一番目のフーガ ~美貌の民俗学者と、脳をハックする魔術師~

保坂 桃舟

第1話 空虚なアセット

「あのさ、後輩には遠回りして欲しくないんだよね」


「はぁ……」


 七条 みゆきは、顔を引き攣らせながら返事をする。


 彼女の目の前には、小ざっぱりとしたワイシャツにチノパンと最大限に清潔感を追い求めたような茶髪の男がいる。


「とにかく君はまだ1年生だからとか思っているかも知れないけど、あっという間、ホントあっという間に3年生になってさ、就活が始まっちゃうわけよ」


「はぁ……」


「で、毎日のコーヒー一杯分の出費をさ、“資産側”に回すだけでさ、もう安心感がレベチなわけよ。これを教えてくれた去年の先輩はさ、1年続けたんだけど、もう心の余裕が違うからさ、焦るとか緊張とか無縁で就活に臨めて、ーー銀行に見事内定したんだよ」


 爽やかな表情とは裏腹に、見開いた眼は微動だにせずにみゆきを見据えている。


「……私アルバイトしていますし、特に使うあてもないので、貯金もしていますから……」


 フフ……茶髪男の口から笑いが漏れる。明らかに目の色が変わった。みゆきの中で不安が首をもたげる。


「ダメだよ七条さんーーそんな意識じゃ全くダメ!」

 茶髪男は勝利を確信したように、声のトーンを一段上げて、食いつくようにテーブルに身を乗り出す。


 適当に濁して話を終わらせようとしたのが裏目に出たようだ。

 

 そもそも、帝邦大学 文学部 国文科の1年生である七条 みゆきが、何故によく知らない茶髪の男に絡まれているのか。



 きっかけは30分前に遡る。



 その日、みゆきは履修している2限の語学講義が休講となったため、親友の里見 知佳に連絡を取って、少し早めのお昼を学食で取ろうかと考えていた。


 生憎、知佳とは連絡が取れなかったため、気づいてくれたらいいな程度の気持ちでメッセージを送っておき、購買部へ向かう。


 購買部の店内をフラフラと物色していると、不意に視線を感じ振り返る。


 すると、そこには茶髪で清潔感のある出立ちの男が、笑みを浮かべながらみゆきを見つめていた。


「確か、七条さんだよね?」


 男は目が合うと、すかさず寄ってきて話しかけてきた。


「はい……そうですけど……」

 果たして、どこかであったことがあるだろうか、みゆきは猛スピードで記憶をひっくり返すが、思い出せない。


 男はそんなみゆきの様子を察したかのように、笑顔になると、


「ハハハ、急にごめんね。びっくりさせちゃって。僕は投資研究サークル『金融投資攻略研究会』の2年、川原田 仁。新歓期間にうちの研究会を見に来てくれてたでしょ?」


 と言った。


 そう言われても、みゆきは全く記憶がなかった。新入生歓迎期間に色んなサークルなどを回ったのは確かだが、何しろ新しい生活に舞い上がって、同級生らについて回るのがやっとだったからだ。


 だが、目の前の男はみゆきの苗字を呼んでいたので、恐らくその『金融ナントカ』と言うところにもお邪魔していたのだろう。


「はぁ……その節は……」


 どう対応してよいか分からず、つい適当に返す。


 だが川原田は気にする様子もなく、笑顔を崩さない。


「でさ、どうだった? うちの研究会。興味湧いたかな?」


「え? いや……」


 なるほど、部員勧誘のダメ押しに来たのか、みゆきは察した。


「その……すみませんが、私にはまだ早いというか、難しいというか……ええ、申し訳ないのですが……」


 きっと相手も大変なのだろうと同情し、傷つけないよう慎重に言葉を選ぶ。

「ああ、そう思ってるんだ~。いや、早いなんてことないよ。うん、遅いくらいだ!」


 逆効果だった。


「今この日本じゃインフレ傾向にあるんだ。インフレは要するにお金の価値が下がること、勿論悪いことばかりじゃないけど、モノの値段が相対的に高くなることは分かるよね? でも多くの企業でそれに見合った賃上げなんてされてないんだ。雀の涙ばかりの賃上げもどきでお茶を濁している状態。そんな中で生き残るためには投資を学び、自ら投資をして、資産を生み出していかなきゃいけないんだ。誰の助けも借りられない、自分自身で身を守るんだ。僕たちはそのために金融工学を基点にマーケットの動向を予測し……」


 川原田は目を爛々と輝かせ、早口でまくしたてる。もはや愉悦の境地だ。


 これはまずいのに捕まった。そうみゆきが思ったとき、スマホの通知音が鳴った。


 通知の主は、親友の里見 知佳だ。みゆきのメッセージに気づき、あと30分くらいで合流できる旨を知らせてくれた。


 まさに天の配剤、神の助け。


 みゆきは、目の前で狂ったように舌を動かす茶髪男をこれ以上刺激しないよう、ことさらに済まなそうな表情を作って、


「あ……すみません、友人と待ち合わせがあるので、申し訳ないのですが、これで……」


 そう言って横をすり抜けようとした時、川原田に腕をつかまれた。


「ちょ!」


 みゆきは腕を振りほどこうとしたが、見た目に反して川原田の力は強い。男は腕をつかんだまま、みゆきのスマホをのぞき込んできた。


「ん~、はいはい。お友達と会うのは30分後ね」


 みゆきは頭にカッと血が上る。


 だが川原田は睨みつけられても笑顔を崩すことなく、


「いやぁゴメンゴメン。また驚かせちゃったね。いや、ほんとゴメン! 謝りついでになんなんだけど、お友達を待つまでの30分間を僕にくれない? ホントこの通り!」


 顔の前で手を合わせ、頭を下げた。


「いえ、結構です」


 いい加減頭に来ていたみゆきは、早足にその場を後にする。


「え~、お願いだよ七条さん~! 悪い話じゃないんだよ~」


 それでも川原田はしつこく追いかけてきた。


「ほんと30分でいいからさ~! お願いだってば~!」


 川原田はどんどん声のボリュームを上げてまとわりついてくる。


 みゆきの怒りは限界をとうに超えているが、流石にここで得意の合気道で締め上げるわけにもいかない。ここで騒ぎを起こさせて、みゆきを”加害者”に仕立て上げることすら狙っているのかもしれない。


 とにかく人のいるところに行かねば。


 みゆきが周囲を見渡すと、学生用カフェテリアが目に入った。


 ほとんど走るようにしてカフェテリアに逃げ込む。


 だが、川原田もためらうことなくついてきた。


「七条さんさ~! 30分でいいんだって! お願いだからさ!」


 人ごみにくれば、少しは収まるかと思ったが、川原田はさらに声を張り上げた。


 周囲の学生は何事かと好奇の目、あるいは同情の目を向ける。


 ”しくじった”


 想定以上の川原田の厚かましさに、むしろみゆきの逃げ場がなくなってしまった。


 みゆきは大きく溜息をつくと、


「わかりました……30分だけどうぞ……」


 と観念した。


 川原田は嬉々として、手近なテーブル席にみゆきを座らせると、演説の続きを始めた。



 それが30分前。



 約束の時間は来たが、川原田の長広舌は終わる気配がない。


 みゆきたちの周りは、まるで爆弾でも落ちたかのように学生たちが避けて誰もいない。


 げんなりして演説を止めようとしたみゆきの前に、唐突に一枚の紙が差し出された。

 

『入会届』


「これは……?」


 みゆきは不安になりながら訊ねる。


 川原田はニヤリと笑うと、


「いままで話したのは、僕らの活動のほんの一部なんだ。僕は七条さんにも人生の勝ち組になってもらいたいんだ。僕たちの会に入れば、ほかの大学の同じような志をもった学生や、プロの現役トレーダーの裏話とか聞けるんだ。悪い話じゃないでしょ?」


 と言ってボールペンを差し出す。


「いえ……私は結構です」


 みゆきは声を絞り出す。


 川原田は大げさに溜息をつくと、


「わかってないなぁ七条さんは。これはチャンスなんだよ。人生の中で何回あるか分からないビッグチャンスなんだ。一度でもいいからさ、話を聞きにおいでよ。気に入らなければ退会すればいい話なんだから」


 そう言って、さらにボールペンを突き出す。


 みゆきはもう、面倒くさくなって、書いてしまえば楽になれるのかも、と、ボールペンに手を伸ばした。


 すると突然、目の前の紙が横からひょいっと取り上げられた。


 みゆきと川原田はハッとして顔を上げる。


「なんの騒ぎ? これは」


 テーブルの横に仁王立ちし、取り上げた紙をひらひらさせながら無表情に尋ねてきた美少女。


 みゆきの親友、里見 知佳だった。

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