

「はーい」

少女は再び自販機の方を向き直り、両手を腰に当てたまま、どれにしようかとじっと眺めている。

その様子を、女性はしばらく見守っていたが――ふと、自分の膝の上に視線を戻す。

画面には、指が止まっていた一枚の写真。女性は何も言わずに親指を動かし、最後のスワイプを行った。

そのとき。ガタン、と自販機の奥から、ジュースの缶が落ちる音が響いた。女性は顔を上げ、音のした方へと視線を向ける。

少女が、缶を手に取りながらこちらへと歩いてくる。その顔に、一瞬だけ、ふっと影が差す。けれどすぐに、少女は元気な笑顔を浮かべた。ベンチの傍まで来て、少女が声を弾ませる。

「おまたせしましたーっ!」

その手には、よく冷えた缶ジュースが2つ握られていた。少女は少し誇らしげに胸を張ると、にこっと笑って、片方の缶ジュースを差し出した。

「はい、わたしのおごりです」

「あら」

女性は一瞬だけ目を丸くする。「いいって言ったのに――」と口にしかけて、飲み込んだ。代わりに、微笑んで言った。

「……ありがとう。うれしいわ」

少女は、少しだけ照れくさそうに笑った。少女は額に手を当てて小さく息を吐いた。

「いやー、ほんと暑い」

そう言って、女性の隣に自分の缶ジュースを置くと、ホームの端にある蛇口の方へと軽い足取りで向かっていく。蛇口の下にしゃがみ込むと、バッグから取り出したハンカチを水で濡らし始めた。

夏の日差しが強く照りつける中、水に濡れた布がゆっくりと揺れる。淡い水色に、白い縁取り――。

布の端が少しほつれているのが、決して特別な柄でも、珍しい色でもない。

ふと、ハンカチに目をやった女性が、少し懐かしむような表情を浮かべた。

少女はハンカチを軽く絞り、両手でぱんぱんと広げたあと、顔や首筋を気持ちよさそうに拭っている。そして再び女性のもとへと戻ってきた。

「暑いですねー、今日!」

「ええ、ほんとに」

少女はそのまま、置いていた缶ジュースを手に取り女性の隣に腰を下ろした。

「偶然ですね。おばさんもお出かけですか?」

「え?えぇ、ちょっとね」

女性は優しく答えるが、どこか寂しげな表情を浮かべた。

少女は何かを感じ取ったのか、それ以上は聞かずに缶のプルタブをぱきんと開けた。

「……うん。なんか、思ったより甘いですね、これ」

「甘いの?」

「はい。ラベルに「爽やか」って書いてあったから買ったのに、完全に甘党向けですこれ」

そう言って、少女はぷはーっと息を吐いて、笑った。その仕草には、年頃の無邪気さと、少しだけ大人びた余裕が混じっていた。

「今日は、部活の遠征でちょっと遠くの学校まで行くんです」

「そうなの。どんな部活?」

「バドミントンです。あ、でも強いとかじゃないですよ。めっちゃ普通な感じで」

「それでも、夏に遠征って大変じゃない?」

「ほんとそれです。体育館、死ぬほど暑いですから。もう気温とか関係ないです、地獄」

女性がくすっと小さく笑うと、少女もそれにつられるように口元をほころばせた。

「でも、まあ。なんだかんだ、楽しいんです」

「そう、楽しいのが一番ね」

「はい。仲間もいるし、ちゃんと汗かくのも、なんか達成感あるし。……負けるのは嫌だけど」

少女は缶を揺らしながら、小さな声で続けた。

「勝てるとやっぱり、嬉しくて」

ジュースの缶に映る光が揺れ、少女の頬の輪郭をきらりと照らした。その横顔を、女性は優しく見つめる。

少女は缶ジュースを飲み終えると、小さく伸びをした。

「よし、捨ててこようかな……」

立ち上がりながら、手にした空き缶を軽く振って音を確かめる。そして女性の手元に目をやり、「もう飲み終わりました?」と聞いた。女性は軽く首を振って、缶を持ち上げて見せた。

「まだ少し残ってるの。気にしないで」

「了解です」

少女はそう言って、少し離れたホームの端にあるゴミ箱へと小走りで向かっていった。夏の陽射しが、その背中を照らしていた。

カシャン、と缶が落ちる小気味よい音が響いたとき――遠くから──

カン、カン、カン……。

規則的な踏切の警報音が響きはじめた。遠くのレールが震え、小さな振動が風とともに伝わってくる。

「えっ、電車来ちゃった」

少女は少し慌てた様子で駆け戻り、ベンチのそばに置いていた自分のバッグを掴んだ。ちょうどそのとき、列車の影がゆっくりとホームに差しかかる。

一両だけの電車が、ガタン、ゴトン……と音を立てながら滑るように止まった。

ドアが開く音が重なり、空気がすっと動く。

少女は女性に一礼するような小さな仕草をしてから、電車の入り口に立った。そして――ふぅ、と小さく息を吐く。ほんの一瞬だけ間を置いてから、ふり返り、ベンチに座る女性をまっすぐに見つめた。

少女は、へへっといたずらっぽく笑うと、軽く手を振った。

「いってきます!」

「えぇ。いってらっしゃい」

ドアが閉まり、列車がゆっくりと動き出す。少女の姿が、窓越しに少しずつ遠ざかっていく。手すりを掴み、外を眺めながら、最後までその笑顔を崩すことはなかった。

女性は、目を細めてその姿を見送りながら、呟いた。

「……いい子ね、本当に」

そしてまた、視線をスマートフォンへと戻していく。


ベンチの隣には、少女が残していった缶ジュースの水滴の跡が、小さな輪を描いていた。それも陽射しに焼かれて、やがて消えていく。陽炎の揺れるホームに、蝉の声だけが変わらず響いていた。


秋――

風がめっきりと涼しくなり、空は高く澄み渡っていた。春の賑わいも、夏の生命力も今は遠く、駅全体が静かな哀愁に包まれている。

ホーム脇の桜の木は、その葉を艶やかな赤や黄色に染め上げ、風が吹くたびに乾いた音を立ててはらはらと散らしていた。線路脇に落ちた一枚の紅葉が、まるで最後の輝きを惜しむかのように、午後の低い陽光を浴びて燃えるように色づいている。


ホームの白いベンチに、女性はひとり座っていた。夏よりも少し厚手のカーディガンを羽織り、膝の上に置かれたスマートフォンに視線を落としている。その指が画面の上をすっと滑り、何かを確かめるように止まったかと思うと、また静かに動き出す。やがて、指の動きがぴたりと止まった。

「これも、もういいわね」

ぽつりと、自分にだけ聞こえるほどの小さな声で呟く。その声に悲しみはなく、むしろ何かを慈しむような、それでいて手放す覚悟を決めたような、不思議な響きがあった。

指が画面に触れ、一つの動作を終える。

その瞬間、女性はわずかに眉をひそめ、寂しさが影のように表情をよぎった。


ふと顔を上げると、いつの間にか、数メートル離れた場所にひとりの少女が立っていた。

肩まで伸びた髪を揺らし、少し大きめの制服に身を包んだ、中学生くらいの少女だった。手には、表紙の絵が色褪せた文庫本を抱えている。

こちらに気づいているのかいないのか、ただホームの端に広がる景色を眺めていた。

女性は、その姿に自然と口元を綻ばせると、声をかけた。

「どうぞ。ここは広いから」

少女は驚いたように肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り向いた。女性の顔を見ると、ぺこりと小さく頭を下げる。

「あ、ありがとうございます」

その声はまだ少し幼さを残している。少女はためらうように数歩進むと、女性とは少し間隔を空けて、ベンチの端に腰を下ろした。

ぎこちない沈黙が二人の間に流れる。会話を交わすでもなく、ただ時折、風が紅葉を散らす音だけが響いた。

しばらくして、少女が膝の上の文庫本に視線を落としたのをきっかけに、女性が再び口を開いた。

「本が好きなの?素敵ね」

「あ、はい」

少女は少しはにかんで本を胸に抱き直す。

「面白い?」

「はい。でも、ちょっと不思議な話で……」

「不思議な話?」

「SF、なんですけど……」

少女は少し興奮したように膝の上の文庫本を撫でながら、一生懸命に言葉を探すように続けた。

「宇宙の果てを観測する船に搭載されたAIの話なんです。物語も全部、そのAIの視点で進むんですよ。感情とかは、ないはずなんですけど……でも、なんだか寂しい独り言みたいな文章で……。

何かをしたり、考えたりするんじゃなくて、ただひたすら『見る』こと、そして『記録する』ことだけが存在理由というか……。

なんだか、それってちょっと切なくないですか?たくさんの凄いものを見ても、何も感じられないなんて……。たった一人で宇宙の果てに向かって、これからどうなっちゃうんだろうって思うと、ページをめくるのが止められなくて」

「まあ、壮大なお話なのね」

女性は微笑みながら、どこか遠い目をして言った。その視線は、少女の語る物語の風景を、自身の記憶の中から探し出しているかのようだった。

少女は満足そうに本を膝の上に置き直し、表紙の宇宙船の絵を指先でなぞった。

「この船、一人ぼっちなんです。でも、少し羨ましいかも」

「どうして?」

「だって、たくさんのものを見て、覚えていられるから」

その時だった。

『……まもな……3……へ……が……ます。……ご注意……さい……』

不意に、ホームに設置された古いスピーカーから、ノイズと共に聞こえた音声は、まるで遠い記憶の断片のように、意味を成さないまま空中に溶けていった。

「……今の、何だったんでしょう?」

少女が不安そうにスピーカーを見上げる。

「さあ……。電車の案内かしらね」

女性は穏やかに答えたが、その声には確信がなかった。二人は顔を見合わせたが、それ以上何も起こらないことを確かめると、また視線を元に戻した。

「あの」

先に口を開いたのは少女の方だった。

「いつも、ここにいらっしゃるんですか?」

「ええ。あなたも、よくこの駅を使うのね」

「はい、学校の帰りに。でも、お見かけはしますけど、お話しするのは初めて、です」

「そうね。私も、あなたくらいの歳の頃は、この駅でよく電車を待ったわ。友達と、日が暮れるまでおしゃべりしたりして」

女性は懐かしむように目を細める。

「そうなんですか。どんなお話を?」

「ふふ、どんな話だったかしら。テストの点数が悪かったとか、好きなアイドルの話とか……。今思うと、どうでもいいことばかりね。でも、あの頃はそれが世界の全てだったの」

女性は一瞬言葉を切り、遠くを見つめるような表情を浮かべた。

「この駅は……色んな人と出会ったり、別れたりした思い出がいっぱいある場所なの。その中でもやっぱり……」

声が小さくなり、何かを思い出すように瞳が揺れる。

「やっぱり?」

少女が純粋な好奇心で聞き返すと、女性ははっとしたように我に返った。

「……ううん、何でもないの。昔のことよ」

そう言って微笑んだあと、少し間を置いて付け加えた。

「ここは私にとって特別な場所なの」

女性の言葉に、少女は「分かる気がします」と小さく頷いた。少しだけ二人の間の空気が和らいだように感じられた。

その時、少女が「あ」と小さな声を上げた。

視線の先、女性の足元に、一枚のハンカチが落ちている。淡い水色に、白い縁取り。使い込まれて、少しだけ布地が薄くなっている。

「あの、ハンカチ、落ちてますよ」

少女はそれを拾い上げ、丁寧に埃を払ってから女性に差し出した。女性は差し出されたハンカチを見て、一瞬、戸惑ったように目を瞬かせる。

女性はハンカチを拾うと、その感触を確かめるように、いつくしむように、優しく胸の前で握りしめた。

「……ありがとう」

『まもなく、一番線に、電車がまいります。白線の内側まで、お下がりください』

今度は、はっきりとしたアナウンスがホームに響き渡った。遠くから、レールを渡る電車の音が近づいてくる。少女ははっとして立ち上がり、スカートを整えた。

「あ、私、これに乗らないと」

そして、ベンチに座ったままの女性を見て、不思議そうに首を傾げる。

「……乗らないんですか?」

「ええ。私は、いいの」

女性は僅かに微笑んで首を振った。

「そうですか……。じゃあ、お先に失礼します」

少女はもう一度ぺこりと頭を下げ、電車の方へと歩き出す。

その背中を見送りながら、女性は手の中のハンカチをそっと握りしめた。

電車のドアが開く直前、少女はふと足を止め、ほんの一瞬だけ、振り返りそうに肩を揺らした。だが、結局こちらを向くことはなく、そのまま何も言わずに電車へと乗り込んでいった。

やがてドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出す。窓の向こうで、少女の姿はあっという間に小さくなっていった。

電車が去り、静寂が戻ったホームで、女性はただじっと、遠ざかる線路の先を見つめていた。


秋の風が、また一枚、紅葉を運び去っていく。


冬――

空は鉛色に垂れ込め、音もなく雪が舞い降りていた。音もなく降り積もる白い結晶が、世界のすべてを優しく包み込んでいく。

駅舎の屋根も、ホームも、線路も、あの桜の木も、すべてが同じ白に染まり、境界線さえも曖昧になっていた。風はなく、ただひたすらに静謐な空間。

雪が地面に触れる、かすかな音だけが、この世界がまだ時を刻んでいることを教えてくれる。


ベンチに座る女性の肩にも、膝にも、うっすらと雪が積もり始めていた。けれど彼女は、それを払うこともなく、ただじっとスマートフォンの画面を見つめている。画面にはもう、ほとんど何も残されていなかった。

「これが、最後ね」

指先が、最後の項目に触れる。そこに躊躇いはなく、穏やかに、確かに。


そして――

「あっ!」

小さな声が、静寂を破った。女性が顔を上げると、駅舎の柱の陰から、ちょこんと顔を覗かせている小さな姿があった。赤いマフラーに顔の半分を埋めて、大きな瞳でこちらを見つめる小学生くらいの少女。女性の口元が、自然とほころぶ。

「こんにちは」

優しく声をかけると、少女は柱の陰からもう少しだけ顔を出した。警戒するような、でも好奇心に満ちた瞳が、じっと女性を観察している。

「こんにちは」

小さな声で返事をしたあと、少女はそろそろと柱から離れた。足元の雪を踏みしめる音が、ざくざくと響く。女性は微笑んだまま、隣の空いているスペースを軽く叩いた。

「ここ、空いてるわよ」

少女は一瞬迷うように立ち止まり、それから思い切ったように駆け寄ってきた。

「あの、ありがと!」

元気な声と共に、ベンチの端にちょこんと腰を下ろす。

けれど、すぐには女性の方を見ようとせず、自分の手袋をいじりながら、ちらちらと横目で様子をうかがっていた。

「寒いわね」

女性が穏やかに話しかけると、少女は勢いよく頷いた。

「うん!でも雪、好き!」

「そう。私も好きよ」

「ほんと?」

少女の顔が、ぱっと明るくなる。さっきまでの警戒心が、雪のように溶けていくようだった。

「おばさんも雪だるま作る?」

「雪だるま?」

「うん!あそこ、いっぱい積もってるから!」

少女が指差す先、ホームの端には確かに、誰も踏んでいない新雪が厚く積もっていた。女性は少し考えるような素振りを見せてから、ゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ、一緒に作りましょうか」

「やったー!」

少女は飛び跳ねるように立ち上がり、真っ先に雪の積もった場所へと駆けていく。小さな足跡が、真っ白な雪原に点々と続いていく。

その無邪気な後ろ姿を、女性は愛おしそうに見つめながら、ゆっくりと後を追った。

「まずは、ちっちゃい玉から!」

少女は手袋をした小さな手で、一生懸命に雪を丸め始める。女性もその隣にしゃがみ込み、同じように雪を手に取った。

「こうやって、ころころーって」

「上手ね」

「お母さんに教えてもらったの」

無心に雪を転がす少女の横顔は、頬を赤く染めて、瞳をきらきらと輝かせていた。二人で作った雪玉は、少しずつ大きくなっていく。時折、少女が「重い〜」と言いながらも、諦めずに押し続ける姿に、女性は何度も微笑んだ。

「できた!」

土台となる大きな雪玉が完成すると、少女は満足そうに腰に手を当てた。

「次は頭!」

また新しい雪玉を作り始める少女。女性も手伝いながら、自然と笑顔がこぼれる。

「おばさん、持って!」

「え?」

「頭、のせるの!」

少女が両手で抱えた雪玉を、女性に差し出す。一緒に持ち上げて、慎重に土台の上に乗せた。

「やったね!」

「ええ、素敵な雪だるまね」

二人で作った雪だるまを前に、少女は誇らしげに胸を張る。女性は優しく雪だるまの頭を整える。まるで、誰かの髪を撫でるような手つきで。

少女はその様子を不思議そうに見ていたが、すぐにポケットから小枝を取り出して、顔を作り始めた。

「目はここで、口は……」

夢中になって飾り付けをする少女。その様子を見守っていた女性は、ふと空を見上げた。雪は相変わらず、音もなく降り続いている。

「あっ!」

突然の声に振り向くと、少女が雪の上に転んでいた。

「大丈夫?」

女性が駆け寄ると、少女は手袋を外して右手を押さえている。見ると、手のひらに小さな擦り傷ができていた。

「いたい……」

涙目になる少女を見て、女性は慌てて自分の持ち物を確認する。

すると、コートのポケットから一枚のハンカチが見つかった。淡い水色に、白い縁取り。

(これは……)

一瞬の戸惑いを振り払い、女性はそのハンカチを少女の手に優しく巻いた。

「これで大丈夫よ」

「……ありがとう」

少女は、巻かれたハンカチを不思議そうに見つめてから、にっこりと笑った。遠くから、電車の音が聞こえてきた。

「あ、電車!」

少女は立ち上がり、慌てたようにベンチの方へ駆けていく。女性もゆっくりとその後を追った。電車がホームに滑り込んでくる中、少女は振り返った。

「おばちゃん、乗らないの?」

「うん、おばちゃんはまだ用事があるの」

「ふーん」

少女は不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑顔になった。

「じゃあ、またねっ!」

「うん、ばいばい」

手を振りながら電車に乗り込む少女。ドアが閉まり、ゆっくりと動き出す車内から、まだ手を振り続けている小さな姿が見えた。やがて、電車は雪の中へと消えていった。


一人残されたホームで、女性は振り返り、二人で作った雪だるまを見つめる。手を伸ばし、その冷たい頭を愛おしそうに撫でた。

「あの子、誰だったのかしら……」

呟く声に、悲しみはない。ただ、深い慈愛に満ちた、穏やかな微笑みがそこにあった。膝の上のスマートフォンを手に取る。画面にはもう、何も映っていない。


「これでぜんぶ」

指先が画面に触れた瞬間――スマートフォンは、すべての情報を失い、ただ白く、発光した。その光は、降り積もる雪に反射して、まるで小さな冬の星のようだった。女性はしばらくその光を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がる。足元の雪が、さくさくと小さな音を立てた。雪は変わらず降り続き、世界のすべてを、穏やかに、白く、包み込んでいく。


白く発光するスマートフォンを見つめたまま、女性はベンチへと戻っていく。その時だった。改札の向こうに、誰かが立っている。最初は、雪に紛れてよく見えなかった。ただ、そこに誰かがいる、という気配だけ。女性は目を細めて、その影を見つめる。雪が一瞬やみ、視界が晴れた時――そこには、静かに佇む少女の姿があった。

「……あなたは?」

問いかけに、その人物は小さく『ユイ』と答え、ゆっくりと歩み寄ってきた。足音はなく、まるで雪の上を滑るように、自然に距離を詰めていく。

『ここは、あなたが選んだ記憶の終わり』

少女の声が、雪の中に溶けていく。

「選んだ?」

『ええ。あなたは少しずつ、大切なものを手放してきました』

スマートフォンを操作していた、あの指先の動き。何かを眺めては、指を滑らせた、あの仕草。

「私は……何を……」

『あの子との思い出のカケラを、一つずつ手放していた』

女性の瞳が、かすかに揺れた。

「なぜかしら……名前も思い出せないのに、どうしてあの子が、あんなにも……」

声が震える。理解できない感情が、胸の奥から溢れているかのように。

『それが「忘れる」ということです。形は消えても、想いだけは残る。それでも、愛おしかったのでしょう?』

女性は答えられない。ただ、目には涙が浮かんでいる。

「私……私は本当に、忘れたかったの?」

『いいえ』

ユイは首を振る。

『あなたが手放したのは、記憶に囚われないように、という願いからでした。でも――』

ユイの視線が、雪だるまへと向けられる。

『最後まで、手放せなかったものがありましたね』

女性は、はっとして自分のコートのポケットに手を入れる。そこには、もうハンカチはない。あの子の手に巻いてあげたから。

「……あのハンカチ」

『ええ。何度捨てても、戻ってきた。あなたの想いが、形を変えて現れ続けた』

ふと、口をついて出る。

「……さくら?」

その名前を口にした瞬間、女性は駅のホームを振り返った。春の笑顔、夏の元気な声、秋のぎこちなくも純粋な姿、冬の無邪気な仕草――全てが、一人の大切な存在の記憶だった。もう一度振り向き、駅を見る。当然、少女の姿はない。ただ、雪だけが降り続けている。

「もう、会えないのね」

『ここでは、もう』

ユイの言葉に、女性は白く光るスマートフォンの画面を見つめた。何も残っていない。

でも――「でも、よかった」

女性は、優しく微笑んだ。

「あの子は、ちゃんと前に進んでいたのね。私のことなんて気にしないで、自分の人生を」

ユイは何も言わない。ただ、その微笑みを見守っている。

『行きましょうか』

女性は、最後にもう一度、雪だるまを振り返った。

「ありがとう、さくら」

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