第11話 青の肖像

朝の光が、ギャラリーの白壁をゆっくりと染めていく。

その中央に、一枚の絵が静かに飾られていた。

タイトルは〈Nocturne Blue〉。


絵の中には、六つの影が描かれている。

交わることのない歩幅で、それぞれが別の方向へ進んでいる。

けれど、彼らの足元を照らす“青”は、ひとつにつながっていた。



開場前の静けさの中、

静子は筆を置いたまま、

その絵を見つめていた。


——これでいい。

どの影も未完成のままで、きっといい。


亡き夫の絵具箱の中から見つけた最後の青。

それが、この作品の“始まり”だった。


彼女は深呼吸をして、

胸元のスカーフを整える。

まるで今日が、人生の一区切りのように。



扉が開く音。

一人目の来場者は、

美咲だった。


足を止め、絵を見上げる。

その青の奥に、

USBの光が一瞬だけ重なる。


あの夜、拾った“誰かの夢”が、

こうして形になっている。


——開けなくてよかった。

彼女は微かに笑う。

知らないままの方が、美しいこともある。


ポケットの中のUSBは、

もう彼女の手を離れていた。



窓際の席で、

律が小さくギターの弦を弾いた。

展示のBGMにまぎれるように、

静かなアルペジオが空間を満たしていく。


その音を聞いた静子がふと振り向く。

二人の視線が、わずかに交わる。

言葉はない。

けれど、

その一瞬で十分だった。


絵と音。

かつて誰かが描いた“夢の設計図”が、

確かに息をしている。



入り口近くでは、

沙織が取材ノートを閉じた。

記事のタイトル欄には、

まだ文字が書かれていない。


“夢は形になると、静かになる”

——そう書こうかと思ったが、やめた。

この静けさは、

言葉よりも確かなものだと思えたから。



少し離れた駐車場。

吾郎は、

車の中で小さく息を吐いた。

個展の案内状を受け取ったとき、

なぜか来てみようと思った。


降りる勇気はなかったが、

窓越しに見えた青い光だけで、

もう十分だった。


ハンドルの上に、

封筒の切れ端が落ちている。


信号は、いつか青になる。


彼は笑い、

キーを回した。

ゆっくりと車が動き出す。

青信号が、その進路を照らす。



そして、

展示の片隅。


和也は立ち尽くしていた。

静子の描いた絵の中に、

自分の夢のかけらが確かにあることに気づいた。


USBの中にあった“青の設計図”——

あれは、自分が諦めたもの。

けれど今、それは彼の手を離れて、

別の形で生きている。


彼は静かに呟いた。


「ありがとう」


その声は誰にも届かなかったが、

静子はふと筆先を見つめ、

理由もなく微笑んだ。



夕暮れ。

展示が終わり、

灯りがひとつずつ消えていく。


ガラスの外では、

雨上がりの街が青く光っていた。


カフェ〈ノクターン〉の看板が見える。

そこには、新しい文字が加えられていた。


ノクターン・カフェ——青が灯る場所


美咲は歩き出した。

傘を差さずに、雨の名残をそのまま受けながら。


信号が青に変わる。

それぞれの歩幅が、静かに未来へと向かっていく。


夜はもう、

ノクターンではなく、

新しい朝の色をしていた。



(エピローグへつづく)

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