第12話 味方の壊滅と眠れる氷姫
第十一師団のもとに届いた報は、冬の空に落ちた黒い雪片のように重かった。
ロストフ帝国軍の侵攻、そして第一師団の壊滅——。続いて第二、第三師団の壊滅も伝令により確認されると、師団長ソルダーノの顔からは色が失われた。
参集した連隊長たちの目には、初めて見るほどの狼狽と恐怖が宿っていた。
総司令部は第五師団に置かれていたが、予想以上の甚大な被害に驚愕し、直ちに「氷姫」対策会議を始めた。
この事態を受け、第十一師団には緊急の援軍要請が届き、彼らは即座に指定された方面への移動を開始した。
その頃、移動中の馬車に揺られながら、バルトロメアはデメトリオの安否を案じていた。
しかし、今は与えられた重大な任務に集中するしかない。
彼女は、「猫の目」を通して、氷姫の状況と、ロストフ兵の様子を注視していた。
猫の視界に映ったのは、奇妙な停滞だった。軍勢は進むべき道で足を止め、まるで上層部からの新たな命令を待っているかのように、不自然に静止していた。
「氷姫が……眠っているのです。一昼夜眠り続けています」
バルトロメアは、ナルディーニ中佐に報告した。
「氷姫が眠ったままなら、敵は動けない。だが、敵が完全に停止している今が奇襲の好機だ。騎兵隊による夜襲を仕掛ければ、主軸の後方を掻き乱せる」
とナルディーニは低く言った。
彼の頭の中で幾つもの地図が重なり、夜の影が作戦図を染めた。
だが、出撃停止の命令が下りたわけではない。
第十一師団は移動を開始し、やがて第五師団の後方に布陣した。寒風が草原を吹き抜け、兵たちの息が白く立ち上る。
爪先で地面を踏みしめる馬の蹄が、不安な打楽器のように響いた。
その夜、ナルディーニは参謀本部行きを決めた。
彼の狙いはただひとつ——上層部を説得して、氷姫の状況を踏まえた機動作戦を承認させることだった。
幸運にも参謀本部には彼の旧知の士官がいた。
古い人間関係は、戦場においては時に武器よりも有効だ。
参謀本部のテントには、簡素なテーブルと戦術図が置かれている。
デオタート参謀総長は、かつてナルディーニの上官であり、年輪の刻まれた顔には経験の光と疲労が混じっていた。ナルディーニは敬礼をした。
「デオタート参謀総長、ナルディーニ中佐です。至急お耳に入れたいことがございます」
デオタートは一瞬、表情を硬くしたが、すぐに頷いた。
「ナルディーニか。言え」
「密偵の確かな情報により、氷姫の位置と状況を把握してます。ロストフ軍は現在停止中。奇襲攻撃のチャンスです」
ナルディーニは地図の上に指を這わせ、敵陣の配置の中、氷姫のいると思しき位置を示した。
「氷姫が体調不良で眠り、起き上がれないということです。現在、敵の攻撃力は相当低下しています。わたしは騎兵を率いて夜襲をかけ、氷姫を殺害します。短期で撤収します。その後、全軍を挙げて総攻撃を開始します。被害は最小に抑えられるはずです」
デオタートはナルディーニを見つめる。
沈黙が一拍、長く流れる。
「君の案は次善の策だ」とつぶやいた。
「最善は、氷姫の拉致だ」
ナルディーニは思わず息を飲んだ。
「拉致、と?」
デオタートの眼差しが一段と鋭くなる。
「聞け。ロストフ皇帝は氷姫を見初め皇妃に迎えるつもりだ、という内通者の情報がある。戦功で名を上げ、皇妃の座を与えるというのだ。もし我々が氷姫を捕らえ人質にできれば、金銭的要求だけでなく講和交渉を有利に運べる。戦局を一変させるカードになる」
ナルディーニはその言葉の重みを噛みしめた。
「それは確かな情報なのですか?」
ナルディーニは問い返す。
「スパイ筋からの報告だ。確実とは言えぬが、十分に信頼できる」
とデオタートは答えた。
ナルディーニは地図を凝視した。夜の地形、凍てつく小川、林と丘陵、それらすべてが作戦の重要な要素だった。
彼は自身の騎兵隊を思い描く。鉄の蹄を鳴らし、銃弾を浴びせ、短時間で混乱を引き起こし氷姫を拉致し撤収する、迅速な攻撃だ。
しかし、もし拉致となれば、さらなる準備と冷静さが要求される。
人質を取る者は、その後の責任を全うしなければならない。
「それで、具体的な作戦は?」
ナルディーニはさらに踏み込んだ。
「わたしも参加できますか?」
デオタートはわずかに微笑んだ——それは慰めではなく計算の微笑だった。
「参加してもらう。特別小隊を編成する。人員は精鋭のみ。君はその指揮を執ることだ」
ナルディーニの心臓が早鐘のごとく打つ。指揮官としての誇りと、仲間への責任が混ざり合う。
デメトリオの安否はまだ不明だ。
拉致が成功すれば、彼らの生存の可能性を上げることにも繋がるかもしれない。
「準備を始めます」
とナルディーニは短く答えた。外套を掴む手に力が入る。
窓の外、夜は深く、冬の星が冷たく瞬いていた。
彼の胸には、これまでとは異なる決意が燃えていた——戦術だけの勝利ではなく、国の未来を左右する賭けに手を伸ばす覚悟だ。
参謀本部を出たナルディーニは、行く先々で精鋭の名を頭に浮かべた。
馬術に長け、暗闇に強く、短時間で任務を遂行できる者。彼らを集め、夜の風に混じって敵陣へと殴りこむ日まで、時間は限られている。
一方、バルトロメアは、再び氷姫の猫に意識を深く同調させていた。
程なくして、近くにいた兵士たちの粗い会話が微かに聞こえてきた。
「氷姫殿は、一体いつまで眠り続けるんだ?」
「ああやって、大規模な戦争で魔力を使い果たした後は、決まって三日間は眠り続けるんだよ」
バルトロメアは戻ってきたナルディーニに、この重要な情報を報告した。
「――そうか。となると、作戦は明後日ではなく、明日しかないということか……」
ナルディーニは顔を歪め、苦くつぶやいた。
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